最終話
幕切れ。
まず、その言葉が脳裏に浮かんだ。
麗らかな日差しが病室に入り込んでいる。
ベットから上体を起こした。
体の節々が痛い。特にお腹の辺りが痛い。それと頭痛もする。
「起きたかよ、紅花よぉー」
聞き覚えのある声が近くからした。
相原庵。
「ったく、いつまで寝てやがる。下手したらよぉー、パイプ椅子の角っこの辺りでてめーの腹を殴ってたところだぜ。いい加減起きやがれ」
「……おまえ、なんで」
「見舞いに決まってんだろ。なんだ、不知火から電話をもらってよぉー、ここまで駆けつけてやったんだよ。ですよね?」と相原庵、後半がやけに丁寧だ。
相原は窓の辺りで腰を落ち着けている桜サンに視線を投じた。桜サンは静々と笑い、「そうよ」とだけ言った。
「にしても災難だったなぁ、通り魔だって? わざわざ伊豆くんだりまで出張って通り魔に遭うなんざ、呪われてるな、おまえ。ま、彼女かばってどてッ腹に風穴開けたんだ。誇っていいぜ、その傷はよぉー」
相原はいつもどおりの笑みを浮かべる。からかいの混じった、苦笑ともつかぬ笑顔だ。
「……そっか。僕は」
「丸一日だっ。不知火も半狂乱になって心配してるぜ。今は別室ですやすや寝てるけどよぉー、それはもうすごかった。メチャクチャだった」
その様子が瞼の裏に浮かぶ。
罪悪感と言うか、ちょっとあきれると言うか……。
「それに、葵チャンもだぜぇー。葵チャンも別室にいるけどよぉー、後で会ってやれよ。いろいろ気にかけてたしな」
「…………」
「ともかくも、神様って奴に感謝することだ。下手したらおまえ、渡っちゃいけない川を渡るとこだったからな」
相原はパイプ椅子から立ち上がった。「んじゃ」と言って、退室していく。相変わらず淡白な奴だった。
静かになる。
「桜サン」
「何かしら」
「ありがとうございます」
「何が、ありがとうございますなの?」
「相原にうまく説明してくれたみたいで……」
「そう言うしかほかになかったからよ。感謝されるいわれもないわ」桜サンは不意に笑った。「それに、相原君。なんとなく、気付いてたのかもしれないしね。聞くところによるとあなたたち、竹馬の友だと言うじゃない。だから、ひょっとしたら……」
かぶりをふった。「どうでしょう。あいつ、勘は鋭いですけど、いざ、色恋沙汰となると……めっぽう弱いですから」
「と言うと?」
「あいつ、女は胸が命だとか、ミニスカートは至高だとか言ってるくせに、自分に向けての好意には鈍感なんですよ」
「それはあなたも一緒ね」
さっと赤面した顔を伏せた。
窓の外から川岸に群生する青葦が、涼風にそよいでいた。
少し、落ち着く。
もう、夏休みなのだろう。
病室にかけられた日めくりカレンダーは、七月二十二日になっている。
妙に名残惜しい、と思った。
妹との生活。相原とのバカげた毎日。初めてできた彼女との日々。
一夏の思い出。
目から熱いものが吹き零れていくのを感じた。
何も言わず、桜サンは部屋から退室した。
○○○
病院の外に、こじんまりとした庭がある。池があって、深緑の木立に囲まれてる。空気は清浄。心が洗われる。
そんなことを思いながら、僕は散歩にいそしむ。清澄な昼の日差し。散策。白衣に身を包み、小枝に止まる鳥だちであるとか、揺れる紅の柘榴を目で楽しむ。
僕は待ち合わせをしている。
無沙汰をしているわけでもないのに、胸底で懐かしさを覚えた。じんわりと胸のしこりが溶けていくような感覚。会えると思うと、体が、心が、弾むんだ。
可憐に咲く睡蓮を両側にすえた小道。
その奥に、彼女がいる。
彼女は清純な白のワンピースを着ていた。ベンチの上でおくゆかしく膝を揃え、背筋を伸ばしている。綺麗な白の髪は花簪でとめてあって、長いポニーテールになっていた。
近づく僕に気づいたのか、静かに笑んだ。小さく手をふっている。
歩幅を早めるわけでもなく、ゆっくりと彼女に近づいていった。
「いいところだね。こんな病院、あったんだ」
「お母さんの古いお友達がやってるとこ」
「優しい雰囲気がする」
「患者さんたちにも定評があるよ」
「ずいぶんとお金、かかってるんじゃない?」
「庭?」
「うん」
「かかってると思う。けど、この優しい雰囲気はお金では作れない」
「そうだね」
「患者さんも幸せそう」
「知ってるかい? 幸せはお金で買えるんだよ」
「ワタシはいつも買い損ねる」
「僕も、よくて三割引きくらいかな」
顔を見合わせて、笑った。
生暖かい夏の花の香が鼻腔をくすぐる。庭には色取りどりの花が植えられていた。それに準じて、生き物の香りが充溢している。
