第三十三話
「禊君。あーん」
「あ、あーん」
「おいしい?」
「……おいしい」
「禊君もして」
「あ、あーん」
「相変わらず仲良しこよしねぇ。お母さん嫉妬するわぁ」
とぼけたようにそう言って、白米を口に運ぶ。桜サンは微笑ましそうにその光景を眺めていた。雲中白鶴の淑女。ただ寛容すぎるようにも思えるのだった。ここは親として止めるべきところのような。
親鳥が雛に餌を与えるような構図。白米を箸で挟んで彼方の口元に運ぶ。彼方は嬉しそうに米を咀嚼した。艶かしく喉が動いて、透き通るような肌はほのかな赤みを帯びている。細い手足。一斤染の着流し姿だからか、快活な印象を与える。一転、目元が怜悧に切れているので、なんとも面容で濃艶な雰囲気を漂わせているのだった。
彼方は僕の隣に座っていた。僕の腿に手を乗せて身を乗り出している。肩と肩がぴったりとくっ付いて身動きがしづらい。母親が目の前にいると言うのに、僕との過剰なスキンシップに勤しんでいる。
恥ずかしいなぁ、と苦笑するけど、彼方の体はあまりにエロ過ぎた。絶妙な黄金比。彼方の四肢はしなやかで綽約多姿だった。
煮魚を箸で崩す。次のオーダーは鰯の煮付けだった。
彼方はかわいらしい口を開けて、そいつを食べた。口をモグモグさせて噛み砕いていく。その間、僕の反応を窺うように上目を向けるのだった。
「……禊君」
「なに」と筑前煮に手を伸ばす僕。彼方から一時解放されたので、やっと自力でものを食べることができた。
「それ」
と。
指差したのは筑前煮の膳だった。ちょうど僕が食べようとしていた品だ。今後はこれがご所望なのか。
「口移しで」
耳が不穏な言葉を拾ったように思う。聞き取ってはならぬ言葉。受け入れてはいけない要求。
「……ん。なにが?」
「今度は口移しがいい」
と、とんでもないことを。
戦慄。僕はわなわなとふるえた。
彼方は唇を上に向けた。それを見た僕は心臓が大きく脈動するのを感じた。激しい動悸。理性がドロドロに溶けていく。思い出したように汗が吹き出て、喉がカラカラになった。何かを求めるように咽喉がひくつき、鼓動が異常に高ぶる。まるで麻薬。急速に体を巡り、狂おしい情欲に火をつけた。
ああ。
霞がかった意識の中、昨晩の出来事を想起する。卑猥な衣擦れの音。滴る唾、体液。理性の安全装置が外れたように絡み合う肉。自らの欠落を補完するように互いを欲し、己の不備を埋めるように愛を交し合う。傷の舐めあい。肉欲と性欲で空っぽの体を満足させ、それでも足りないと物狂おしい限りにその唇を貪るんだ。
両の目は閉じられている。時折瞳をぱちくりさせて、怒ったように頬を膨らませた。
「早く」
箸はれんこんを挟んでいた。小刻みに振動しているように見えるのは、僕の手がふるえているからだと思う。連動するように肌が粟立つ。汗がすごい。遠のいていく思慮、分別心。この子は何を言い出すんだ。
横目で桜サンを盗み見るけど、桜サンは平気の平左で食事をしていた。僕たちが視界に入っていないようだった。
と。
桜サンはおもむろに席を立った。
さすがに制止の一喝が入るのでは、と淡い期待をするも、「あぁ、二人とも続けていいわ」とむしろ欣喜として促す。「そろそろ私、仕事なのよ。しばらく家空けるから、留守はお願いね」
「……まかせて」
「うふふ。禊君も腹くくりなさい」と悪戯っぽく笑い、「その子、本気だから」と踵を返す。桜サンはリビングから消えていた。
その後姿を最後まで見届けた彼方は卑猥な笑みを浮かべた。抜く手も見せず手が伸びてくる。僕の前膊を掴み、自分の方に引き寄せた。彼方に抱きすくめられる形になる。
「……これで二人っきり」
危険な雰囲気を漂わせ、彼方は唾を飲み込んだ。
「……二人っきりじゃないだろ」
軽口を叩くも状況は変化しない。かえって悪化しているような。桜サンもタイミングが悪い、と歯噛みする僕。
「……ほしいな。ワタシ、口移しでそれ、ほしいな」
