第三十四話
修羅場警報。
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葵は物静かにそこにいた。膝丈の白いスカート。清純なワンピース。セミロングの黒髪がさらさらとたなびく。
人形のように微動だにしない。どうやら僕たちが来るのを律儀に待っていてくれたらしい。葵は清澄な瞳を僕に向けた。絶対零度のように冷え冷えとした瞳。虚無を映し出す鏡。感情、情緒が一切感じられない。
なんでここに、と思う。葵は彼方の家の住所を知らない。では、なぜ。答えは出ない。目の前の葵はその答えを知っているのか。
「お兄ちゃん」
と。
凍えた声。無機質のようで死の香りがする。命を無慈悲にさらっていく死神の声。
「迎えに来たよ。帰ろっか」
葵は一歩足を踏み出した。すらりと伸びた上腿。足のつま先。不知火家の玄関に踏み出していく。毒々しい気配。この世のものとも思えぬ瘴気。漏れ出る。
漏れ出る。
「おまえは……どうしてここに? どうやってここを知った?」
詰問口調になる。表情も険しいものになっていただろう。それほどまでに葵は禍々しい気に満ちていた。邪悪。明確な悪意。葵は靴を脱いで、不知火家の版図に踏み入れた。そのまま僕の手を握る。質問には答えない。
「帰ろ」
葵はにっこりと笑って僕を連れさろうとした。強力な力。葵の荒っぽい行動は僕の反抗心を駆り立てた。図らずも足にブレーキをかける。「葵」
顔の傷。
「顔の傷、どうしたの? 不知火さんにやられた? うわぁ、怖いね。狂ってるよ。気に入らなかったら暴力で解決しようなんておかしいよ」
葵は窪んだ僕の顔をいたわるように撫でた。大切な玩具を愛でるように、端麗なガラス細工に触れるように。
「葵っ」
「お兄ちゃん」
凍えた目。体温が感じられない。爬虫類のように瞳孔が開いている。
なのに。
なのに手つきは艶かしく動物的なんだ。
「な、なんだよ」と情けなく語尾がふるえる。僕は実妹に恐怖を覚えたのか。
おもむろに視線を向ける。葵は下唇を吊り上げて悪魔のように笑った。「お兄ちゃん、帰りが遅くなるときは連絡してって言ったよね? 私、言ったよね? 何で守ってくれなかったの。ねぇ」
完全に忘れてた、とは言いにくい雰囲気。冗談が許されていい空間ではなかった。
「…………」
「……それならそれでいいよ。こんなに私を心配させて、ほら、早く帰ろうね。一緒に帰ろうね」
「おまえ、部活は?」
「休んだよ」
「来週大会じゃなかったのか?」
「お兄ちゃんのほうが大事」
「どうやってここを知ったの?」
「昨日の夜から一軒一軒インターホン鳴らして探したの。三十軒くらい回ったかな。大変だったんだよ」
「……そっか」
「近所迷惑だったかな。まぁしょうがないよね。下手したら失踪事件だもん。しょうがないよね」
「…………」
「そう言えば浴衣から聞いたよ。お兄ちゃん、とうとう彼女ができたんだ。よかったね、おめでとう。けど、帰ろうね。早くこんな家、出ようよ。平気で暴力ふるう人と付き合ったりしたらダメだよ。共依存って言うのかな。最悪の関係だよね。暴力だけが二人を結びつけるだけだなんて、気持ち悪いし変だよ。お兄ちゃんが壊れちゃうよ。だからね、ここにいたらダメなんだよ。さ、早く帰ろうね。家に帰って朝ご飯食べようね」
「ダメ」
と。
彼方は。
「禊君はずっとここ」
葵に握られていない反対側の手を掴んだ。感情を押し殺した眼光を葵に向ける。葵は恬淡とそれを受け止めた。ほのかに笑みを忍ばせている。
僕を挟んで対立する二人。不知火家の玄関は大岡裁きの様相を呈していた。いい加減両腕が痛い。二人とも引っ張りすぎ。腕がもげる。
と、胸裏でおどけてみせる。二人の気配は吹きすさぶ吹雪のように凍てついていた。一言も喋ることなく空白の時間が過ぎていく。相手の出方を窺うような静寂。
ただならぬ気配を滲ませる葵。
胸中穏やかでない僕。
じっと僕の腕に縋る彼方。
「お兄ちゃんは不知火さんの所有物なんかじゃない。お兄ちゃんは私と一緒に帰るんです」
「禊君はずっとワタシといる。私と彼の恋路を邪魔しないで」
「不知火さんみたいな暴力女にお兄ちゃんは渡せません。別の人を見つけてください」