「お母さん、久しぶりに旧友と会ったから、しばらくここに滞留するって」
「それがいいよ。彼方は?」
「ワタシも……しばらくは」
「あんな男とは付き合うなって?」
「少し、一人にしてあげたほうがいいって」
「桜サンに気を使わせちゃったかな……」
「そういうわけじゃない。ただ、よほど深い事情があるらしいからあなたも深入りしちゃダメよ、なんて」
「常識的だ」
「ワタシは別に、構わない」
「逗留しなよ。親子水入らずだ」
「……うん」
「僕は大丈夫だからさ、もう心配しなくていい。後は僕が片をつける」
そう意気込んで、ベンチから立ち上がった。
ちらりと彼方を瞥見する。
彼方は少し悲しそうな顔をしていたけど、多分、大丈夫だ。僕のことを信頼してくれている。
僕は一昔前の海の日みたいに、振り返りもせずにここから去った。
右へ切れ込み、植樹された松の木々の通りを進む。
と。
「お兄ちゃん……」
心配そうな、不安そうな、葵の声。それは前方から聞こえてきた。
葵は普段着の青のワンピースを着ていた。襟の辺りの鎖骨が艶かしく、唇は濡れている。
特に立ち止まることもなく、「帰るぞ」とただそれだけを言った。葵の頭に手を置いて、癖のない髪をくしゃくしゃにしてやる。
葵は声にならない悲鳴を上げて、静かに頷いた。華奢な手を僕の手に絡めた。
程よい熱。
前とは少し、違うなと思った。
葵はどこか伏せ目がちだったけれども、どこか吹っ切れた感じがあった。つき物が落ちたような、爽やかな顔つきになっている。
もう間違わない。
間違えたくない。
間違える必要もない。
彼方を悲しませることも、葵を傷つけることも。
我が畢生の目標が、いっきに二つもできてしまった。本当に守り抜けるか、どうか、正直分からない。
「なにニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」
「はは、後で説教だからな」
僕は葵の手を引いて、清爽な木立の中を抜けていった。
○○○
強いて言うなら、僕のほうが道化師だった。
色々なものに翻弄されて、様々な感情に振り回されて、数々の出来事に右往左往した。
釈迦の掌で踊るつもりなんてなかったのに、まさにそこが、僕の舞台になっていた。
台本通り、と言うわけでもない。
シナリオ通り、なんてこともなかった。
あるいは。
僕たちは偶然のような必然、必然のような偶然の手玉に取られていたわけでもないのだ。各々、自分の信念、理念に従って、行動しただけだ。
それが結果的に、それっぽい予定調和になってしまった。
ありきたりな結末に収斂してしまった。
結構人は死んだし、傷ついた人もいた。何かしようと奮起した人も、何もできないと悔悟する人もいた。たくさんいた。
交錯する人生が、一つの絵を作り上げていく。
この物語も、何かを破綻させた人々が紡いできた、一つの歴史、解だった。己の存在証明だった。
紅花禊や不知火彼方、紅花葵、相原庵、入江浴衣、不知火桜なんかが創生した曖昧模糊な物語。
勿論この物語は幕を閉じる。好むと好まざるとに関わらず、実にあっけなく、収束していく。
物語とは、概してそう言うものだ。
さしずめ、そんなところなんだろうけど。
◆キャスト
・紅花禊。
十六歳。男。存命。
行動方針――「君のためなら」
地球最後の日に食べたいもの――カップラーメン。
・不知火彼方
十六歳。女。存命。
趣味――家事、勉学、運動、自己鍛錬。
地球最後の日にしたいこと――禊に死ぬまで手料理を食べさせること。
・紅花葵
十五歳。女。存命。
趣味――バスケ。料理。欲情。
日頃の素懐――海の見える教会で、(兄と)式を挙げること。
・相原庵
十六歳。男。存命。
座右の銘――志と野心は、似ているようで違う。
自負していること――オレが世界で一番強い。
まず、感無量。
こんな駄作に付き合ってくださってありがとうございます。
紛れもない駄文でした。でも、キャラクターの思い入れはかなり強かった、ように思う。
特に紅花禊と紅花葵の兄妹には、幸せな結末を用意したいと思ってはいても、ボクの破綻した性格上、そんなことは不可能で、だからこのような不完全燃焼な結果になってしまった。深く詫びます。陳謝。
また、個人的に好きだったのが、相原庵。彼の存在は大きかった。緩衝材。作品に尽くしてくれました。
不知火彼方にいたっては……いわずもがな。
いつかの君とどこかの僕は、これにて終了です。
機会があれば、続編が書きたい……なんて。どうでしょう。書くかどうか、分かりません。
それでは、またどこかで会いましょう。