第三十一話
脱衣所に戻って彼方の用意してくれた服を着た僕は、不知火家のリビングにいた。
リビングでは桜サンが林檎の皮をむいていた。小気味よい鼻歌を歌って、巧みに果皮をはいでいる。
僕はそれを眺めている。桜サンは近所で茶道教室の先生をやっていて、時折教え子から果物や菓子を貰ったりするらしい。折も折でとある教え子から一通り、果物やら和菓子やらを頂戴したらしかった。
一重に桜サンの人徳か。この様子だと頂戴物を相当に貰い受けているのだろう。
僕は桜サンの勧めで、恐れ多くもそれらを賞味することとなった。
「やっぱり入江さんの家の果物は瑞々しいわねぇ」
「浴衣ちゃんから貰ったんですか?」と林檎を食い切りながら、そんなことを問うた。
「あら、ご存知? 彼女、毎月のようにご進物を下さるのよ。だからか、うちの厨は付け届けで一杯なの」
「そうなんですか……」
林檎を食みながら相槌を打つ。口の中で甘みのある果汁が広がった。
と。
「でも、感心しないわねぇ。あなたには彼方って言う恋仲がいるのに、ほかの女の子と交流があるなんて」
桜サンは藪から棒に蛇を呼び出した。
スルスルと林檎に刃を入れる。シャリシャリ。その音だけが静まり返った室内に響いた。
「私だったらねぇ、あなたを半殺しにしてるわぁ。前にもあったのよねぇ。旦那がふいに女の子の名前を出してねぇ、そのときの私は無言で彼に逆十字固めをかましたわぁ。禊君も娘にそうされたくなかったら、娘以外の女の子の交流を絶つことね。自分の命に関わることだから」
「そう言うんじゃないんです」となぜか言い訳がましい僕。「浴衣ちゃんは妹の友達ですから」
「けどねぇ、娘は私に似てちょーっとだけ嫉妬深いからねぇ、以後付き合いは控えた方がいいわ」
「……おっしゃる通りで」
別に入江浴衣とはそれほど付き合いが深いわけではない。けれど、桜サンの言説どおり今後は自粛した方がいいように思えた。
興味はない。今になって、彼方以外の女性にそういった感情、抱けない。
その中には妹も含まれている。当然と言うか当たり前と言うか、妹にそれに類する感情を抱いたことはなかった。
一方で妹のことは死ぬほど好きだ。我が身を賭しても守ってやりたい。葵は僕の大切な家族で、僕に残された最後の家族なのだ。
兄が守ってやらないでどうする。
周りにシスコンと罵られようが、疎んじられようが、その信念だけは変わらない。曲げたくもないし、曲げるつもりもない。
そうした決意が、葵を甘やかしているのか。
葵を徹底的に突き放せないのも、それに起因するやもしれない。どこかで立ち止まっているのだ。一旦葵から離れても、しばらくは立ち止まっている。葵が追いつけるよう、待っているのだ。
これだから愛はややこしい。真剣な想いでも、屈折したり、歪んだりする。僕は葵を愛しているけど、葵は葵で異質な想いを抱えているのだ。それが家族ゆえの愛ではなく、異性ゆえの愛であることに、葵は気付いているのか。
「……すみません。これからは彼方サン以外の女性とは会わないようにします。すみません」
「そう言うわけじゃないわ。それは学生のあなたには到底無理でしょう? ただ娘の前で他の女の子の名前を出すと、あなたも逆十字固めを受けることになるってだけの話。これは注意と言うよりも、忠告ね。彼方、よっぽどあなたに思いつめてるから」
「こんな馬の骨ですみません。精進します」
「いいのよ、いいのよ。私から見てもあなたは好青年よ。優しそうだし、暴力をふるわなそうだし、それに……どことなく雰囲気が常人離れしているところも素敵だわ。この男、なまなかならぬ、って感じよ」
「過大評価ですよ」
「過小評価よ。これまでに会ったことのない人種ね。彼方が夢中になるのも分かる。だってあなた、目がいいもの」
「目、ですか」
「そうよ。意志の強そうな目。それでいて、囚われない。価値観とか善悪とか、そんなのどうでもいいって思ってる目だわ」
それは相原にも言われたことがある。
おまえはいかにも貧弱そうで、事実貧弱だが、胸の内にまっすぐ伸びた一本の刀を持ってる奴だ、と。
相原は相原で切れないものはない刀を帯びている奴だった。あいつの佩く刀はどんな障害でも、快刀乱麻を断つごとくキレているのだ。
「僕はやりたいようにするだけですから。それがたまたま他人の価値観とかそれっぽい善悪に接触するだけで、正当性とか整合性とか特に気にしたことはないです。理論とか理由とか、それこそどうでもいい。また、生意気だと不肖ながら思うんですが、自分の行動に迷ったこともない。何をしたらいいのか分からないってことは、裏を返せばなんでもできる、と言うこと。知るって事は変わるってことで、迷うってことはただの浪費です。まぁ、無駄に人生を浪費することも結構楽しいですから、しちゃいけないとは思いません。楽ですし、それにみんなが思ってるほど悪いことでもないですし」
「それはいいわねぇ。貴重なご教授、痛み入るわ。なるほどねぇ。改めてみれば昨今の若者は一定の価値観に凝り固まった愚図が多いわねぇ。その中の一握りくらい、あなたみたいな柔軟な若者がいたほうがいいわ」
「けど、彼方さんは僕にはもったいない人です。僕なんかでいいんでしょうか」
「いいんじゃない。それは当人が決めること。娘がよければそれでいいのよ。それよりも私は、早く孫の顔が見たいわ」
