第四話
「そもそも禊君は、何で彼方と付き合おうと思ったの?」
危うくお茶を噴き出しかけた僕は、最中で口を塞ぐと言う強行策に打って出た。
不知火家。
リビング。
不知火サンが言っているほど、室内は汚れていなかった。むしろ整然としていて、掃除が行き届いている。
僕と桜サンはテーブルに向かい合って座っていた。不知火サンは私服に着替えてくるらしく、自室で着衣を行っている。
テーブルクロスの敷かれたテーブル。その真ん中には、最中の内包された箱。手前の方には湯飲みに注がれた茶。
目の前には着物姿の女性。
「ぼぼぼ、僕は、その」
「いや、質問を変えるわ。あなたと彼方、どちらが先に告白したの?」
「そ、それは……不知火サンからです」
「なるほど。彼方の方から好きだって言ったわけね。まぁ、あの様子じゃぁ、そうよね。なんだか若いころの自分を見てるようで、どうにも感慨深いわ」
「と、言うと?」
「私もね、さっきの彼方みたいに今の旦那とラブコメしてたのよねぇ、これが。それも彼方くらいの年頃で、こっちから一方的に好き好き言ってたわ」
「はぁ」
「旦那もね、時々私の行動に引いたり、驚いたり、困ったりするの。その顔がまた傑作で、かわいくてね、一回我慢できなくなって公衆の目の前でチューしたこともあった気がするわ。今思えば、そのときの私は徹底的に旦那に骨抜きにされてたのよ」
桜サンは遠い目をして、頬杖をついた。その表情に笑みが浮かぶ。どうやら夫婦仲も良好であるらしい。
「私はね、ここから一キロくらい先にある茶道教室の先生をやってるんだけどね、教え子の生徒がよく最中とか羊羹とかをくれるの。けど、私と彼方二人じゃどうしたって食べられないから、もっとたくさん食べていいわよ。そんなに遠慮しなくてもいいから。何なら余ってるから、貰っていっても結構よ」
だから着物姿なのか、と合点した僕は、やはり桜サンの勧めを辞退した。そして不知火サンのひたむきな性格は桜サン譲りなのかもしれないと思った。
それは桜サンも感じていることなのか、「彼方の性格も、やっぱり私に似たのかしらねぇ」と面白がるように言った。「あの嫉妬深いところも遺伝したのよ。ふふふふ、末恐ろしいわねぇ」
と言う割りにまったく怖がっていない桜サンは、艶麗な微笑を浮かべた。桜サンの話から類推するに、きっとこの人の年齢は、おそらく四十代前後なのだと思う。ひょっとしたら、学生結婚なのかもしれない。
「それでね、禊君」と先ほどの様子から一転して、神妙な面体を作る。「あなたは私の娘と縁付くつもりなのかしら?」
「……縁付くってその……結婚ってことですか?」
とは言うものの、ひどく現実感が薄い。
一応後一回誕生日を迎えれば、祝言を挙げることはできる。
けど、今までそんなことを一度も考えたことのない僕には、画餅に等しいことだった。
「そうよ。何かおかしいかしら」
「おかしいってわけじゃないんですけど……それは早いような気もします。僕も不知火サンもまだ学生ですから」
「別に年齢的に見てもそう早くはないんじゃない? 私も十九で旦那の家に輿入れしたわ。だから、まるっきり早いってわけでもない」と桜サンは最中の封を切った。「今の彼方を見てると、昔の私とそっくりなのよ。純粋と言うか、盲目と言うか……。まぁ、あの子が寂しいって泣きついてきたら、そっと抱きしめてあげるくらいしてほしいわ。それが彼方の母としてのお願い。いいかしら?」
桜サンは閃々とした目を僕に傾ける。きっとこの女性は人をひきつける磁気のようなものを持っていた。
「はい」と返事をしていた。
そんなこと、まだ分からないのに。
これからどうするか、決めてないのに。
「おまたせ」
と。
襖を開ける音がしたと思ったら、Tシャツ姿の不知火サンがいた。膝丈の黒いスカートをはいている。頭には綺麗なかんざしが刺さっていた。
僕の姿を認めた不知火サンは、瞬時に僕の手を握った。そのまま引き摺るように引っ張る。「行こ」
「って、最中は」食べないの。
不知火サンは勢いよく回れ右をして、テーブルの上の最中を鷲掴みした。そして、桜サンに「いぃー」と唇を突き出した。
一方の僕は不知火サンに引っ掻き回され、テーブルの角に腰を打ちつけ、悶絶していた。
「ワタシの部屋、行こうね」と無機質な声で、僕に呼びかける。不知火サンは指同士を複雑に絡めて、再度襖を開いた。その奥には木製の階段が見えた。どうやら不知火サンの私室は二階にあるようだった。
不知火サンはずんずんと進んでいく。どこか怫然とした様子だった。
「機嫌が悪いね」僕は言った。