狭間で揺れる。理性と本能。天秤はどちらに傾くのか。願わくば理性の方に傾け。
と。
ピンポーン。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
連続するインターホン。けたたましく鳴って、まるでアラートのよう。
その声に呼応して意識が戻った。眼前には頬を紅潮させた彼方がいた。どうやら僕はぎりぎりのところで踏みとどまれたようだ。
数センチの距離。
反応がないのに困惑したのか、彼方が目を開ける。硬直する僕が彼方の網膜に映っているのが視認できた。目を瞬かせる。そしてあっけなく数センチの距離をゼロにした。彼方の舌は筑前煮の具を奪っていく。具材は彼方に横取りされた。侵攻はとどまることを知らず、彼方の舌が口腔を泳いでいく。気がつけば彼方は朝食そっちのけで熱烈な接吻を交わしていた。
猛獣のような唸り声。
くぐもった喘ぎ声。
僕の両頬は彼方に挟まれて、がっちりと固定されている。安定した唾液の供給。服越しなのが不満なのか、接吻を続行しながら僕の服をはだけさせていく。不器用で手馴れぬ手並み。それにむき出しの欲望が拍車をかける。彼方の手つきはたどたどしくて幼い子供みたいで、なのに荒々しい獣性が充溢している。
暴力的で有無を言わせない。キス自体は昨夜、狂ったように何度もしたような気がする。腕ずくでサディスティックな愛情表現。いまだに慣れない。愛の表し方は人それぞれだと思うけど、なんだかなぁ。
一向にやむ気配はなかった。いつの間にか押し倒すように僕の手を拘束している。硬く握られた両手首はきりきりと嫌な具合に軋んだ。鋭利な刃が肌を裂き、肉を絶っていくような痛み。虫が皮膚を食い破っていくような嫌悪感に苛まれる。全身を氷柱で串刺しにされる感覚、痛覚。
「……彼方。ストップ」
色欲で濁った目が僕を見つめた。接吻を中断し、煩わしそうに僕を注視している。早く続きがしたいのか、これ以上我慢できないのか、だらーっとだらしなく唾液をこぼす。粘性のある水音。彼方は濡れた舌で僕の頬を舐めた。
「……イヤ」
「イヤ、じゃないの」
「口移し、してくれなかった。その代わり。ペナルティ。償いをしようね」
「しようと思ったよ。けど……」
「けど?」
口ごもる。彼方のアプローチはちょっと積極的過ぎて、理解の容量を軽くオーバーしていた。罠にかかったウサギの気分。一方的な搾取、収奪。彼方の愛は根っこのところで歪んでいるように思う。
無感動な双眸が僕を見据える。色素の薄い虹彩。玲瓏な眉宇。胸元はほぼむき出しになっていて、形のよい乳房が見えそうになっていた。窪んだ鎖骨。朱に染まる肌はねっとりと汗を吸っている。息は荒く、艶な肢体は興奮で熱く高鳴っていた。
「これは……少し変かなって、思う。ちゃ、ちゃんとした手順を、踏もう。それに、チャイムが鳴ってるよ」
彼方はうっと詰まったように見えた。悲しそうに目を伏せる。尋常でない膂力を発揮する彼方の体。それが弱々しく微動した。
目を逸らす。彼方が僕の頬を掴んで無理やり自分の方に向かせようとした。僕は唇を噛んで目を差し俯けた。
僕の首根っこを掴んで、頬に粗暴な平手打ち。何度も平手が往復して、僕の頬を叩いた。突き抜けるうずき。容赦がない。駄目押しのように鳩尾に手掌を入れられた。心臓に銃弾を打ち込まれたような重い苦痛。鑿を差し込まれたみたいだ。
彼方は手負いの獣のように低く唸って、僕の胸先を手ではたいた。
「……こっち向いて」
無言。
「こっち向かないと痛いことするよ。あ、あなたが悪いの。わわ、ワタシに構ってくれないから、こんなことする。ワタシだってしなくない。けど、こうでもしないとこっち見てくれない。いい加減にしてよ。いい加減ワタシの思い通りになってよ」
僕の顔を殴る彼方。小さい拳が直撃して、脳がかき混ぜられるように揺さぶられる。目元に命中したからか、視界が薄おぼろげにかすんだ。焦点は合わない。世界が秩序を崩壊させていく。
「な、何か言ってよ」
