第三十話
彼方の部屋はやはり殺風景だった。僕の自室とさほど変わらない。必要最低限のものしか置いてなかった。
「どうしたの?」と棒立ちになる僕を見咎めたのか、そう問いかける。
「いや、女の子の部屋にしてはものが少ないなって、失礼にもそう思った」
「クマのぬいぐるみとか置いてほしかった?」
クマのぬいぐるみの置かれた彼方の部屋を想像してみる。
「……どうだろ」
「似合わない?」
「あんまり」
「でしょ」と彼方はカーテンを広げ、窓を開けた。おもむろにカーペットの敷かれた床に腰掛ける。「だから、置いてない。それに、嫌い。人形とか、好きじゃない」
「そっか」
「ワタシって淡白な女?」
「いいよ。僕の部屋の方がもっと淡白。すごく味気ないから」
「知ってる」
「…………」
「禊君の部屋って本当に何もない。部屋は個人の心象風景って言うらしいよ。ワタシたちって似たもの同士だね」
「……かもね」
ため息をついて壁に背を預ける。彼方は手招きをして、隣をポンポンと叩く。そこに座れ、と言うことか。
真っ白い壁に囲まれた空間。机や椅子。隅にいくつか本棚が設けられている。少女漫画は当然としても、料理本や学術書。次いで、拳銃や日本刀の図鑑など、種類は多岐に及ぶ。特にファッション雑誌の横に、『世界の拷問選集』が並べてあるあたり、面妖としたものを感じる。
個々の部屋は個々の心象風景、と言う彼方の言説。その通りなら、彼方の深層心理は魑魅魍魎の巣なのか。あるいは、奇々怪々たる迷宮なのか。
丸テーブルを迂回して彼方の隣に腰を下ろす。窓から漏れる西日が彼方の面容を薄く照らした。
「記念写真撮ろうね」といつの間にか右手に携帯電話。僕のほうに体を寄せる。
「記念写真?」
「禊君がワタシの部屋に来たことを記念して。……変?」
そういう間にも、彼方はシャッターを切った。フラッシュが焚かれ、一条の閃光。まばゆい。思わず手をかざす。
「……どういう記念?」と疑問を呈するけど、それよりも僕は密着してる彼方の体の方に神経が向かう。寒くもないのに鳥肌が立ってる。「それに僕、前にも来たよ」
彼方は納得した風に頷く。爾後顔を朱に染めた。「あの時は高ぶってて、そんな余裕なかった。舞い上がってて気が回らなかった」
「さいですか……」
「禊君が帰っても、写真があったら寂しくない。前にカセットテープで声を録音したけど、聴覚だけじゃ満足できない。視覚も潤さないと。後は嗅覚、触覚、味覚だけど……。今着てる服を頂戴って言ったら、禊君でもさすがに引くでしょ」
「……誰でも引くと思うよ」
「一応予備の服はないこともないから、それを着れば帰途につくことはできる。……貰っていい?」
彼方が当たり前のように聞くものだから、一瞬戸惑う。
段々と目が潤んできている。スイッチが入ったのか。彼方は妖しい視線を僕に投じる。
強烈な目の重圧に耐え切れなくなりそうになった僕は、「ぼ、僕の服を貰ってどうするの?」と聞いてはならぬ質問をした。
「抱き枕にする」
「は?」
「抱き枕に被せて、添い寝する。寝る前にクンクンして、禊君のにおいを嗅いで、悦に浸る」と至極まじめな表情。「これで嗅覚はばっちり」
彼方はピースをした。
ばっちりじゃない、と思うが、看過。不知火彼方とはこう言う人なのだと再認識する僕。
「お、男冥利に尽きる……みたいな。は、はは」
笑ってごまかすが、笑ってごまかせないような内容だった。無邪気と言うか、幼いと言うか。彼方の発想に邪気はない。が、反面、病的に映る。一般人の感性からずれているようにも思う。
「後は触覚と味覚。どっちも難しそう。どうしたらいいかな」
「どうにもしなくていいよ。実際に君の前には僕がいるだろ。そんなこと考えなくていいと思う。……と言うより、そんなことを平気で実行しそうな君が怖い」
それも一部、実行してる。
「それもそう」と心機一転と言った様子。「生の禊君を楽しめばいいね」
数歩後退するも、その分だけ近づく。縮まらない距離。彼方は四つん這いになって、僕に接近してきた。
「何で逃げるの」
「身の危険を感じてね。僕の本能が囁くんだ。ここから非難しろって、ここは危険だって」
「ここは世界で一番の安全地帯だよ。後、あなたとワタシの愛の巣でもある」
後ろに方向転換しようともくろむも、彼女によって阻止される。背骨を打った僕の目と鼻の先に、彼方の整った面貌があった。
