第三十六話
車窓から水平線が見える。
四角に切り取られた海。漣が立つことはなく、相変わらず空は綺麗で、風は凪いでいる。
窓の縁に肘をついて、頬杖をついた。海鳥の鳴き声が耳に心地よかった。
時折振動で小さく揺れる。カーブに差し掛かったりすると、慣性の法則に従って反対側に体が傾いた。それは倦むべきものではなく、ただ穏やかな時間を流すための舞台装置のようでもあった。一時間も揺られているからか、すっかり感覚器官に馴致していたみたいだ。
まどろみに沈んでいく錯覚があった。
客はいない。僕たちしかいない。草薙村は僻陬の小村。観光資源もなければ特産品もない。何もない。碧海が広がっているだけだ。
村民は各々の生活で手一杯。そんな余裕はなくて、だからかよそ者が寄り付くことはなかった。今日は夏休み前の休日であったが、やはりと言うべきか、旅行者の影すらなかった。
排他的、と言うわけでもない。草薙村は旧弊的な村落ではあるが、よそ者には比較的寛容なように思う。
草薙村。
村人の血筋は固定化されている。たいてい血縁者。きっとどこか遠くで血が繋がっている。排他的ではないが閉鎖的な草薙村は必然的に村内で子孫を紡ぐことになる。他の人間を婿に取ったり、嫁に出したりする家はあまりない。
生活も単調。
あるものは漁で、あるものは畑仕事で糊口を凌いでいる。一応教育機関は存在する。在校生も結構いるほうなんじゃないかな。けど、どこか淡白だった。草薙村の生活はどこか味気ないのだ。
規則的なリズムで車両が揺れた。
「禊君」と眠たげな声。瀬戸内の海を臨んだまま、視線をこちらに向けない。「これでよかった?」
「なにがさ」
「駆け落ち」と彼方は申し訳なさそうに低い声を出した。「無断でこんなことしちゃって、まずかったりしない?」
思いのほか普通なことを言う彼方に驚いた。そんな世間一般な思考があるんだ、と失礼なことも考える。
どうだろうねぇと言って、「結構まずいよ」と口を開いた。「これは一般に言う不純性行為なんだし、帰りの電車賃もないわけだからどう帰ればいいか分からない。問題は山積み、とも言える」
「……そう」
打ち沈む。
罪悪感があるのだろうか。駆け落ちを促したことに良心の呵責を覚えたのか。
あるいは。
葵とのやり取りに罪の意識を覚えたのか。いくらなんでも言い過ぎた。そう思っているのではないか。
それはお門違いではあったが、分からなくもない。多分悪いのは葵で、僕の優柔不断な態度が先ほどの事態を招いたのだ。あの惨な悲劇は、きっと僕に原因があるのだろう。
普通だ。
思う。
不知火彼方は思いのほか――普通だ。言動が破天荒なだけで中身は壊れていないのかもしれない。僕や葵を慮ってくれる辺り、彼方の優しさに触れたようで嬉しい。
また流れるように逃避行の道を選んだことにも思うところがあるようだった。
「離れたくない」
と。
彼方は。
不知火彼方は。
「離れるなんて、イヤ。一緒にいたい。お金も何もいらないから、禊君のそばにいたい。ねぇ、ずっと一緒だよね」
乙女だった。
普段の放恣な言動とは言って変わって、けなげで恭順な風だった。目を涕涙で潤ませ、そっと僕の手を握る。手は小刻みにふるえていて、表情は儚げだった。触ったら壊れてしまいそうだった。
そのギャップに頭がおかしくなりそうになる。彼方の精神構造はどうなっているんだ。とても同一人物の言葉、態度には思えない。どっちともかわいいけど。
静寂に包まれている。車両の唸る音。海鳴りと汽笛の残響、カモメの声しかしない。
僕と彼方は対面するように座っている。今は手が繋がっていて、距離は指呼の間。切れ長の双眸や長い眉が見える。紅潮した頬。濡れた唇。
「大丈夫だよ」とそれだけ言った。そっけなく視線を外す。視界には蒼然たる海と空が見えた。
これ以上彼方の顔を見るのが耐えられなくなった。そんな悲しい顔をするな、と思う。
「好き」
腰を浮かせて僕の胸に手を置いた。思いつめた表情。確たる決意が満腔から迸っている。
彼方は僕の隣に移動した。手を重ね合わせてしな垂れかかる。複雑に絡み合う指。息はか細い。
胸の動悸が激しくなった。
「僕も好きだよ」とやはりそっけなく言った。朴念仁な僕に口説き文句は合わない。そんな色恋の裏表に通暁した男でもない。誰かに愛を振りまけるほど高尚な人間でもなかった。
優しい感触がした。僕の頬にきめ細やかな肌が触れた。
顔を向き合わせると目が合った。黒真珠のような瞳。吸い込まれそうになる。彼方の瞳は漆黒の深淵だった。
「ん」
赤銅色の奔流が心底をのたくった。炎々たる鉄串をあてがわれたような猛烈な熱。電流が走ったように前身が硬直し、すぐさまゆるゆると弛緩した。
彼方の舌が僕の歯茎や口蓋を入念に舐めずった。これ以上近づけなるくらいに唇を強く押し当てる。きつく僕の手を握って前傾した。その手はやがて、彼方の胸に導かれた。
掌には形のよい乳房があった。彼方はそれを揉ませるように僕の手を乱暴に引き寄せた。頬は羞恥で朱に染まり、喘いでいた。
理性が溶けていくのを感じた。ドロドロに形を消失させていく。肉体と意識との乖離。突き抜けるような衝動が僕を貫いた。
