第三十二話
淫らに隆起する喉。彼女の喉は唾を飲み込んだからか、ごくんと獲物を丸呑みする蛇みたいに膨らんだ。
と。
口の中。不純物が混ざった感覚。歯や歯茎を事細かになぞっていき、唾液を抽出する。舌と舌を絡ませ、ごきゅと淫靡な音が残響した。それは僕の唾を飲み込む音だった。
煮えたぎるような火照った体が押し付けられる。熱っぽい肌、汗。蒲団に絡みついたり、相手の肌に絡みついたりして、おかしな快感にさらわれる。僕の脳髄は異常に高ぶる興奮を察知した。
「ワタシ、ワタシ、ワタシ……ワタシぃ!」
狂ったように僕の口を吸う彼方。目に光はなく、淀み、腐り、濁っている。黒々とした空洞。中身のない空虚な瞳が僕を捕らえるだけだった。
「あわわわわわ」
「こわくない、こわくない」
「うぅ……うぅ」
「こわくないって言ってるでしょおぉ。ほおら、こわくないよお」
震える体を彼女は抱きしめた。彼女の豹変ぶりに、僕の体は拒否反応を起こしていた。女の肌を拒絶していた。
けれど。
けれど、けれど、けれど。
「もう、ダメ。我慢できない。できない。できない。できない。結構がんばった。辛抱した。必死に耐えた。根気よく忍耐した。生唾飲んで堪えた。けど、もう限界。したい。猛烈にしたい。あなたとセックスしたい。したい、したい、したいぃ! するよ。あなたの体、犯すよ。犯すよ、犯すよ。犯すよ」
ねぶる。激しく、やらしく、毒々しくねぶっていく。欲情するウサギのように、意識も常識もなく、僕の口を無理やりに吸いつける。とろんとした目は焦点が合っていない。
しっとりと濡れた肌。吐き気。嘔吐感。
「好き。好き好き好きぃ! 好きだよぉ、愛してるよぉ、恋焦がれてるよぉ! だから一緒に寝よ寝よ寝よ寝よ寝よ寝ようよぉ! ううううう」
欲情の箍が外れた彼女は、僕の肌を舐めずった。禍々しい高揚感。悪意と好意。ない交ぜになる。
情報の処理が落ち着かない。何で彼女がこうなったのか。どうして彼女は暴れだしたのか。
殴られた痛みで神経が麻痺する。
蹴られた痛みで感覚が麻痺する。
叩かれた痛みで全身が麻痺する。
口付けの痛みで理性が麻痺する。
あ、えっぐ。
強引に割り込んでくる舌。暴力的に唇をこじ開け、僕の下半身を着物を着たままにまさぐり、餓えた狼のようなギラギラした視線をよこす。
なんで。
彼女の誘いを断ったからか。愛を交し合う閨時を峻拒したからか。
彼方は五年もの間、僕に恋い慕っていた。切々とした情愛を募らせ、ストーカーまがいなことを飽きもせずに続けていた。すぐに諦めてしまいそうなそれを、愛欲を原動力にして。何年も何年も……。
ほかの男に見向きもせず、僕を見限ることもせず、むしろ僕のために自分を磨いていって、思慕の情を強くした。異常なほど強く僕を愛していった。
壊れてる。
色々な部分が壊れてる。人間の限界とか、愛の臨界点とか、色々なものが壊れている。
呻いて。
喘いで。
息ができなくなる。気息奄々。ぜぇぜぇと呼吸が苦しくなる。僕は呻吟して、どうしようもなくて、彼女を見た。
彼女は狂ったように僕の服を脱がせていった。舌を這わせ、唾液をまぶし、マーキングしていった。これは自分のものだ。自分の所有物なのだと焼き印を押しているようだった。そう見えた。
あぁ。
狂っていく。
僕が。
彼女が。
狂っていく。
朝光が眩しい。
鉛が埋め込まれたように体が重い。寒い。体の芯から寒い。
蒲団から起き上がった。
半裸だった。着流しは剥ぎ取られ、下着はあたりに散乱し、掛け布団は乱れている。肌には何かが吸い付いた跡。汗臭くて女のにおいがする。きつくて強烈な、牝の色香。
隣にはすやすやと眠る少女がいた。天使のような神々しさ。服を身に纏っておらず、純真な裸体は光に反射して淡く光っている。肩から胸のラインが艶かしくて直視できない。癖のない髪はさらさらと蒲団の上に広がっていた。
