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いつかの君とどこかの僕  作者: 密室天使
第二章  壊れゆく世界
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第三十五話

 僕たちは美作神社にいた。

 長い石段を駆け上がって、鳥居を潜り抜けて、社務所を通り過ぎ、拝殿を仰ぎ見て、離れの蔵に寄った。

 そこは小さな物置となっていて、時雨サンや氷雨サンの遺物などが収納されていた。捨てるに捨てれず二人のご両親が蔵にしまっておいたらしかった。

 蔵の中は薄暗かった。塵埃が積もっている。それに小型の窓から日が差し込んで、淡い郷愁を誘った。物置部屋には懐かしい代物がいっぱいあって、胸が押し潰されそうになる。

 木箱の蓋を開けてみたり、調度を脇へ移動させたりして、あるものを探す。物が雑多にありすぎて、見つけられるかどうか分からない。

 その様子をいぶかしげに見ていた彼方は、「何を探してるの?」と疑問を呈した。

「切符だよ」

「切符?」

「今の僕たちには何もないだろ。お金も食料も、まして旅費もない」と朽ちた机を脇にどける。表面には彫刻刀で氷雨と彫られていた。「確かここら辺にあったはずなんだ。伊豆まで続く電車の片道切符」

 蔵の出口で逆光を受けていた彼方は、おもむろにものが乱雑に積み重ねてある蔵に足を踏み入れた。 

「駆け落ち、してくれるの?」

 思いつめたような声色。語調がわずかにふるえている。

 特に思い悩むわけでもなく、「ちょっと早い夏休みだと思えばいいよ」と手を休めることなく言う。

 ……そう。

 平坦な声。顔も無表情で何を考えているか感得できない。

 けれど。

 彼方は一瞬だけ神妙な顔つきになった。著しい変化。彼方の双眸は乱人のように火照り、呼吸が不規則になった。

 と。

 彼方は膝を着いた。顔つきも元の無表情に戻っている。

「ワタシも探す」

「そこら辺を探して」

「うん」

「彼方こそいいの? 桜サンに連絡しなくて」 

「お母さんもお父さんと駆け落ちして結婚したらしいから大丈夫だと思う。理解してくれる」

「親子共々波乱万丈だね」

「ワタシもあなたの妹さんと三角関係になるとは思わなかった」

「……だろうね」

「さっきは修羅場だった。いずれ義妹になる子と――修羅場。想像するだけでおかしい」

 いずれ義妹になる、となるのかどうかは不明だが、少なくとも今しがたの事態は明らかに異常だった。

 普通はそうならない。血肉分け合った異性の口から愛や恋などと言う言葉が出るはずもない。家族は慕情の対象にはならないのだ。

 思い出す。

 葵の悲鳴、慟哭。

 捨てられた子犬が発するような切ない金切り声。充血した目。わんわんと泣き崩れ、身悶える姿が目に浮かぶんだ。

 どうしたらいいのか分からなくなる。

 よかったのか。

 彼方と一緒に逃げてよかったのか。葵を拒絶してよかったのか。もっと葵と話し合うべきではなかったのか。誠心誠意切言を呈して過ちを正すべきではなかったのか。

 悩んでも無駄だと分かっているのに。なのに埒もない思考に耽る。

 今からでも遅くはない。踵を返して葵のところに行ったほうがいいのではないか。

 しかし。

 怖い、と思った。

 葵がどうしようもなく怖かった。普段の葵はニコニコと笑って、困ったときには優しく手を差し伸べてくれるいい子だった。髪はさらさらでかわいくて頭もよくて僕自慢の妹だった。けれど、情炎をさらけ出した葵は人が違ったように暴力を振るい暴言を吐いて、彼方を貶めた。嫉妬心の発露。葵は過当に悪罵を投げつけた。

「……葵の気持ちも慮ってほしい。多分寂しかったんだと思う。僕たちはずっと二人で生活してたから。それが崩れそうになって感情を暴発させたんじゃないかな」

「かといって、実の兄を好きになったりしない」と咎めるような口調で、「この天然女たらし」と揶揄した。

「……天然女たらし?」

「実の妹までたぶらかすなんて不潔。ワタシと言う女がいるのに」と酷烈な弁舌を振るう。

 たぶらかしたつもりはない。けど結果だけ見ればそうとも取れる。

 妹を惑わせた兄。

 何が原因で何が起因しているのか。両親と言う歯止めがなかったからか。理性の歯止めが知らぬ間に消失していたからか。

 編み籠や置き物の奥に小ぶりの箪笥があった。煤けた茶色の和箪笥。時雨サンのものだったように思う。あの中には時雨サンの私物や和綴じの本がしまわれていて、たまさか読み聞かせてもらったこともあった。僕に葵に相原と三人揃って時雨サンの私室に赴いたものだった。