誰もいない列車。
音もなく、ただただ潮鳴りが耳朶を打ち付ける。
途中下車した。
三十分もすれば次の列車が来る。そいつはきっと、車掌さんしかいない無人の箱だ。ここら辺は見るからに辺鄙なところで、ダイヤも一時間に一本って言う過疎具合。本当に伊豆まで繋がってんの、とか思う。
さて、まぁ。
このまま一つか二つ、乗り継いでいけば、目的地につくはず。
目的地。
僕たちはどこに行っているのか。
僕たちはどこに行くつもりなのか。
僕たちはどこに行こうとしているのか。
朽ちたベンチに座ったまま、時が過ぎるのを待った。呆けたように吹き抜けた空を仰視した。綺麗な青空だった。
彼方は駅の公衆電話の前にいる。思いつめた表情で受話器を握っている。通話の相手は桜サン。
家族に心配かけちゃダメだよ。
そんなことを彼方に提言した。単身赴任中のお父さんはともかく、お母さんである桜サンにいらぬ心配をかけるものではない。駆け落ちを言い出したのは彼方だけど、責は男である僕が負うべきだと思ったのだ。後々桜サンやお父さん方に怒鳴りつけられようが何されようが、黙って粛と頭を下げるさ。
「待った?」
「空見てた」
彼方は呆れ顔をした。長い髪の一房をつまみ、ぐるぐると人差し指でかき回している。
「綺麗?」
「青いね。青すぎてこっちの顔や肌まで青くなる。それも透き通った海の水みたいにクリアな青なんだ」
「一般的に人間の肌が青くなることはない。海の水は空の青さに反射して青みたいに見えるんだよ」
「……だよね」
「うん」
「桜サン、なんて言ってたの」
「このままゴールインしなさい、って」
「結婚かぁ……」
「帰ってきたら赤飯ね、とも言ってた」
「桜サンは気が早すぎるよ」
「理解が早いんだよ」
「それは困った」
「禊君は理解は遅いから」
「何それ。僕のことけなしてる?」
「長年、ワタシの想いに気づくそぶりもなかった」
「頭の回転は結構速いほうだと思ってるんだけどね」
「勘もにぶい」
「それは天性のものだから」
「ふーん」
一緒に空を見た。
このまま時間がとまってほしい、と思った。
けれど。
「みーつけた」
背後から声がする。
肌を這いずり回る蛇を思わせる声調。綺麗で涼しげだけど、一皮むけば、淀んで、澱と泥が底に溜まっているんだ。
さっと顔を青ざめて、ベンチから立ち上がる。硬直する彼方を手を掴み、振り向きもせず、疾駆した。
「なーんで、逃げるのかなぁ?」
何かが追ってくるのが、気配で分かった。膨張する殺意を感じ、血の気が失せる。僕の頭は真っ白になった。
そんな中、ひたすらに足だけを動かした。脳は麻痺してしまっている。きっと本能が、生存本能が、足を稼動させているに違いない。
駅のホーム。
「あっ……」
うめき声。彼方は膝をつき、ふくらはぎの辺りを押さえていた。
一瞬、どうしてなのか分からなかった。けれど出血した彼方の足を見て、状況を理解した。
誰かが石を投げたのだ。彼方の脚部に向けて……。
彼方の肩に手をかける。僕は石を投げつけた者の顔を睨んだ。
「ねぇ、なんでそんなに睨むの? 私、正しいことをしただけなのに……ねぇ、何で?」
いつものような微笑を浮かべた葵が、不思議そうに首を傾げた。退屈そうに、それでいて嬉しそうに、微笑みかけてくる。何かを欠落させた笑顔。
「葵……」
「おにーちゃん。帰ろ? 一緒に帰ってご飯食べよ? ご飯食べて、一緒にお風呂はいろ? お風呂はいって、一緒のお布団で寝よ? お布団で寝たら、いつもの学校だね。うん、そうだよ。幸せだねぇ、うん」
一歩。
一歩、近づいてくる。夢見るような顔つきで、僕たちに迫ってくる。
触れてはいけない。
猛烈な警戒音。全身が拒否反応を起こしている。これと関わり合いを持ってはいけない、と。
彼方を背中でかばって、我知らず、後退した。
それを見た葵は悲しそうに笑った。
「逃げたらぁ、ダメだよね。傷つくから。私、傷つくから。そうなったら……大変なことになるよ」
抜く手も見せずに駆け出す葵。腰のポケットに手を入れながら、凝然と僕を、否、僕だけを、見ている。見つめている。
吹き出す光芒。
「死ねぇぇぇぇぇぇ!」
葵の腰元から離れた一条の光が、彼方に向かって吹き零れた。
閃々たる凶刃。日の光に反射した刀身が、ざっくりと、肉を切り割っていく。
切り割っていく。
「……これで、満足、か?」
「え」
葵は童子のような困り果てた声を上げた。意味が分からない、状況が飲み込めない。そういった表情。
根元まで深々と刺さった包丁は、肋骨の間を割って入る。口元から血を吐き出した僕は、すーっと体中の熱が消失していくのを感じた。
「な、なんで? なんで、おにーちゃんが、刺さってる、の?」
限界まで瞳孔を広げた葵は、千鳥足で僕から離れていく。夢遊病者のようにたわごとを呟き、頬に手を当てる。
と。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」
膝をついて絶叫する葵と、瞠目する彼方の双眸を視界の端に収め、何かが崩れ落ちる音を聞いた。
ああ、それは、僕の体の――。
そこで意識が途切れた。