下着を回収して、衣類を整える。服装は一通りましになった。
一転して、記憶がなかった。なぜこうなったのか。どうして僕と彼方は裸なのか。
も。
もしかして……。
僕は甘酸っぱい妄想をした。ついに、ついに、僕と彼方は……。
と。
違う。
それは違う。
確かにそうだがそれは違う。
行為に至るまでの経緯、それが根本から間違っている。
あの時。
僕は。
「うううううう、えっぐ」
僕は片膝をついて口に手を当てた。吐き気がした。同時に全身が熱く火照っていった。その時を思い出したのか、口の中がからからに渇き、肌が女の熱を欲し、頭が性欲一色となった。
のこぎりで金属を切り裂くような不快感。ぬめりのある水音。温かい弾力。想像を絶する快楽。溺れていく。
深く溺れていく。
「僕は」
まぐわったのか。
おぼろげな意識がその可能性を知覚。すぐさま焼却炉に放り込んだ。そんなはずない。そう思った。
そんな、彼方がそんなことを……無口で感情を表に出さない彼女がそんなことを……。
ふと、ものすごい欲求に囚われた。
机。
彼方の机。
いたって無機質な木製の机。
手を伸ばす。そーっとそーっと手を伸ばす。
一段目の引き出し。指を引っ掛け開けてみる。
と。
写真。
いくつもの写真。何百枚もの写真。僕の映った写真。それが引き出し一杯に入っていた。
ほかにもなくしたと思っていた鉛筆やハンカチ、歯磨き。なぜか噛まれた跡がある。湿気て液体をまぶしたようにも見える。
そして僕の家の鍵そっくりの鍵……合鍵? 誰の家の?
頭が痛い。物理的に痛い。そう言えば殴られたのか、僕。それも結構、めった打ち。後頭部のあたりも痛いし、腹の辺りも痛い。ぎゅるるーとお腹が鳴った。
昨日までのどたばたが嘘のようだった。この家に入ってから、巡るましく何かが変わった。昨夜の彼方の狂態もだ。あれは狂ってた。おかしかった。平生の不知火彼方ではなかった。
帰ろう。
とにかく帰ろう。
後日改めて尋ねるのだ。どうして僕を襲ったのか。告白を受けた当時は僕を襲ったり、無理やりしないって言ったよね。僕の意思を尊重してくれるって、そう言ったよね。
桜サンに一言入れて、帰宅。その流れがいい。今の彼方は気が立ってるんだ。冷却期間。しばらくは会わないほうがいいかもしれない。
方向転換。僕は彼方の自室から退出しようとした。
しようとした。
できなかった。
「がは」
足首を捕まれ、頭から転倒。手をついたので顔面強打とはならなかったが、フローリングで打った掌が痛い。
「帰らないで」
彼方の声。切なく喘ぐ彼方の声。
首を回して顔だけで振り返る。泣きはらしたような彼方の顔。うるうると水気を含んだ瞳が物悲しそうに僕を見据えた。
「ワタシが悪かったから。ワタシ、あんなつもりはなくて……。あなたの前では禁欲して、克己するつもりだった。本能に任せちゃダメだって、何度も誓った。けど、その……く、食い気が理性に勝っちゃって……。気がついたら……あなたをメチャクチャにしてた。あなたの想い、踏みにじって、好き勝手に蹂躙してた……」
彼方の指が僕の足首に吸い付く。汗ばんだ掌。彼方の息は荒い。
「ワタシ、あなたのことが好きすぎておかしくなっちゃった。もうこんなことしない。絶対しない。誓う。だから、ワタシから離れないでよぉ」
がっちりと僕の足を掴んだ彼方。懇願するように、許しを請うように、僕の足にしがみつく。頬を足にこすり付けて、僕から離れない。
「離れちゃイヤ、逃げちゃイヤ、捨てちゃイヤ、嫌いになっちゃイヤ、そんなのイヤ。ずっとワタシのそばにいて。なんでもするから。あなたの言うとおりにするから。至らないところがあれば直すから。好きにしていいから。だからワタシのこと嫌いになったらイヤだよ」
