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いつかの君とどこかの僕  作者: 密室天使
第二章  壊れゆく世界
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第二十七話

 一夏の夢に過ぎないのか。

 ベットから起き上がった僕は、そう自問した。

 体の節々が痛い。僕は痛覚を訴える頭に手をやった。

 と。

 もう片方の手。それはパイプ椅子で眠りこける妹の手に繋がっていた。

 周囲は白い壁に包まれている。薬品が収納された棚。小奇麗なデスク。そこには一人の女性がいた。清潔そうな白衣を着ている。

 ここは保健室なのか、と気付く頃には意識はほぼ覚醒していた。視界も鮮明になる。そして、なぜ自分がここにいるのか、と言うことも大体推察できた。

「気分の方はどうかしら?」

 と。

 保険教諭の関口(せきぐち)先生は静かにそう問うた。

 三十路を過ぎたばかりだと言うのに関口先生は相変わらず若々しい様子だった。髪をアップにしてたおやかに笑んでいる。白衣を着こなす姿は凛呼としていた。

「はい。大丈夫だと思います」と僕はこれと言った考えもなくそう言った。「それよりも……その、僕は……」

「昼休みごろかしら。あなたは倒れたのよ。おそらく疲労とストレスによるものね。一時的なものだわ。心配しなくていい。確かあなたは低血圧気味だったわよね。それが重なったのね。ご愁傷様。けど、さっきも言ったけどそれほど重症と言うわけでもない。むしろ軽い方かしら。くれぐれもお体のほうを大切にね。あなたはまだ若いんだから。私みたいにくたびれた大人になっちゃダメよ。唯一の娯楽が酒とタバコだなんて穢れてるわ。不潔。けど止められないのよ。依存性って奴かしら。これは老婆心(ろうばしん)ながら忠告しておくわね。酒とタバコは止めておきなさい。人生破綻させるわ。年長者の経験による警告であり、訓戒ね。胸に刻み込んでおきなさい。貴方は低血圧と言う持病を抱えているのだから、なおさらだわ。それと癌になる確立も上がるらしいのよ。これは大変だわ。大々的に集会を開いて生徒たちに注意を喚起しなくちゃいけないようね。直ちに続行。即座に敢行。私の行動力が試されるときだわ。さて、今日もかわいい生徒たちのために私、がんばる!」

 と。

 矢継ぎ早にまくしたてる。関口先生が一旦話し出すと、もう止まらない。立て板に水。口を開けば連射砲のように長広舌を振るうのだ。それでも声は馥郁(ふくいく)たる低音で、耳に心地よく響く。関口先生は早口の割に流麗とした語り口調であり、それが男子生徒の注目を浴びる一因にもなっている。

 一方の僕は苦笑を浮かべて、「はぁ」と一言。先生の熱弁にあまりついていけないのだった。

「あら、紅花(べにばな)君。ちょっと引き気味ね。熱があるのかしら?」

「た、多分大丈夫だと思います」と先刻の焼き回しをして、苦笑いを浮かべた。先生の言うとおり疲労が溜まっているのか。なんだか無性にだるい。

 加えて。

 目に涙の跡を伝わせて眠る妹の姿がさらに気分を重くさせる。僕の手を硬く握り締める(あおい)は椅子に座りながらベットに突っ伏していた。長い黒髪が放射線状にシーツの上に広がる。窓から穏やかな光が照って、葵の姿をぼやかした。

 ……今何時だろう?