強烈な一撃。意識が剥奪される。華奢な外見からは想像できない腕力。僕の頬に大量のクレーターができる。
「わ、ワタシはこんなに好きなのに。こんなに愛してるのに、何で応えてくれないの……?」
悲しそうに、苦しそうに歪む彼方の顔。今にも泣き出しそうな表情。力は強いのに、非力で無力で、自分の弱さに苦悩するかのように。失うことを恐れているかのように。
包み込む。彼方の手は所々腫れている。その手が愛しくなって、両の手で包み込んだ。
「……痛そうにしてる」
きめ細かい肌は血が出ていて、所々擦り切れていた。あかぎれのようになっている。せっかく女の子に生まれたんだから、肌には注意しないと。そんなことしたら、肌が荒れちゃうよ。
彼方に背中に手を回した。その折に焼け付くような痛みが生じる。ダメージが蓄積されたのか、あるいはそれが彼女の苦しみだったのか。
抱きしめてあげると、すぅーと彼方の熱が冷めていくのが分かった。僕は息切れしながらも揺り篭のように体を揺らしてあげた。しゃくりあげる彼方。最後の抵抗のように僕の胸板を叩いて、顔をうずめた。体を痙攣させ、ポロポロと涙を流れ溢す。その涙を掬い取って口に含む。味はない。清冽に喉元を通り過ぎていく。
意味が分からない。
人の感情なんか、適当で曖昧。物差しで計ることも、感情で推し量ることもできない。漠として不透明。その思惑も心中も、他人が理解することはきっと叶わない。そういう風にできてるから。僕たちの歩んでる人生は違うから。
「……ごめん」
「いいよ」
「許して、くれる?」
「うん」
「ありがと」
「こちらこそ」
「約束は守れなくて、いつもあなたに欲情して、暴力ふるって、こうして襲っちゃう。こんなワタシだけど、許してくれるの?」
「許すとか、許さないとか、そんなんじゃない。どうでもいい。彼方は彼方でいいよ。ただ、イヤなんだ。乱暴は止めようよ。それに限界は見極めなくちゃいけないだろ」
「ワタシのこと、拒んだりしない?」
「拒まない」
「ワタシのこと、はねつけたりしない?」
「はねつけない」
「ワタシのこと、好きでいてくれる?」
静かに頷く。
不知火彼方は。
不知火彼方は――。
破綻している。純粋無垢なのに邪悪で、従順なのに獰悪で、生き方そのものが歪んでいた。けど、僕は僕で致命的だった。そういう意味では相性はいいのかもしれない。
欠けたピースが嵌り合うように。
狂った歯車が噛み合うように。
出会うべくして出会ったのか、運命の悪戯で出会ったのか、あるいは単なる偶然の出会いなのか。
ただ。
赤い糸の存在は信じる。
「僕はね、ここしばらくは君といた。君と一緒にご飯食べたし、君と一緒に家まで帰ったし、色々と喋ったり話し合った。……大体無言だったか。僕も君もあんまり喋る方じゃないしね。けど、その沈黙は心地よかった。君といて安心してたんだよ、僕は。そして思ったんだ。多分僕は、君のことが好きで、不知火彼方って女の子に惚れてるんだって」
「……うん」
彼方はほろほろと再び涙を溢した。小さい手を目元に当てて、やがて顔全体を覆って、静かに泣いた。
気付かないふりをして、強く抱きしめた。ちょうどいい抱き心地。落ち着く。
彼方の熱が血流を活性化させていくのを感じた。理由はない。
この子を必要としているのか。
おぼろげにそう思う。
愛はなんて適当な感情だろう。いつの間にかそこにあって、理由もなく芽生え、気がつけば誰かに縛られている。恋々たる呪縛。十字架に括り付けられる性、宿業。受け入れるのが吉か、それとも凶か。受け入れて何が変わるのか。それに益はあるのか、利はあるのか。
その意味はなんなのか。
そもそも意味があることに意味はあるのか。
「……玄関に行こうね」
「……分かった」
乱れた身だしなみを整えて、気を引き締めて、玄関へと向かう。リビングを抜けてフローリングの床を彼方と一緒に進んだ。
ドアを開けた。ゆっくりと開閉されるドア。
その先にいる存在。
それは。
葵だった。