雪のように白い髪が無造作に揺れる。取り乱した前髪の隙間からは粘性のある視線。べったりとこびり付くような視線。そして、何かを恐れるような視線。
何を恐れているのか。
何を恐怖しているのか。
糸を手繰るように、彼方は這いずる。力ない動作で僕に近づいてくる。蜘蛛のような動き。獲物を捕食し遺憾なく食らってしまうような、そんな貪婪さ。口元からは唾液が漏れ、皮膚はほのかに桜色。それは彼女が誰かに欲情していることを示す前触れでもあった。
「ごめんね。次は痛くしないから。気持ちよくしてあげるから。だから逃げないで。今日もしよ。今日は土曜日。いっぱいできる。大丈夫。もう安心。心配いらない。なんでもする。禊君の自由にしていい。好きにしていい。だから、しよ」
彼方は僕の首に手を絡め、口吸いをした。激情がほとばしるような接吻。苛烈で手荒で全体重をかけるような接吻。僕の口蓋に唾液を落として飲ませ、次いで僕の唾液を執拗に吸った。猛々しい。まるで猛獣のようだった。
「かな、た……」
「なあに」
接吻の間隙を縫って、一旦彼方から離れた。色っぽい彼方。当然のことながら服を身に纏ってはいない。完全なる裸身。女神像のような造形美だった。
こんな女をものにできるなら……と世間一般の男は考える。夢、希望。叶わぬ夢、希望。大体の男はそれを叶えることなく人生を終える。
一方で違和感。破綻している。不知火彼方は精神的に破綻している。退廃的で倒錯的で、破滅型の人間。一人の男性をずっと愛し続け、ほかのものには目もくれない。
そんなの異常だ。ありえない。精神構造からしてもはや末期。重症患者。
人間は欲深い生き物。だから一つのものに囚われることこそあれど、半永久的に囚われることはない。意志薄弱で常に自分が持っていない何かに目移りする。
いつかは飽きる。どこかで失望して、己の幻想から目覚める。それは将来の夢でも恋愛関係でも発生すること。ほんの些細なことで失意に陥り、些事に翻弄される。今まで信じていたものが軽佻浮薄だと気付くやいなや、掌を返すように冷たく接する。
小さい嘘は大きな穴を生み、大きい嘘は小さい現実を埋める。取るに足らない価値観に取り付かれ、自縄自縛の陥穽に嵌り、やがて信頼していたものがその実くだらないことに気付くのだ。
そうして人は幻滅する。それの連続。
人生、その連続。
くだらない。当たり前すぎてくだらない。
しかし。
ない。不知火彼方に失望なんぞない。ただ盲目に純粋に一人の人間を愛しているように見える。それは人間としての欠陥を示唆しているのではないか。
机の中を鑑みても、不知火彼方は本気なのだ。不知火彼方は本気で、それこそ言葉で表しようもないほど紅花禊を好いているのだ。たまりかねて自ら襲ってしまうほどに。
「そっ、その……明日にしよっか。明日。それでいい?」
「やだ。今したい」
「わがまま言わない」
「……うぅ」
「いい?」
「……と言うことは、明日も来てくれるの?」
「……暇だったら、かな」
「時間作って。無理やりにでも。後、来てくれたらぱふぱふしてあげてもいいよ」
どこでその言葉を覚えた、とは聞かず、頭を撫でてやる。すると一変して、彼方はいじらしい子猫のような反応を見せるのだった。
そのギャップ、ズレ。
背筋を寒くしながらも、「服、着よっか」と促す。彼方はいまだ一糸纏わぬ姿だった。そんなの恥ずかしくて目すら合わせられない。
「照れてる」と僕に身を預けたまま、「かわいい」と宣う彼方。さきほどの獣性はとっくに失せ、じゅるじゅると楽しそうに涎を僕の体にまとわりつかせた。戯れるように僕の腕を噛む。ぎぎぎと歯と歯をこすり合わせ、僕の腕に思いっきり歯形をつけた。