 窓から漏れる日差しはすでに柑子(こうじ)色だった。はっとして時計を見る。

「六時を過ぎた頃よ。あなたは五時間近く夢路に旅立っていたことになるわ」と僕の疑問を感得したのか、先生が今の時刻を教えてくれた。

 段々と明瞭になっていく記憶。僕は昼休みの一件をおぼろげながらに思い出した。

「そして、あなたの妹さん。確か……葵さん、だったかしら。彼女も五時間近くずっとあなたのそばにいたのよ。美しきかな兄妹愛。私感動したわ。今時こんなにも健気で純真な兄妹がいるかしら。小説でも見たことはない。事実は小説よりも奇なり。まさにその通り。先生、献身的に兄のそばにい続ける葵さんに敬意を表するわ。そしてそんな妹さんに愛されてるあなたにも、尊敬の念を抱く。あなた友達にも恵まれてるみたいね。倒れこんだあなたをここまで運んでくれた彼。名前はなんて言うの? 正直初めて見た生徒だわ。あまり学校に登校したことはないのかしら。私は全校生徒の顔と名前は頭に刻み込んでるはずなんだけど、彼だけ該当する情報がなかった。不登校? そんな雰囲気じゃなかったわ。むしろ不良ね。けど、不良と言う割に仲間想いのいい子じゃない。先生、感涙のあまり胸がつく思いよ。今時の若い子も捨てたものじゃないわね。まだ芽吹いてる。友情に厚く、家族愛に厚く、義理にも厚い、そんな人間愛。今も昔も変わらないものね。なんだかんだ言っても、やっぱり人の人情はそう易々となくなるわけがない。これからもそうなってほしくないわ。私はそう思う。なんてったって、お正月の願掛けに世界平和を祈った女だもの」  

「それは……随分と高い志で」

 先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「志を高く持つことに越したことはないわ」

 そのとおりだと思った。人生、高い目標を持つに越したことはないのだ。

 それと……ある意味予想外だったのは相原だった。あいつ、思った以上にカッコいい奴じゃないか。明日パンでもおごってやろう。

 そして……ある意味予想通りだったのは葵だった。きっと部活も何もかも休んでいるのだろう。先生が言うにはずっと僕のそばにいてくれてたみたいだった。と言うことは授業中もなのかな。……おいおい、単位の方は大丈夫なのか?

 そんなことをつらつら思っていると、もぞもぞと布のすれる音がした。

 うるうると子猫のように目をこする。それは髪をぱらぱらと揺らしておもむろに起き上がった。

 と。

「おっ、お兄ちゃーっん!」

 抱きつかれる。僕は飛びつくような抱擁で思い切り仰け反った。

「おおっ、お兄ちゃんが、いっ、生き返った! だだだ、大丈夫、お兄ちゃん? 気分はどう? きつくない? きついなら言ってね。なんでもしてあげるから。なになに、温かいものが食べたい? それなら今日のお夕飯は鍋にしよっか。それともおかゆがいい? お兄ちゃんはどっちがいい?」

「……葵。苦しいから。それに胸……当たってる」

「うわぁ、お兄ちゃん、えっろー。妹に発情してるんだ。……もっと発情してもいいよ。ちょうどここベットだし。なんだったら今すぐにでもいいよ」

 顔は笑っているけど、目が笑っていなかった。

 僕は葵を元のパイプ椅子に座らせた。渋々と座りなおす葵。僕はいかんともしがたい感情に囚われた。

 先生の方はと言うとしきりに感動していた。なにやら家族愛の大切さとか、絆の強さとか、そう言った独り言を垂れている。先生は先生で自分の道を驀進(ばくしん)しているようだった。

 気が滅入る。僕の周りにいる人たちはどこかがおかしい。社会とか常識とか、一切無視。自分のルールに忠実。一応筋は通っているけど、どこか異常なのだ。僕も含めて、だけど。

「ま、とりあえず我が家に帰ろっか。もう夕方だし」

「そうよ、そうよ、紅花君。早く家に帰って妹さんとの愛を育みなさい。それが家族愛と言うものよ」

「ほらぁー、先生もそう言ってるよ」と葵はうぅーと唇を突き出し、「お兄ちゃんももっと私を愛でるようにっ!」と芝居がかった仕草で僕を指差した。

 まぁと先生が一驚するが、僕のほうはいわずもがな。葵の額を小突いてやった。

「いっ、いたいー!」と自らの額に手を当てて、伏せた目で僕を睨む。全然怖くなかった。葵の怒った顔は一見、悪意とか憎悪とかそういったものが一切窺えない。顔の造形も端麗としていて、みなから愛されるような出来過ぎた女の子だった。