 もしかして。

 と。

「ん? これまた葵の兄貴に……彼方先輩じゃないですか」

 誰かの声。




 夏の日差しに照りつけられた地面。

 誰かが陽光を遮るように立っている。輪郭は判然とせず、服の色も分からない。ただ背格好には見覚えがあった。

 背中の辺りまで伸びた髪がぱらぱらと風になびく。身長は低い。葵より数センチ小さいだろう。

 蔵の扉に竹箒を立てかける。草鞋を履いているらしく、一旦脱いでこちらへと向かってきた。そうしてやっと面容が窺えた。

「……浴衣ちゃん」

「二人そろって何やってるんですか? あ、もしかして逢瀬でってやつですか? やらしー」

 酒々楽々と笑う。白衣に緋袴。入江浴衣は巫女姿だった。

 美作神社では代々大槻の継嗣が舞いを献上する。しかし時雨サンが没した今、大槻の支流である入江家の人間がそれを代行するようになった。つまり入江家の嗣子である浴衣が夏休みの折に神楽を奉納しているのだった。

 なので浴衣がここにいてもおかしくはない。察するに境内を掃除していたのか。

「うん」と屈託なく頷く彼方。僕と腕を絡ませて肩に頭を乗っける。

 その姿に衝撃を覚えたのか、浴衣はしばし唖然とした風になる。浴衣は平生の僕、そして彼方を知っているはずだから、奇異に映ったのだと思う。

「し、幸せそうで何よりですよ。あたしも含めてですが、学校の連中、彼方先輩が全然彼氏作らないもんですから、先輩のことレズか何かかと思ってたんですよ? 男どもの告白をことごとく断って、もったいないと言うか羨ましいと言うか、回りまわって不自然と言うか……。まぁ、これみたらレズ疑惑なんて吹っ飛ぶと思いますけどね」

「そういえば相原も言ってたな。不知火彼方は極端な男嫌いで、これは何かあるんじゃないかって」

「相原先輩がですか?」

 相原の名を出した途端に浴衣は前のめりになった。

「あれ、食いつきがいいね」

「あっ、変ですか?」

 はっとした風に唾を飲み込む。浴衣は視線を右の方に逸らした。

 一方の彼方はと言うと眉を寄せて僕を庇うように前に出ている。そんなに僕がほかの女の子と近くにいるのが嫌なのか。浴衣とは面識があり交誼を結んでもいるようだが、やはり嫌なものは嫌なのか。

 各々の反応。浴衣は気恥ずかしそうに視線を泳がせて、彼方は腕の締め付けを強くしている。 

「変ってわけじゃないけど、浴衣ちゃんは相原と仲いいの?」

「いいってわけじゃないですけど……あたしとしてはまぁまぁかなって。知り合い以上友達未満って感じです」

「あいつは物腰が軽いようで結構難物だから、取り扱いには注意した方がいいよ。割と淡白な奴だし、けど熱血漢で、時々小難しいことをバカみたいに話したりする」

「考えてみれば禊先輩とは正反対の人ですよね。どうして仲良くなったんですか?」

「気になるかい?」と意地悪に問いかけると、浴衣は顔を俯かせた。庇護欲にかられる。浴衣は才色兼備のしっかりものだけど、なるほど弱点がないわけでもないんだ。

 そうして悦に浸っていると、「せせ先輩こそどうなんですか。キスはもう済ませたんですか?」と思わぬ反撃。そんなことを言ったら彼方はどう反応するか僕は気が気でない。

 案の定彼方はこくんと首肯した。恥ずかしがる素振りもない。恬として僕に頬擦りしている。

「キスは毎日してる。もうし慣れてるはずなのに、禊君が恥ずかしそうに顔を隠すのがかわいくて、その後はたいてい襲っちゃう」

「ここ、これは重症。根は深いと見ましたよ、あたしは。なんででしょうねぇ。先輩、過度の男嫌いでしたのにねぇ。禊先輩に骨抜き。どうしてこうなったんでしょうかねぇ。その件について禊先輩はどう思いますか? 高嶺の花を篭絡した気分のほどは?」