「彼以上に素敵な人はいない。ワタシには彼しかいない。禊君しか好きになれない」
「軽々しくお兄ちゃんの下の名前を呼ばないでください。迷惑です」
「なんであなたが迷惑をこうむるのか分からない」
「私じゃなくてお兄ちゃんです。お兄ちゃんに付きまとわないでください」
「付きまとってるのはあなたのほう。それに禊君は迷惑だなんて思ってない」
「思ってます。あなたみたいなストーカーに近寄ってほしくない」
「ワタシはストーカーじゃない。ただ禊君のことが好きなだけ」
「そんな手でお兄ちゃんに触れないで。お兄ちゃんが穢れる」
「あなたこそ禊君に触れないで。禊君はワタシだけのもの」
「だからお兄ちゃんは不知火さんの所有物なんかじゃない」
「なんでそんなに張り合おうとするの。ただの禊君の妹なのに」
はっと葵の顔色が変わる。爾後、業腹に彼方を見やった。含むところがあるのか神経質に頬をうごめかせる。やがて咽ぶように陰々と俯いた。
彼方は無表情のまま、伏し沈む葵を見詰める。一抹の哀れみ、悲しみが含有された視線。
「あなたは結局、ただの妹。血は繋がってるし、結婚もできない。愛し合うことはできても、社会からは認められない。みんなから疎まれて敬遠されて……幸せになんかなれるはずない。火を見るより明らか。それくらい分かりきっていることでしょう」
反応はない。
ただ。
ぶつぶつと。
ぶつぶつと呟く声が聞こえる。呪詛のようなうわ言。蟠った悪念。葵はうなされたように何かを呟いた。
「……葵?」
あまりに尋常でない様子だったので、恐る恐る声をかける。
「あっ」
「……あ?」
「あんたなんかに分かってたまるかぁぁぁ!」
がばっと顔を上げた葵は鬼のごとき形相で彼方に掴みかかった。ほとばしる邪心、害意。着物の胸倉を掴み、血走った両眼で彼方を睨む。白魚のような肌には骨の筋が浮き上がり、呼吸は猛々しい。ううぅ、と威嚇するようにほえた。
そして。
葵は崖から突き落とすように彼方を突き飛ばした。尻餅を打つ彼方。痛みに目をしかめ、目前に聳える悪意に慄然としている。確固として邪念はそこにある。その矛先は彼方の方に向き、喉笛を引き裂こうとしている。
「ああ、あんたに何が分かるって言うのよ! 実の兄を好きになって悩まなかったって思ってるわけ? そんなわけない! いっぱい悩んだし、いっぱい苦しんだし、死ぬほど辛かった! お兄ちゃんが他の女と喋って嫉妬する自分が嫌いだった! 実の兄に欲情する自分が嫌いだった! ……もちろん、気色悪いって思ったよ。だって私、気持ち悪いんだもん。よりによって実の兄が好きだなんてイカレてる。けど……しょうがないじゃん。好きになっちゃったんだからしょうがないじゃん!」
殺気立った目で彼方をねめつける。意識は正常でない。剥離している。陰険な気配が辺りに蔓延した。
葵は雨に打たれた子犬のように体をふるわせる。
憎くて仕方がないと言うように。
厭わしくて仕方がないと言うように。
唇が歪んだ形を作る。醜悪な思慕。もともとは清く美しいものだったそれは、時の流れとともに醜く変形して取り返しがつかなくなってしまった。建物が風化するように、絵画を黒で塗り潰していくように……。
気がつけばその想いはグロテスクなものに様変わりしていた。ドロドロとタールのように淀んでいる。醜怪な怪物。知らず知らずのうちに肥え太る。
倫理と言う柵で囲えぬほど凶悪で、常識と言う檻で阻めぬほど獰悪で、どうしようもなくて。
葵の恋情は根底から間違ってるんだ。
「……死ね」
どす黒い声が、猛烈な悪意が、身の毛のよだつ憎悪が。
「あっ、あんたがいるからいけないんだ。あんたさえいなかったら、ずず、ずっとお兄ちゃんと一緒に、い、いれた。お、お兄ちゃんはあんたを必要としてないんだぁ!」
葵は猪のように突進して彼方にかじりついた。馬乗りになった葵は、彼方の首を思い切り絞め上げ、罵りの限りを尽くした。
「葵!」
羽交い絞め。イヤイヤとあがく葵を強引に引き離した。
「じゃ、邪魔しないでよ! 私、こんなにお兄ちゃんのこと想ってるのに……なんで分かってくれないの?」