 けれど。

 目の奥は毒々しい邪気が漏れている。蛇。その様相は蛇。

 葵は己の中に獰悪な蛇、獣を飼っているのだ。それは年々、大きくなっているように思う。宿主の憂き身をやつすほどの熱。それを糧に日に日にその身を肥えさせていくのだ。

 それは僕も似たようなもの。向かう方向こそ違う。けれどその本質に大差はない。むしろ卑近。卑しく近しい存在。

 葵が幸せそうにしなだれてくる。僕の胸部に頬をくっつけて、まるで猫のよう。僕の心音を聞いてるみたいにぴったりとくっつけた。

「やっぱりお兄ちゃんといると落ち着くなぁ。もういろんなものがどうでもよくなっちゃうよ。あうぅ、結婚したいなぁ。お兄ちゃんと結婚したいなぁ」

「どうやら葵さんは結婚願望が強いみたいね。確かどこか辺境の国で近親婚が認められてたところがあったような……」

「そっ、それ。どこなんですか? 先生、この私にご教授を!」

「ちょっと待って頂戴。今世界地図を探している最中よ」

「探さないでいいです。それと葵。いい加減重い」

「うぅ、ショック! そんなこと女の子に言わないでよね」

「いいんだよ。おまえは僕の妹だろ。家族に遠慮はいらない。だからあっけらかんとそう言ってるんだ」

「……ヘー、そうなんだ」

 葵の声色はわずかに冷たくなっていた。神経質に頬がピクリとうごめく。

 僕はそれを見なかったことにして、「それでは関口先生。僕はもう自分の家に帰ります。色々としてくれてありがとう御座いました」と礼を述べて頭を垂れた。続けて葵のほうも頭を下げた。

「……帰るか」と声をかける。

「そうだね。帰ろ」

 葵から僕の鞄を受け取る。どうやら葵はわざわざ二年二組の教室から僕の鞄を持ってきてくれたみたいだった。相変わらずの細やかさ。少し怖い。

 それは一重に、僕に対する愛情の深さを物語っているように思う。

 いずれは破綻する。それは目に見えていた。けれども僕はそんな今を取り繕って、それっぽく生きてる。下手くそにやりくりして道を進んでる。不器用だからとかっこつけながらも、無様に地面の上を這いつくばっているのだ。

 ふと、不知火サンのことが脳裏をかすめた。彼女は今、何をしているのだろう。

 葵に聞けば分かるかもしれない。けれどそんなことをしたら、葵はへそを曲げるどころか、大変なことになりそうだから棚上げ。僕の得意技、棚上げ。そいつでやり過ごす。

 ……そう言えば。

 そう言えば、もうそろそろお墓参りの頃だ。僕一人だけの罪滅ぼしのような墓参(ぼさん)

 先ほどの夢を想起する。いびつな形をした荒唐無稽な懐旧談。初々しいように見えて悪意に満ち、瑞々しいように見えて狂気に満ちている僕の過去。

 一夏の思い出として片付けるにはあまりに重く、生涯の汚点と言うにはあまりにも美しすぎた。僕の衝動はどこまでも醜くて、どこまでも清らかだった。幼心が清新に歪んだ一つの解だった。僕の生き方に対する一つの(しるべ)でもあった。

 結果、僕はそれを封印することにした。くだらない妄想、どうでもいい幻想として処理した。

 それが正しいかどうかなんて、それこそくだらなくて、どうでもいいことだ。正誤を問う必要もなく、是非を問う必要もなく、適当に心の片隅に放置していい問題なのだ。いずれは風化する。記憶の海に埋没する。それを待てばいい。幸いなことに、待つことは得意。苦にもならない。だからそのままでいいのだ。

 それでも。

 時々漏れ出る。様々な感情と結びついて、紛糾して、大変なことになる。そのときは仕方がない。その対象が人間に向かないよう努力するだけ。これ以上、双方に傷が増えないよう尽力するだけ。僕の心は傷だらけで、瑕疵(かし)に溢れていて、どうしようもないのだ。無秩序に狂っているのだ。