「……知らないよ。今でも夢なら覚めてくれーって思ってるし」

「夢だとしても覚めさせない。ずっとワタシといるの」

 ぎゅーっと抱きつかれる。肺を圧迫されて呼吸がしづらい。考えてみれば僕と彼方はいつもこんなことをしているように思う。人目も構わず抱擁して、衆目の前でも口吸いをする。

 浴衣は失笑を浮かべた。「こんなとこ葵が見たらどうなるんでしょうね。絶対殺されますね。二人とも」

 ……そりゃぁ、そうだろうね。

 血の気の失せる戦慄が駆け巡る。こんなことしてる場合じゃない。

 そう意気込んで、彼方の両肩を掴んだ。

 アイコンタクト。 

 愛コンタクト。

 通じたらしい。抱擁をやめ、唾液をこぼすのもやめた。目も濁っておらず澄み切っている。

「浴衣ちゃん」

「なっ、なんですか。いきなり真面目な顔つきになって……」

「君に頼みたいことがある」

 僕は逡巡したもののこれから駆け落ちをすることを伝えた。そのためには片道切符が要ること、それがこの蔵の中にあることも同様に。まるで安っぽいテレビドラマみたいな展開。なのにこの身を切るような焦燥感と疾走感は本物だった。

 葵との一悶着は伝えていない。僕は夏休みを前倒しにして伊豆に旅することだけを通達したのだった。

「なるほど。つまり先輩たちは伊豆の旅館で初夜を迎えると言うことですね」 

「……所々訂正したいところだけどとにかく、浴衣ちゃんには早急に切符を探してほしいんだ」

「それはいいですけど、何で早急なんですか? そこまで急ぐ必要もないでしょう」といぶかしげな表情を浮かべる。

「失礼だとは思うけど理由は聞かないでほしい」

「一刻も早く二人っきりの旅をしたいってことでしょう? 分かります、分かります」

 一人合点しているところをむやみに訂することもないので、曖昧に頷いておいた。彼方も満足そうに笑って腕を絡めてくる。まんざらでもないらしい。

「早く二人っきりになりたい」

「と言うことなんだ。いいかな」

「別にいいですよ。しょーじき暇すぎて死にそうでしたし。それに二人には幸せになってもらいたいなってあたし、すっごく思ってますから」

 墨を引いたような細い眉が撓み、口角が緩む。日本画のような莞爾。静かに笑い返す。 

 と。

「今見とれてた」

 頬をつねられる。その後両の頬をすごい力で引っ張られた。身を切るような視線が痛い。彼方はひどくご立腹だった。

「あだだだだだ」

 目で訴えても一向に止める気配はない。むしろつねる指の力は徐々に強くなってきている。

 許してほしいの、と言うような視線を僕に向ける。僕は迷うことなく頷いた。そもそも僕には悪いことをしたと言う意識はあんまりない。社会生活を営む上で異性と会話するな、と言うのは無理な相談。

 そういう対象ではない。立ち位置は妹の友人。欲情もしないし付き合いたいとも思わない。それに浴衣にはほかに好きな人がいるようだから。なんだろう、この青春群像。

 けど、彼方にとっては気に食わないことらしかった。

「許してほしかったら、彼方大好き結婚したい彼方との子供いっぱいほしいって百回言って」  

「は、はなひて」

 つねるのをやめなければ元も子もない。

 それを分かってるだろうに、彼方は意地の悪い表情で僕を見ている。指は固定されたまま。さてはこの状況を楽しんでるな、と邪推するが、おそらく間違いではない。

「か、かなは」

「聞こえない」

 聞こえないも何も。

 彼方は笑っている。隠微に頬が釣り上がり、静々と微笑を浮かべている。

 目で抗議すると力が緩む。彼方の両指は僕の頬に添えられる形となる。僕はその手に掌を重ねた。

 少し驚いた表情になる。手が発汗しているのが分かった。手と手に僕の汗と彼方の汗が糸を引くように絡み付いて、渾然と交じり合う。彼方は耳の端まで赤くして、鼻息を荒くした。やおら顔を近づける。

