第二十八話
翌朝。
僕は葵と一緒に登校した。葵はやりくりして朝練をパスしたらしかった。
何もそこまで、と思わなくもなかった。けれどもそれは妹の中では確定事項らしい。
妹曰く、僕のことが心配でたまらないのだとか。
仕方なく一緒に登校することにする。幸い、異状はなくいたって健康。気分も良好だった。
「またね、お兄ちゃん」
「んじゃ」
と。
挨拶を交わして別れる。葵は一年三組。僕は二年二組。僕だけ一つ多く階段を上ることになる。
踊り場の方に出ると、後ろから気配がした。
したと思ったら、肩を叩かれた。
振り返る。
「おはよう」
「……おはよう」
そこには顔を俯けた不知火サンがいた。さらさらと前髪が表情を隠した。
「保健室にいったって聞いたけど……体調の方はどう、かな」
「全然大丈夫だから。心配しなくていいよ」と落ち着かせるようにそう言う。今日の不知火サンはどこか様子がおかしかった。
「……ごめんね」
「ん。何か言ったかい?」
「ごめん。ワタシ、駆けつけて上げれなかった……。禊君の彼女なのに……恋人なのに……駆けつけて上げれなかった」
それは先日のことだと推測。そういえば不知火サンの姿は見当たらなかったように思う。
僕は顔の前で手を振って、「ああ、いいって、それくらい。たいしたことじゃなかったし」となるべく深刻さが出ないように言った。事実、それほどたいしたことでもなかった。
「いや、違う。ワタシ……行けなかった。保健室に入ることができなかったの」
「……どういう意味?」
「あなたの妹さんに……」
と。
納得。薄々事の内情が理解できた。
「……なるほど。僕の妹に入室を断られたと」
首肯。不知火サンは切ない顔で僕を見ていた。どことなくおどおどとしている。
不知火彼方と言う人間は色々な顔を持っている。積極的な時もあれば、恭順な時もある。どちらにせよその姿は凛然としていて、美しかった。けれどどことなく不知火サンは欠けているように見える。飛ぶことを忘れてしまった鳥のような不安定な感じがするのだ。
それが顕著。
不知火彼方と言う人は明らかに奇異に見える。表情、情緒が常に一定でない。かといって感情の起伏が激しい、と言うわけでもない。不知火サンは基本的に無表情なので、そう言った感情のうねりが微細なのだ。
しかし。
その目は獣のごとく濁っている。理知的に見えるまなざしも、飾り気のない口調も、盲目で深淵なものを窺わせる。
未完結。
その言葉が不知火彼方にはふさわしい。所々に取り繕った跡、無理やり修復した傷、そう言った欠陥を完璧さで覆っている。成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗。一見無謬に見える。だけどその実、完璧の裏に異質な何かを忍ばせているような……。
不知火サンは僕の顔を覗き見ては、申し訳なさそうに目を伏せる。
かわいらしい仕草。近くにいる男子生徒は呆けたように不知火サンを凝視し、そして僕に猛然とした嫉視を向けてきた。男子のうじうじした悋気にはある程度慣れているけど、やはり居心地が悪い。なまじ、不知火サンが泣きそうな風だからなおのこと。
気まずくなって不知火サンの手を握った。そのまま教室へと連れて行く。これ以上、嫉視と蔑視にさらされるのは御免だったからだ。
途中、強く握り返される。不知火サンは目尻を緩めて、僕に微笑みかけた。抵抗することなく、黙って僕について来てくれる。
「強引な禊君も……素敵」
「違う」
「や、優しくしてよ。わ、ワタシ、その言うの初めてで……」
僕の行為を致命的に誤解した不知火サンは、頬を赤く染めた。
四時間目の授業終了のチャイムが鳴ると同時に、みな一斉に席を立った。二年二組の教室は一時の開放感に包まれる。
一、二、三、四と寝たりぼーっとしたりして時間を潰していた僕は、やおら伸びをした。骨の軋む音。手をぷらぷらさせて、首を何回か曲げた。
今日も相原と食べるか。
そんなことを思って寝惚け眼をこすっていると、小さい風が目の前を一過した。
「食べよ」
弁当箱をなぜか二つ持った不知火サンが無表情のまま問いかけてきた。僕の服の襟を掴んで、僕の視線を無理やり不知火サンのほうに向けさせる。
間然するところのない美貌。眦を決した双眸は凛々しい光を称え、そのまま吸い込まれそうになった。
息を呑む。
「お昼ごはん、食べよ」
それだけ言って口を閉ざす。無言。不知火サンは冷え冷えとした目で僕を眺めた。
こくんと頷くと、不知火サンはわずかに頬を緩めた。微量な変化。感情は読み取れない。
不知火サンは僕の手を握った。引き摺られる。そのまま屋上へ続く階段を苦労しながら上った。