「それは違う。それ以前の問題だろ。取り消せ。さっきの言葉を取り消せ」
「……なんでそんなこと言うの? ずっと私の味方でいてくれるんじゃなかったの? 私の幸せを第一に考えてくれるんじゃなかったの?」
「僕はずっと葵の味方だし、葵の幸せを第一に考えてる。けど……さっきの言葉を取り消さないと、僕は葵のことを嫌いになる」
「き、嫌いにな、る?」
そのときの葵の顔はやけに幼く見えた。物を知らない子供のように無防備な顔。
「そうだ。僕は軽々しく人を傷つける人間が嫌いだ」
「け、けどけど、この女はお兄ちゃんに暴力振るったんでしょう? 自分のこと受け入れてほしいからお兄ちゃんを殴って、自分のことだけ見てもらいたいからお兄ちゃんを叩いたんでしょう? そうだよね、そうに決まってる! そっちの方がおかしいよ。何で私だけ疎外するの? 何でこの女だけ優遇するの? それって差別だよね? 差別はいけないんだよ。なんでそんな差別するのぉ!」
「差別とかそんなんじゃない。確かに彼方はちょくちょく暴力振るうけど、別にいいんだ。僕個人が傷つくことくらい、別にいいんだ。けど僕以外の人が傷つくのは嫌だ」
「……なにそれ。身勝手。十分に身勝手。ようは私のことが嫌いってことだよね? この女を擁護したいだけだよね。お兄ちゃんは妹よりもこの女の方が大切なの?」
「両方大切だよ。葵だって彼方だって、どっちとも好きだ。けどな、葵。おまえのその感情はおかしいんだ。そもそも血の繋がった兄妹同士が恋い焦がれ合うなんて、そんなバカなことはない。そうだろ」
「だっ、だって好きなんだもん! 物心ついたときからお兄ちゃんのことが好きで、好きって想いが溢れてて、独占したくて、独り占めしたかったのぉ! けどやっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんで、私をただの妹としか見てくれなかったもん。女としてみてくれなかったもん! ……もう、決めた。私、お兄ちゃんの彼女になる! こんな暴力女よりも私のほうがお兄ちゃんに尽くすし、暴力もふるわない。お兄ちゃんの言うことならなんでも聞くし、なんでもしてあげる。だから、私から離れないでよぉ! 彼女できたって聞いてから、私もう、胸が張り裂けそうだよぉ! お兄ちゃんに振り向いてほしかったのぉ、好きって言ったほしかったのぉ、お兄ちゃんに愛してほしかったのぉ!」
苦吟と興奮の入り混じった喚き声。葵は儚げで空っぽな笑みを浮かべた。どろっとした劣情。鎌首をもたげる独占欲。
葵は僕にすがりついた。首に手を回し、我が身の全てを預けるように抱きつく。
家族同士の抱擁。
親愛。
尊敬。
そんなんじゃなくて。
そんな普通っぽいものをまったく感じなくて。
泥のように黒ずんでて、粘つくような恋慕。ほしくてほしくて仕方がないと言った妄執、我執。血の繋がりを越えた、一途でいて醜悪な恋心。強烈な我欲。
「お兄ちゃんはぁ、私のことぉ、好き?」
蛇に睨まれた蛙。抗えない。葵の目はブラックホールみたいに僕の意識を吸い込む。反抗心とか敵愾心とかそう言うの、根こそぎ持っていく。
ゆっくりと近づいてくる葵の顔。上品で整った面貌。
黄金の女神。
今は死を振り撒く悪鬼。
少しずつ距離が狭まっていく。舌なめずりを繰り返し、瑞々しい唇を近づける。
あと数センチ。
あと数センチ……。
と。
「ダメ、そんなこと」
突き飛ばされる葵。間隙をつかれ、勢いよく転がった。
「禊君の言うとおり。兄妹同士で愛し合うなんて了見違い」
決然と断言して僕の手を掴む。彼方は僕を立ち上がらせて家の外へと駆けていった。一度も振り返らずに畑道を疾駆する。
グチャグチャに攪拌された頭で状況の把握に努める。
葵は何をするつもりだったんだろう。
どうしてあんなひどいことを言うのだろう。
彼方はなんで僕を連れて逃げるのだろう。
後ろから綿を裂くような悲鳴が聞こえる。
彼方は唇を引き締めて遮二無二走っていく。
「逃げよ。どこか遠くへ」
ぎゅっと手を握る力が強くなる。
汗ばんだ手が張り詰めた想いを伝えた。
「二人だけでどこか遠くに……。電車に乗って、船に乗って、ここではないどこか遠くに……」