両手は塞がれている。拘束状態。逃げることも叶わず、抗うことも叶わず。俎上の魚。料理寸前の鯛。
「巣作り、しよ」とふいに微笑んで、「それと、子作りも」と大胆とか、常識知らずとか、そういったものを度外視して、彼女は言い切った。
抵抗実らず、さながら蟷螂の斧。すぐに鎮圧されて、それでおしまい。抵抗する気も失せ、いっそ彼女を抱きしめようか、と思う。引いてダメなら押してみな。そう決めて、彼方の腰に手を回す。ぎゅっとした。その後、彼方の頭をよしよしとなでる。
猫のように唸る。彼方の幸せそうな表情を見ると、つくづく不肖な僕には釣り合わない佳人だと思う。どうして僕みたいな奴を好きになったのか。ほかにもいい男なんぞ山ほどいる。
しかし。
そういった思考を阻害するほど、彼方の体つきはエロかった。
なんだかんだでにゃんにゃんする僕たち。
今更ながら、彼方のご両親や没した僕の両親に申し訳ないと思った。
○○○
夕食をご馳走になった僕はソファーに座ってテレビを見ていた。
自宅で見るのは何てことないのに、他人の家で見ると変な感じがする。周囲の環境が違うからか。それとも隣に彼方がいるからか。
桜サンは皿洗いをしている。手伝おうと奮起するも、当の本人にやんわりと断られ、「禊君は娘とテレビでも見ていて頂戴」と言われたのだった。
せっかく夕餉の善を頂いて、その後始末までやらせるなんて、僕の良心が許さない。
そう思ったが、服の裾をちょんちょんと引っ張る彼方に促され、今に至る。僕の良心なんて、薄っぺらい。
時刻は八時を回った頃だった。テレビ画面には向かい合う男女が映ってる。察するにドラマ。ぼーっと画面を流し見る僕。
できればこのまま帰宅したかったのだけど、桜サンに宿泊を勧められ、受諾した。彼方の懇々とした説諭にやられたのだった。
押しに弱い。
それが僕の致命的な弱点だった。相原にもよく指摘される。おまえは回りに流されやすい、と。
その通りだと思った。現にそうなってる。改善できそうもなかった。
と。
「……ん」
画面に映る男女が唇と唇とをくっつけた。互いの体に密着し、腰に手を回している。
瞬時に意識が覚醒して、目を画面から逸らす。思春期の少年らしい過敏で多感な反応。そーっと彼方の方を盗み見た。
目が合う。
「する?」
唇に人差し指を当てて、僕を熟視する彼方。するすると手を蛇のように伸ばして僕の肩を掴んだ。
後ろを一瞥する。
桜サンとも目が合う。相変わらずひまわりのようにニコニコと笑って、僕に目配せをした。何かの合図のようでもあった。
「お母さんはこういうのに理解あるから、気にしなくていいよ」
「だからねぇ。君は」と僕は彼方の肩を掴んだ。最近の彼女はトリップの回数が多い。女性なのにやたらめったら積極的だ。もう少しおしとやかにしてもらわないと、僕の身がもたないよ。
と。
なにを勘違いしたのか、彼女は顎を上げ、唇を前に突き上げた。
「……焦らしプレイ?」
「焦らしてもないし、する気もないよ」
「小悪魔な禊君も素敵」
小悪魔と言う発想はなかった。
「ふ、ふふふ。お二人ともお楽しみのところ悪いけど、お風呂掃除してくれないかしら」
「はっ、はい。僕がします」
渡りに船と思い、ソファーから飛び上がる。僕はどこに風呂場があるのかも分からず、闇雲にこの場から遁走した。あの子は自分の母親のいる前であんな行為をするつもりだったのか。
安堵の息を漏らす。そんなこと恥ずかしくてできないし、桜サンにも立つ瀬がない。すでに何回か事に及んではいるのだけど。
少なくとも汲々として接吻やその他諸々をするわけにはいかない。僕たちはまだ、付き合って一ヶ月も経ってないんだから。しかるべき順序を踏んで、ゆっくりと大人の階段を上っていくんだ。
と。
「続きはお風呂で?」
後ろから彼方の声が聞こえる。
不知火家のお風呂は檜造りだった。
湯の張られた浴槽には湯気が立っている。二十分ほど前に彼方が沸かしてくれたお風呂だ。
他人の家のお風呂に入るのは初めてだった。僕は友達が極端にいない。交友関係も狭く、女友達どころか、男友達もままならないのだ。
携帯電話とて例外ではない。名簿に登録されている人数は恐ろしく少ない。十人もいないように思う。
あまり人といるのが好きじゃないからか。
一人でいることが好きだからか。