彼方の愛情表現は変態っぽい節がある。綺麗な子なのに行動がどうしたって逸脱しているから、筆舌に尽くしがたい。どうしてこのような子が生まれたのか。聡明そうな容姿とは釣り合わない性格。それも多分、僕限定でそうなるのだ。
僕にだけ素をさらす。
それがすごく魅力的に思えてきて、それも悪くないと思えてきて、そんな僕はやっぱりバカだった。昨夜の怖い思いは棚上げ。僕の必殺技、棚上げ。ここでも本領発揮か。
「彼方の方がずっとかわいいよ」
僕はかねがね包容力のある男になりたいと思っていた。
それを今、実現する時か。
彼方はぱーっと花開いたように笑った。爾後、あわわわとゆだったたこのように頬を紅潮させた。露出した素肌も端まで熱を帯びているのが分かった。
瑣末な褒め言葉でも、照れる。昨日あれだけ馬脚を現したのに、こんな軽微な言葉でも嬉しそうに応えてくれる。
僕の言葉に魔力があるわけではなく、単に受け手の思いの丈が強いだけ。僕自身に特筆すべき長所も強みもない。平々凡々。何もない。
何もないが、僕には明眸皓歯な彼女がいる。僕の身の丈にあわぬ、白い花が匂い立つような恋人が不釣り合いにもいたりする。
その子は少々みょうちきりんだけど、根は多分いい子なのだ。それも綺麗で一途。考えてみれば男の理想を体現したような女性。もしかして僕は幸せ者だったりして……。
そうポジティブに考えて、彼女の異常を相殺。それほど変なことでもない、と自分を騙して、むしろ彼女はすばらしい人だと思い込む。
紛れもない錯覚であったが、別にいいような気がした。人間、どこかで錯覚している。罪とか罰とか覚悟とか、そんなファンタジーなものでそれっぽい贖罪をしているだけ。
架空のもの、仮想のもの、そう言ったものでなんとなく反省して、次に繋げようとか思って、過去の失敗を忘れる。教訓にしようとか訓戒にしようとか、それで決着をつけて、結局は等閑に付す。ほとんどの人間が過去の蹉跌を踏み、遺漏、不始末を繰り返すのだ。
自分を卑下しているわけではないが、世界はそういう風にできている、としか言いようがない。元から世界はそういう風に出来上がっていて、すでに完成している。
未来は未定だとか、運命は自分で切り開くだとか、そんな名言が今もこの世に残っている。その言葉はみなに希望を与え、明日への活路を見出す。けれど見たことがない。そんなかっこいい人間、ついに見たことがない。
それは一重に、僕の人生経験が貧弱であるからだと思う。思うが、どうもそうとは思えない自分がいる。いぶかしげに首をひねる自分がいる。
未来とか運命とか定まってはいない。少なくとも定まっていたらイヤだし、生きる気力が湧かない。だから確定はしていないのだろう。
ただ、自らの力でこれから先のことを決められる人間は数が絞られてくる。いることはいるが、その存在は極めて希少、稀有。でなければ、人々の不平、不満は取り除かれるだろう。逆説的に言えば、これは自分の将来をうまくコントロールできない、ということになるんじゃないかな。
鳥の囀る音が聞こえてきた。
納得したのか渋々と言った風に服を着る彼方。レースのついた下着をつけ、着物の袖を通す仕草は蠱惑的だった。
「下」と階下を指差す彼方。リビングに行け、と言うことか。「朝ご飯」
「……いただいていいの?」
「勿論」
それだけ言って、彼方はさっさと階段を下りてしまった。いいところで中断されたのが嫌だったのか、プンプンと怒っているようだった。
しかたなく階段を下りた。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
僕は歯形のついた腕を桜サンに指摘されて苦笑しながらも、朝食のご相伴を預かった。
何かを忘れているような気もしたが、やっぱり棚上げにした。