 遠くで誰かの悲鳴、と言うか嬌声が聞こえたような気もする。

 熱い。口の中が、掌が、体が、心が、熱い。溶ける。筋肉の筋が緩んで、バターのようにドロドロに溶けてしまう。

 唾液の交わる音がする。くちゅくちゅといやらしい水音。胸板に豊満な乳房を押し付けられ、腰が抜けるような性愛を覚える僕がいた。

「……はぁ」

 ため息、ではなかった。切ない喘ぎ声。相手に対する醜悪なまでの我欲。清純でいて歪み、器から零れ落ちるくらいに並々と注がれた血のような愛は一つのことだけを望んでいる。

 もっと近くに。

 もっとそばに。

 相手を骨の髄まで、髪の毛の一房までむさぼりたいと言う荒くれた欲求の現れ。愛欲の現出、偏執の顕現。自分の手元においておきたい、自分が支配しておきたい――そんな独占欲にも似た何か。愛情も極限まで純化すれば、獣のような原理的な愛に回帰してしまう。本能の赴くまま、相手を狂おしい愛に包み込もうとする。

 パートナーなしでは生きていけなくなるくらいに重く、深い恋心。そこまで行けば恋も執着で、愛も妄執へと変質していく。濾過されすぎた愛と言う感情は、一種の毒薬でもあった。致死性の猛毒。なのにそれを治す薬はやはり、愛しかない。究極の矛盾。なのに成立するこの世界、そして僕たち。

 もし。

 もし禍々しいまでの肉欲をお互いがお互いに抱いたとしたら。

 互いが互いを縛り付け、抑制し、自分と相手以外の存在を許容できないようになってしまえば。

 その時は。

 そうなってしまえば。

 僕たちは。

 僕と彼方は。 

「……はぁ、はぁ、はぁ」

「……う、う、う」

 鎖のように腕を回され、枷のように手首を捕まれ、錐のように口腔に侵入する舌。服毒へと至った僕の体はそれを受け入れ、むしろ積極的に舌を返した。

 心臓がうるさい。聞こえてしまいそうだ。

 そんなことを彼方は言ったような気がした。しかし僕の脳はその二文を言語変換できるほど動いてはくれなかった。機能停止。本能だけが先行している。理性を撥ね退け欲求に身を任せ、ただただ眼前の人と睦む。睦みたくてしょうがない。僕は狂っているのだろうか。それとも相手のほうが狂っているのだろうか。どっちだろうか。どうでもいいことだ。別に構わない。今は幸せだ。何も考えられない。何かに取り付かれたみたいだ。くらくらする。