 僕はどこまでも続く水平線を見た。救いを求めるように。何かに縋るように。

「生きるって難しいね」

 葵は僕の奇妙な言に喫驚したようだった。不思議そうに首を傾げる。艶かしい仕草。それでいて危険な匂いが香る。

「いきなり何を言い出すかと思ったら……。お兄ちゃん、意外に哲学かぶれだね」

「哲学とかそんなんじゃないんだ。ただこう、生きるって、案外面倒なんだなーって思った」

「自殺とかしないでね」

「しないよ。痛そうだから」

「あなたを殺して私も死ぬわ、って誰かに言われたら、お兄ちゃんは死ぬ?」

「趣旨が違うだろ。ここはルネサンス期のヨーロッパか」

「もし私がお兄ちゃんに一緒に心中してっ! って言ったら、お兄ちゃんする? 心中」

「状況の経緯が分からないよ。どうなったらそうなるんだよ」

「それは別として、だよ。それで私がナイフを取り出してお兄ちゃんに無理心中を迫ったら?」

「かっこよく返り討ちにする」

「それは無理だよ。こう見えても私、フットワークはバスケ部でも一二位を争うほどなんだよ? 絶対にお兄ちゃんを道連れにする自信がある」

「それは無理だね。こう見えても僕、逃げ足だけは学園中でも一二位を争うほどなんだよ。絶対におまえから逃げ切る自信がある」

「なんて不名誉な自信……。まぁ、お兄ちゃんの足の速さは認めるけど、それとこれとは話が別なんだから! 火事場の馬鹿力みたいなものが発揮されると思うし、それに私だって足の速さには定評があるんだよ」

「少なくとも火事場の馬鹿力の使い方は間違ってると思うよ。もっと前向きな方向で使わないとダメだろ。思いっきり後ろ向きじゃないか」

「いいもん。私には私なりの考えがあるんだもん」

 葵はすたすたと行ってしまう。どうやら少し怒ってるみたいだった。

 微笑ましくも思うが、内容が内容なだけに危機感。まさかとは思う。思うがありえない話でもない。

 僕はのんびりと道に沿って歩く。時々通行人とすれ違って、挨拶して、そのまま。小さい交流。薄っぺらな僕たちの接点。僕たちの人生はそうやって交錯していく。人のつながりは基本的に希薄でいて、それを紐帯するものは損得や愛情。まれに太い絆となって表出する場合もあるけど、それを差し引いたって社会と言うものは限りなく疎ましくて、面倒なものだ。

 損得とか愛情とか、そんな不確かなもので繋がっている僕と世界。損得だって意味があるように見えて、意味はない。お金とか物とか、究極的なところでなんら役にはたたない。しかしながら、人々の信奉する神様よりはよっぽど役に立つ。その点だけは評価したい。

 愛情に重きを置いた人生。愛に偏った人生。それ自体が異常なもののように見える。愛とか恋とか一体どこから湧いてくるのだろうか? その源の不透明さ。どういう化学反応が発生しているのか? そもそも愛とはなんなのか? 人生に有益なものなのか?

 僕にはあずかり知らぬところだ。

 知ったところで何になるのか。

 愛は愛。

 恋は恋。

 A=Aの論理。それでいい。その途中経過に煩雑なものを入れ込むから、より複雑になっていくのだ。生物学とか心理学とか、そう言ったもっともらしい論理、空想。

 複雑なのは自分の胸のうちだけでいい。これ以上何かが煩雑になる必要なんてなくて、やはり物事は単純な方がいいのだ。分かりやすいほうが精神衛生上よろしいのだ。これ以上複雑なものは抱えたくない。これ以上愛とか恋とかに理由付けはいらない。そんなことどうだっていいし、何がどういう役割を担っているかなど、やはりどうだっていいことなのだ。

「やっぱり、生きるって難しいや」

 誰に聞かせるでもなく、むしろ自分に言い聞かせるようにして、僕は歩いていった。

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