「……ワタシ以外の人と喋らないでって言ったのに、お母さんと仲良く喋ってたからだよ」
「…………」
「紅花君が他の女の人と喋るの、イヤ。紅花君が他の女の人に笑いかけるの、イヤ。ワタシとだけ喋って、ワタシにだけ笑いかけてくれればいい」
「…………」
「ワタシ以外の女の人に触れるのも、イヤ。ワタシ以外の女の人を見たりするのも、イヤ。ずっとワタシのそばにいて、ずっとワタシだけを見ていてくれればいい」
「…………」
「それで、お母さんと何喋ってたの?」
「あっ、うん。なんだろう。結婚、の話かな」
「……結婚って、ワタシと紅花君とってこと?」
「不知火サンのお母さんが、僕に不知火サンと結婚する意志はあるのかって聞いてきたんだ」
「……紅花君は、したい、かな? 結婚。ワタシとしたい? ワタシはね、してもいいよ。ちょっと大変そうだけど、紅花君と一緒になれるなら、ワタシ、幸せだから」
「僕は……まだ分からない」
「……そうだよね。まだ付き合ったばっかりだから、悩むよね。けど、大丈夫。すぐにワタシの魅力でメロメロにしてあげるから」
不知火サンは僕の腕を掴んで、僕の頬に頬擦りをした。絹のように弾力性のある肌。果実のように甘い体臭が鼻腔に侵入してくる。
「紅花君のほっぺって柔らかいんだね。それとね、紅花君。ワタシの唇も柔らかいんだよ。……試してみる?」
不知火サンは動物的な動きで舌なめずりをした。色素の抜け落ちた瞳が艶美の色に染まる。
階段を駆け上がる僕と不知火サン。不知火サンはねっとりとした動作で僕に戯れる。病的なそれは、形容しがたい危うさを内在させている。
不知火サンの私室。
前述のとおり、不知火サンの部屋は無駄を削ぎ落とした部屋だった。勉強机に棚、茶箪笥。部屋の隅には畳まれた蒲団があって、白色のカーペットが敷かれてある。床には何も落ちていない。整理されている。
「適当に座って」と僕を解放した不知火サンは、押入れの方に向かっていった。言われたとおり、カーペットの敷かれた床に腰を下ろす。
不知火サンは押入れの襖を開けていた。テーブルのようなものを探しているようだった。手伝おうと思って立ち上がろうとしたけど、タイミングの悪いことにちょうど不知火サンが小型テーブルを持ってきていた。角のない、丸いテーブルである。不知火サンはそれを僕の目の前において、テーブルに顎をくっつけた。ごろんと頭の側面を寝かせ、じーっと僕を見る。時折、「にへー」と締まりのない笑みを浮かべた。それで時間が過ぎる。
気がつけば五分が経過していた。
僕は不知火サンの不思議な態度に首を傾げる。
「……何?」
「しあわせーって思ってた」
「……何が?」
不知火サンは天使のような笑みを浮かべた。「ワタシね、紅花君を見てると、胸がポカポカして、幸せな気持ちになって、このままこうしててもいいかなって思った」と不知火サンは蛇のように手を伸ばし、向かい側の僕の右手を握り締めた。その後、後ろにある蒲団を指差す。「それとね、眠くなったら、蒲団があるから寝ていいよ」
「使うつもりはないよ」
「へぇー。紅花君は睡眠を取らずに生きていられるんだ。珍しいね。睡眠いらず?」
「……そんな人間いないよ。そういう意味じゃなくて、僕はここで寝るつもりはないってこと」
「え? ワタシの家に泊まっていくんじゃないの?」
「え。すでに泊まる前提? んなバカな」と思わず、口にする。
すると右手が鎖に縛られたような圧迫感に襲われる。どうやら不知火サンが手に力を込めているらしかった。ぎゅうと信じられない力で僕の右手を握りつぶそうとする。
「……痛い」
「あっ、ごめん……。つい、その……ごめん」と無意識の行動だったのか、あわてて右手の拘束を解く不知火サン。
僕の右手は霜焼けになったみたいに赤く腫れていた。ジンジンと痛む。
それを見た不知火サンは大いに狼狽して、僕の右手を両の手で包み込んだ。しきりに、「痛くない痛くない」と呪文のように呟いている。
人間としての欠陥を感じさせる。
「大丈夫だよ。ちょっと驚いたけど、そんなに痛くないし」
ポンポンと桜サンのように頭を撫でる。なんとなく不知火サンの扱い方が理解できたような気がする。
「うん……。分かった」としおらしく頭を垂れる不知火サン。不知火サンは積極的なところがある反面、今みたいに恭順な態度を取ったりする。そのギャップが奇妙。アンバランス。
「だったらいいよ。不知火サンに悪意とかそう言うのがないのは分かってるから」
「愛ゆえ」
「そ、そうだろうね。はははははは」
僕は過剰に明るい声を出して、不知火サンの頭を撫で続けた。