湯気の消え残る浴室の中で、つれづれにそんなことを思った。
脱俗的な生き方はどこに端を発するのか。人付き合いを避けるようになったのはいつの頃だったか。
湯の入った桶で身を清める。体に熱がこもって、気分がすっきりした。
沐浴の源流は神道の風習たる禊にあると言う。禊が禊をする。不思議な縁を感じて、妙な気持ちになった。
縁と言えば、こいつか。
揺れた髪の一房を掴み取る。まさか彼方が時雨サンと交流があったなんて、夢にも思わなかった。と言うことは、僕が髪を染めた理由もなんとなく見当がついているのかな。よく分からないけど。
顔を上げると、ガラスには僕が映っていた。靄がかった視界。湯気の立ち込める浴室に一人の男がいる。
そいつは髪を銀に染めて、随分と貧相な面をした男だった。意志は薄弱で、人付き合いも苦手。超然としているように見えて、その実不器用。体つきも華奢だ。
ため息をついて浴槽に浸かる。全身を熱い湯に包まれて、血流が活性化するのを感じた。
もうそろそろだろう。
不知火家の方々は親切にも一番風呂を僕に譲ってくれた。おもてなしの心、と言うべきか。粛々と辞退するつもりだったけれど、お言葉に甘えて一番風呂を頂くことにした。
ゆえに長風呂は厳禁。ここは自重して、さっさと湯船から上がった方がいい。僕は数分もせぬまま、下肢にタオルを巻き、湯浴みを済ませた。
と。
ガラガラと扉をスライドさせたその先に、彼方がいた。
彼方は僕の制服を鼻の辺りに当てていた。鼻を膨らませてにおいを嗅いでいる。先述で言う、嗅覚の補完か。
「か、彼方?」
「……禊君」
僕の出現にも構わず、制服のシャツを鼻にあてがう。わき目もふらず至福に耽っている彼方。時折僕のシャツを抱きしめて、小さく喘いだ。
「何してるの?」
「におい嗅いでる。すーはーすーはー」
見れば分かる。
「聞いてるのはホワイの方だよ」
「なぜってこと?」
「そういうこと」
「本来ならあなたの背中を流すつもりだったけど、そんなことしたら嫌われそうだから自粛した。けど、そうなったらで収まりがつかない。だから、禊君の服のにおいを嗅いで、発散しようと思った」
再び作業に没頭する彼方。夢見心地と言った風に瞳孔を広げ、尋常でない雰囲気を漂わせていた。トランス状態。その様子は麻薬を吸うジャンキーのようにも見える。
押し込みの代わり、と言うにはあまりに変態チックだった。それはそれで問題があるような。
僕の困惑顔に気付いたのか。
彼方は吸引を一旦止めて、僕に言った。
「あなたの服は籠の中に入ってるよ」
と。
籠のほうを指差す。確かに籠の中には男用と思われる着流し着物、下着類が納まっていた。どことなく旅館を思わせる。
「……お父さんの?」
にしては随分と小さい。
「買っておいた。あなたのサイズに合わせてあるから」
「…………」
「着物のサイズはMでよかった? 一応SとLもある。禊君は痩せてるからぶかぶかになるかも」
「……よ、用意がいいんだね」
「彼女のたしなみ」
確かに寝巻きを用意してくれるのはありがたいけど、違和感が残る。彼方はどうやって僕の体型を知ったのか。
懐疑心のあまり凝然と見詰めていると、彼方は顔をゆでだこのようにした。さすがに気恥ずかしくなったのか、僕のシャツを洗濯機の中に放りこむ。どうやら親切にも洗ってくれるらしかった。
「禊君も……嗅ぎたい?」
ふいに服を脱ぐ。彼方はシャツのボタンを一つずつはずしていって、僕に手渡した。
わけも分からず呆然としていると、「いいよ。嗅いで」と小声で言う。
上半身のみ下着姿と言う倒錯した格好。露出したへそや肩があられもない。新雪のような肌はピンク色に熱を帯びていた。
僕は震える手で彼方の制服を見やった。
これを。
これを鼻に当てろと。
それも本人の同意つきで。
僕は無心の境地でそれを洗濯機の中に入れた。欲望に打ち勝った瞬間だった。自分で自分を褒めてやりたい。
「だったら下も……」
と。
スカートに手をかけた彼方の横を、なんかもう色々なものをかなぐり捨てて疾走。彼方が無防備すぎて逆に怖い。
彼方。それは違う。絶対に正しい男女のあり方じゃないでしょうが。
結局のところ、意気地のない僕はもっともらしい正論をかざして旗を巻いたのだった。
撤退する姿を桜サンに見られた僕は、ふと、タオルを巻いているだけで服を着ていないことに気付いた。