「あわわわわわ、せせせ、先輩方っ! やややや、やめて、ください」  

 見てるだけで恥ずかしすぎますぅ、と誰かは言った。

 え。

 ぼんやりとした意識がそんな言葉を拾った。すぐさま脳内でどういう意味を持つ文章なのか検索されていく。思考の演算。現状の認識。 

「ありゃ」

「ありゃじゃないですよぅ。いくら薄暗いからってこんな真昼間に、しかも別の女の子の目の前でそそそ、そんなこと、しししないでくださいっ!」 

 僕たちは半裸だった。服ははだけ肌を晒し、所々液体で湿っている。口蓋はぐちょぐちょで僕と彼方は唾液の橋を架けていた。両の指と指とを絡めて凝然と見詰め合っていた。

 彼方の皮膚はしどけない桜色に染まっている。無防備な肉体。犬のように舌を出しては潤んだ瞳を僕に向けた。体にこもる熱を放出しているように見えた。

「……み、そぎ」

 伸ばされる細腕。僕の頬と体温を共有する。彼方は初めはゆっくりと、途中になって自分を抑えられないと言う風に顔を寄せた。

「……しよ」

「……うん」

「いやいやいや、ここに一人部外者がいるんですけど」

 おもむろに浴衣の方を見る。浴衣は顔を真っ赤にしてぶるぶると体をふるわせていた。目が泳いでいる。直視できないらしい。

 いまさらながら己の奇態に気付く。

 慌てて服を整える。僕は何をしていたんだ。こんなことしてる暇なんてない。僕は現状を放念して愛欲に溺れたのか。

「あっ……」

 やるせない声を漏らす。彼方は悲しそうに僕を見た。唇を舐め哀願するように僕の脚部にすがる。子犬のようにじゃれて足の付け根に頬をこすり合わせた。

 体が焼けるような、胸が締め付けられるような感覚。両の掌から零れ落ちるもの。光り輝く砂。星屑のようにキラキラとしていて、己が身を追慕に誘う魔法の粉。

 僕と言う存在。

 紅花禊と言う存在。

 存在の立証。この子がいて初めて紅花禊であると証明される。

 撫でてあげる。彼方は猫のように伸びをして僕に接吻をした。僕の首に手を回して彼我の距離をゼロにする。没入。お互いに耽溺し合う僕と彼方。

 あぁ。

 なんて。

 なんて狂っているんだろう。

 狂っていた。もはや(つがい)。血と肉の混交。この狂気じみた愛しさが僕を狂わせたのか。

 いまさらになって理解する。

 もうダメだ、と思うこと自体――不毛。手の施しようのない状況なんてない。抜き差しならぬ窮状なんてのもない。打つ手が見えないだけで解決方法は無数にある。

 それでもダメだと思うなら、初めから選択肢なんてなかった、と思えばいい。選択肢なんていう高尚で都合のいいものがこれまでに偶然あっただけのことだ。奇跡のような連鎖が続いていただけなのだ。そもそも生きることそれ自体が奇跡のようなものなんじゃないかな。

 あるいは。

 奇跡とて、しょせん偶然の堆積に過ぎないのか。

 錯覚であるのか。

 この熱病のような感情は錯覚なのか。彼女との出会いは奇縁の所産なのか。

 彼方を抱きしめる。幻想とか錯覚とか、考えるだけで面倒くさい。気が滅入る。理論付ける必要もない。世界はあまねく問題の解を持っているわけでもない。だから逐一この感情はなんなのか、これは愛と呼ばれるものなのかと押し問答する必要もないのだ。そんな暇あるなら別のことしてるよ。

「……探そっか」

 選択肢の提示。どこぞの三文芝居のようなやり取り。色々なものをかなぐり捨てて、意中の人との逃避行。

 笑いがこみ上げてくるけど、あんまり笑えない。

「……好きすぎて死にたい」

「ん」

 どうしたのと問うと、彼方はひくついたようにしゃくり上げ、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。

「あなたのこと好きすぎてつらい。どうしよう。もう離れられなくなっちゃう。ちょっとでも離れたらワタシ、寂しすぎて孤独死するかもしれない。将来貴方が仕事に行ったりしたら、ずっと家で独り……。イヤ、かも。すっごくイヤ。けど二人で暮らすにはお金がいるよね。かといって仕事に行ったらワタシが死んじゃうよ。二律背反。い、イヤァ、行かないでぇ!」

「……何年後の話だよ。そもそも結婚するのが前提なんだね」

「する。ずっと一緒にいる。そういう運命」

 そういう運命も悪くない、なんて。

「あのぉ」

「なに」

「伊豆への片道切符ですよね。ありましたよ。調度の押入れに閉まってあったのを見つけたんですけど……」

 埃かぶってますけど、と浴衣は付け加えた。ただ僕たちが抱き合っているからか、雰囲気が濃厚すぎるからか、近づいてこない。顔が引きつっている。気後れしているらしい。

「彼方」

「やだ」

 浴衣のところに行こうとしたら、彼方に引き止められた。

「やだって、君ねえ」

「ほかの女のところに行っちゃうの」 

「行かないよ」

「現に行こうとしてる」

「切符を取りに行くためだよ」

「……すぐ帰ってくる?」

「帰ってくるよ」

「約束して」

「約束するよ」と小指を出して指きりした。ぱーっと顔を明るくする彼方。「って帰るって言ってもすぐそこだろ。君は心配性すぎるんだ」

「心配にもなる。こと禊君に関することなら神経質に気にする」

 だって好きだから、と涼しい顔で言う。僕は猛烈に気恥ずかしくなった。浴衣も済ました顔で彼方がそう言うものだから顔を赤くしていた。手で顔を覆っている。

 彼方はきょとんとしている。自覚はないようだ。従容として僕を見て、浴衣を見ている。

 そんな中。

 これは心配性と言うより中毒なんだろうなぁ、とそんなことを思う僕がいて。

 浴衣ちゃんがいて。

 彼方がいる

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