鉄製の扉を開けると、青い空があった。人気はない。屋上には別段何もない。小さな鉢植えと朽ちかけたベンチ。その程度。
不知火サンは僕の手を離さない。ぎゅっと硬く握って、近くにあるベンチへと連行した。
「座って」とベンチに座った不知火サンは、自らの膝を叩いた。
ここに座れ、と言うことか。
「食べさせてあげる」
「……赤ちゃんじゃないんだから。ご飯くらい一人で食べれるよ」
「なら、ワタシが座っていい?」
「どこに?」
「ここに」と不知火サンは僕の脚部を指差した。「禊君の足、柔らかそうでそそる」
天下の女子高生には到底似合わない言葉を吐いた不知火サンは、唾液を手でぬぐいながら僕を注視した。不知火サンの掌は発汗していて、何度も舌なめずりを繰り返している。
身の危険を感じる。
黙って不知火サンの隣に座る僕。さすがにそんな度胸は僕にはない。勇気と無謀は違う。僕は何度も胸の内でそう唱えるのだった。
「もう……。素直になって。いいよ。しよ?」
僕の太ももに手を這いずらせた不知火サンは、唇を湿らせる。女の色香。牝の薫香。艶かしくて眩暈がする。
欲望に必死に抗って、不知火サンの手を掴み、相手の膝の上に戻してやる。一瞬僕に手を掴まれて何かを期待した不知火サンは、明らかに落胆したようだった。「禊君の意気地なし……」
「意気地なしで結構」と言いながらも欲望に負けそうになって、自己嫌悪。「それよりもご飯にしよう」
そう提案すると、思い出したように二つあるうちの一つを僕に手渡す。丁寧に包まれたそれは弁当箱だった。
逡巡していると、「ん」と突き出される。僕は手元の弁当に目をやる。一応、僕には葵の作ってくれた弁当があるんだけどなぁ、と冷や汗をかく自分。
「あなたのために作っておいたの。よかったら食べて」
「いや、僕には葵のが……」
「そんなのよりもこっち。こっちを優先して」
「二人分も食べれない」
「なら、一人分で十分だよね。ワタシのだけで」
「うう」と詰まる。
「お弁当はいい。好きって言う想いの丈が具体的に形を持つから。今日は五時に起きた。禊君のためにがんばった。だから、食べて。ワタシのこと好きなら食べて。遠慮はいらない。お母さんにも味見してもらった。おいしいって。お母さんは味にはうるさいから、味だけは保証できるよ。だから……早く食べてよ」
凄絶な気迫。表情はない。けれど、鵜の目鷹の目で僕を見詰めてくる。不退転の想い。並々ならぬ熱意を感じる。
「……分かった。ありがたく頂くね」
「ワタシのこと、好きだから?」
「……うん。好きだよ」
少し自分が嫌になる。また流されてしまったと後悔。けれど不知火サンに好意を抱いているのは真実。
破顔一笑。不知火サンはすごく魅力的な笑みを浮かべた。
そして。
「禊君、大好き」
と。
直球。
不知火サンは小さく笑って、僕に弁当を渡した。僕はポカンとした風になって、慌てて受け取った。
僕はたじたじになって、ごまかすように言う。「すっ、ストレートだね」
「自分の感情を素直に口にしただけ。ただそれだけのこと。禊君も、ワタシがあなたのこと好きなの、知ってるでしょう?」
「それはその……」
痛いほど分かる。
「だったら、いい。食べよ」
不知火サンはするすると弁当のハンカチをとく。彼女に促され、僕も同様に結び目をといた。
そして。
お弁当の蓋を開ける。僕は開口一番、唸った。
「……すごいね」
「驚いた?」
「驚いた。すっごく豪華」
お弁当箱には色取り取りの品が納まっていた。品数も多く、見るだけで涎が出る。
「いっぱい力、入れた。ちょっとお母さんにも手伝ってもらったけど、大体はワタシの手作り」
たんとお食べ。
不知火サンは悪戯っぽく言って、ニコニコと笑う。
「ねぇ、禊君。禊くーん」
と。
不知火サンは言う。
一方の僕はと言うと、口に玉子焼きを詰まらせて呼吸困難に陥っていた。
慌てることなく僕の背中をさすってくれる。優しい手つきで、慈愛に満ちた表情で。
どうにかして玉子焼きを咀嚼。いまさらながらに玉子焼きのほんのりとした旨味が口に広がる。
不知火サンが介抱してくれたからか大事には至らなかった。
間抜けな僕、とか思う。
不知火サンは申し訳なさそうに表情を沈めた。「ごめん。いきなり話しかけたから……」
違う違うとジェスチャーをして、玉子焼きを食べ終え、「違う違う」と訂正。「不知火サンの玉子焼きがあまりにおいしくて」
「……そう」
不知火サンは一瞬あっけに取られたようだけど、すぐに幸せそうな表情を作る。唇を舌で潤して、濡れた瞳を僕に向けた。
そう言えば、と思い出したことがあった。舌を舐めると言う行為はキスを暗示しているとか言うことを、どこかで聞いたことがあるような。