「すぐ見れる」
と。
着流し姿の彼方が僕の横に立っていた。いつの間にか、僕の食べかけの林檎をひょいと摘んで、うまそうに口に運んでいる。
「あっ、それ、僕の……」
彼方は僕の言葉を無視して、食い入るように僕を見詰めた。風呂上りだからか頬は上気している。肌も桜色をしていて、女の色香が漂っていた。
「けど、意外。禊君、そんなこと思ってくれてたんだ……。大丈夫だよ。あなたこそ、ワタシにはもったいない。気後れしないで、ワタシと愛し合えばいいんだよ」
どうやら桜サンとの会話を聞かれていたらしかった。
気恥ずかしいような困ったような、そんな気分になる。こういう経験はこれまでにしたことはない。少なくとも、妹以外の女性とこうして顔を向かい合わせたことはなかった。
「うふふ。禊君は娘の部屋で泊まりなさい。ほかに空いてる部屋はないものね。ふ、ふふ」
瞠目。桜サンの提案はあまりにも短兵急だった。いや、薄々予想はしてたけどね。けど、僕は男で彼方は女。それも思春期真っ只中の二人だ。それを十把一絡げに一つの部屋に押し込むのは……。
「それはその、まずいんじゃ……」
「まずくない」
と。
きっぱり断言する彼方。顔つきは神妙としているのに、目には炯々と異様な光がともっている。
「全然まずくない。むしろうぇるかむ」
拙い英語はなんのその。精神の蝶番が外れた彼方は、引き摺るように僕を私室へ連行した。
時刻は深更。
部屋の扉を開けた先には、一組の蒲団がすでに引いてあった。
「ここでワタシたちがまぐわるんだよ」
と。
彼方はポンポンと蒲団を手で叩いた。
帳の下りた夜更けのことだ。どことなく虫の鳴き声が聞こえる。開け放たれた窓からは薄ぼんやりと雄渾たる山容が窺えた。
僕は彼方と距離を置いて体育座りをしていた。時計を盗み見れば十時を過ぎた頃だった。
「……聞いてる?」
彼方は四つんばいになって僕のほうに視線をやった。鼬が雌伏するような体勢。重ねられた襟から胸元が見えて、視線に困る。
「彼方。ちょっといいかい」
「なに」
「蒲団が一つしかないんだけど、僕の寝る場所は?」
彼方は眉をひそめた。いぶかしげに僕を見る。
その後。
卒然として掛け蒲団を僕に放った。僕は掛け蒲団に押し潰され、倒れこんでしまう。
その上から彼方がのしかかってきた。足と足がこすれ合う。双方とも着流し姿だから、着物がはだけ、肌と肌とが不用意に触れ合った。
「一個で十分。二人一緒に寝る。いい?」
「いいって言われても……」
踏ん切りがつかない僕だった。これだからみなに小心者だの、へたれだのと酷評されるのか。その評定に間違いはないと思うけど。
「ワタシ、寝たい。禊君と……寝たい」
「寝たいって……君はねぇ」とは言うが、彼方の目は本気だった。
押し黙る。
彼方の手が僕の胸板に触れる。やがて押さえが利かなくなったのか、襟を掴み肌を露出させた。鎖骨の辺りにほとばしった唾液が落ちる。
無言で僕に抱きついてくる彼方。首筋から甘い香りがして、くらくらする。
僕は腹筋の要領で上体を起こした。彼方は僕の首に手を回して、胸に顔をうずめた。時々猫のように僕の肌を吸う。
これはダメだ。
猛烈にそう思った。この雰囲気はマズイ。なんかもう、大人の階段を一気に駆け上がってしまいそうだ。
「なっ、何して遊ぼうか? まだ時間もあるし、と、トランプとか将棋とか……。彼方は何したい?」
「セックス」
「……へぇ。そう、なんだ」
「何度も言わせないで」
「うん……」
静寂。僕の心音と彼女の鼻息以外に音はない。
月明かりが差し込んできた。
電気はさっき彼方が消した。だから、月光だけが光源だった。
うっすらと月の光に照らされた体が見えた。
大きくなっていく鼻息。うぅーっと獣のような彷徨。艶めいた肌の感触。
爛れるような熱気が近くから伝わってくる。甘くも毒々しい、毒林檎のような気配。ぴちゃりと水音のような濡れた音がして、それはすぐにくちゅくちゅと粘性のある音へと変わっていった。
と。
駆け出す。
逃げ出す。
走り出す。
本能が。
本能が。
ぐちゃぐちゃに。
「みそぎいいいいいいいい」
笑えるくらいに間延びした声がしたと思ったら、着物の襟を荒々しく掴まれていた。ダンと僕の首が床に打ちつけられる。後頭部に鈍い痛み。尋常でない力、膂力。
一度僕を打ちつけた彼方は、何度も何度も何度も僕を打ちつけた。ぽたぽたと唾液がこぼれる。床や僕の着物に雫が垂れて、淫猥な音が残響した。それに気づいてないのか、はぁはぁと獣のような息を漏らすだけ。
もう一度、駄目押しのように叩きつけられた。先刻のよりも重い一撃。一瞬、視界が白くかすんだ。その後、僕の頬を強くひっぱたいた。じーんと糜爛した熱がうごめく。
「いっ、いだ。いだいぃ」
頬に衝撃。殴られたのか。そう思う前に更なる衝撃、痛覚。振り上げられる腕。陥没する肌。
「なんでっ、イヤイヤっ、するっ、のぉ。あっ、あなたはっ、わっ、ワタシのっ、言うとおりにっ、すっ、すればっ、いいっ!」
「か、なた」
「ううううううううっ!」
涎が僕の顔に落ちてくる。腫れた目で前を見る。彼方の顔。歪んだ彼方の顔。美しい彼方の顔。
それが。
それが近づいてくる。
ゆっくりと。
ねっとりと。
じっくりと。
悪魔のように。