「愛情込めて作った。おいしくて当然。けど、嬉しい。禊君がそう言ってくれると、嬉しい」
「本当においしいよ。お店を出せるレベル」
「本当?」
「本当」
クスクスと笑い合う。
不知火サンはおもむろに自分の箸でレンコンを摘んだ。下に手を添えて、「あーん」と箸を僕の口元に持ってくる。
顔が少し引きつる。大げさに言えばこれは、恋人同士が一線を越える共同作業なのではないか。
前にも葵にされた覚えがあって、断ったら猛烈に怒られた。箸や皿を投げつけられそうになって、自分の部屋に逃げた。一時間くらいかな。ずっとそこに避難してた。幸い施錠可能な部屋であったので、乗り込まれることはなかった。けれど、ふと外に視線を投じてみれば、道路の上に立つ葵と目が合って、戦々恐々とした経験がある。僕の自室は二階にある。けれどその気になれば、近くの木を使って登れないこともない。
あわててカーテンを閉めてベットの下に隠れた。葵の目は遠めに見ても淀んでいた。手には大皿を持っていて、右手には箸を握っていた。
食べさせるつもりか。
僕の部屋に無理やり上がって、食べさせるつもりが。
今日のお夕飯は酢豚だよ。お兄ちゃんの大好きな、酢豚。
にっこりと笑うその表情は、不自然だった。作られたような顔。一皮向けば、どろりとしたものが溢れ出る。
思い起こせば、あれこそが兆候だったのかもしれない。あの頃から、僕に対する屈折した感情を自覚したのかもしれない。
いつの頃の話かは忘れた。ちょこっとだけ説教されて、ちょこっとだけ折檻されただけで、記憶は曖昧模糊。脳の片隅に埋もれている。
けれど、葵は今もその感情を引き摺っている。
「……どうしたの。顔色が悪い」
「……いや、ごめん。頭痛がして」
泣きはらした子供のような顔、だと思う。
今の自分はそんな風だ。
手で顔を覆っていた僕は、ゆっくりと前を向いた。
不知火サンの顔があった。
不知火サンは静々と笑って僕を見ている。典雅に微笑んで、両の掌で僕の手を愛しそうに包み込んでくれた。
目が合う。
笑いかけてくれる、彼女。
「大丈夫。あなたの痛みも、苦しみも、悲しみも、全部ワタシが受け止める。あなたとワタシは一心同体。いつでも一緒。つらいときは言ってね。いつでも相談していいから。ワタシはあなたの天使。胸が苦しくなったり、息ができなくなったら、ワタシに助けを求めるんだよ?」
「……ありがと」
「あなたのことが好きだから、こうしてあげるんだよ」
「……うん」
「妹さんが原因?」
お見通しみたいだった。
僕と妹の濃い関係。
著しく歪んだ関係。
傍から見れば、僕たちの関係がいかにおかしいか分かる。どれだけ気味が悪いか、気色悪いか、一目瞭然。
とっくに狂ってる。
生まれたときから、僕と葵が生まれたときから、僕たちは。
「そうなんだ。あなたの妹さんは……好きなの? あなたのこと」
核心を突く質問。患部を深くえぐってくる。
「……家族として、ってこと?」
「違う。異性として、ってこと」
「…………」
「ワタシね、思う。あの子、変だよ。不自然すぎる。昨日あなたが倒れたときもそう。残りの授業全部欠席して、あなたのこと看病してた。あなたに依存して、隷属して、家族じゃなくて、まるで恋人みたい……。あなたたち、家族なのに。兄と妹なのに。お互いのこと好き合ってる恋人みたいだったよ。本当の恋人のワタシが保健室に来ても、面会謝絶。それでもワタシが近寄ったら、近くにあった本とか体温計とか、メチャクチャに投げられた。その後、思いっきりパイプ椅子で殴られた。お兄ちゃんに近づかないでって、獣みたいに……。幸い保健室の先生がいなかったからよかったけど……あれは違う。家族愛とか家族の絆とか、そう言うのじゃない」
「……ごめんね。あいつの代わりに謝る。ごめん」
僕は頭を下げた。
不知火サンはそっと僕の肩に手を置いてくれた。慈しむように僕の頭を撫でてくれる。
僕は許しを請うように不知火サンを見た。
「いい。殴られたときはちょっと痛かったけど、別にいいから。ワタシだって負けちゃったから……。彼女の勢い、力に負けちゃったから……。ワタシだって禊君のことが好き。誰よりも愛してる。妹さんよりもずっと……何年も前からずっと……」
「そう言えば」
と。
「そう言えば、不知火サンは何で、僕を好きになったの?」
「一目惚れ」
「……は」
「五年前にあなたに一目惚れしたの。……文句ある?」
「いや、文句はないけど……」
「腑に落ちない?」
「落ちない」
「失礼な人」
「……ごめん」
「いいよ。けど、強いて言うなら、きっかけはあの人」
「あの人って?」
「大槻時雨」