第二十三話
人がなぜルールを破るのか、と問われれば、快感だから、としか言いようがない。
人は元来、ルールを破りたがる生き物だ。小学校の頃に宿題をサボったりとか、門限を破ったりとか、誰しも一度はそんなことがあると思う。誰だってルールを破る。当たり前のことだ。
あるいは。
なぜ犯罪者と言うものが減らないのか、と問われれば、それも犯罪者がとりわけルールを破りたがる生き物だから、と考えれば問題なく解決する。
では。
どうして人はルールを破りたがるのか。
やっぱり答えは決まっていて、そこに快感があるから。ルールを破る事は、他の人がやっていない事をするということ。そこに人は優越感を感じ、優越感が快感に変わる。優越感と快感は等価。同一であると言える。
本来ルールとは人が快適に過ごすために作られたものだ。なら、人はルールを破る事によって快感を得るのならば、ルールを作った本来の意味から外れている。それこそが決定的なズレだった。本質からの遊離だった。
否。
そうじゃない。ルールを破り、快感を得るためのもの――それこそがルールの存在意義と見ることもできなくはない。ひょっとしたらそれが、犯罪者が減少しない要因なのかもしれない。
そして。
この考えこそが、禁忌のタブーなのかもしれない。
誰だってそういったタブーの幻想を抱いている。ただそれを表層に出していないだけ。異端なものとして遠ざけているだけ。
生き物は異端で背徳なものを求め、そのかたわら、表向きは異端でも背徳でもない、ということを求める。その異端で背徳なものを求める心。そいつを何事もなかったかのように蓋をして、市井の人々はさも善人面をして生きているだけだ。
そんなの偽りだ。
悪が悪い。
善が良い。
もはや固定化した価値観。窃盗や放火、殺人などを忌避する心。
悪を憎み、善を愛する。
善を愛し、悪を憎む。
僕は悪も善も好きで、悪も善も善も嫌いだ。そんな安っぽい二元論で人の性質とか本性とかを見極められるはずがない。もし見極められるとしたら、そいつはむしろ人間としての欠陥を抱えているように思う。
だからねぇ、いいんだよ。殺しても。
「大丈夫。痛くないですよ」
ニコニコと笑って、ナイフを突き刺す。ぷしゅーっと血が飛び出て、肉の破片がそこかしこに散らばった。僕の服は返り血だらけで、ナイフも腕も真っ赤に染まっていたりする。
終極への渇望。終わることへの恍惚。僕と一緒に滅びてください、と言う楽しくて面白い欲心。
勿論僕も死ぬわけじゃない。僕はただ、事務的に(ナイフを持った)腕を上げたり下げたりするだけ。結局、死ぬのはあなただけです、と言うことになる。
そうして僕は、気まぐれに一人一人、葬っていく。身勝手に適当に、人を殺めていく。
ここ最近は惰性に近い。習慣になってしまってどうしようもない。ダメだと分かっているのに、止められない。分かっちゃいるけど止められない。そんな状況。
人を殺すことが論理的に悪いわけではない。
かといって。
人を殺すことが論理的に良いわけでもない。
少なくとも、殺人は社会で許容されていないし、許可されてもいない。人が人を殺すことは法律でも禁止されているし。
「まぁ、それはそれ。これはこれ。法律は法律。僕は僕。そうですよね」
鼻歌交じりに大きめの石を振り下ろした。鈍い音がして、倒れる。目の前の人はあっという間に死の床に着きましたとさ。
石が思ったより重かったので、腕がひりひりした。筋肉痛にでもなったらしい。最近運動不足だったから、それが祟ったのかな。やっぱり健康には気をつけておかないと。
人の本能は究極に言えば、支配欲であるといえる。誰かを支配したい。そんな欲求が人を動かす原動力になる。どんな行動にだって、それはついて回る。善意に裏づけされた行動だって、それに該当する。
だって、人間だもの。暇したら、人を殺したくもなるよね。
表の僕と裏の僕。
表の僕は至って常識人だ。けれど、裏の僕はごく普通の殺人鬼だ。
人間誰しも仮面をかぶっている。それは僕にも当てはまる。僕とてそれなりの仮面をかぶっているのだった。
そして。
近頃、裏の僕のほうが表の僕に囁く。
あの女を殺したい、と。
表の僕は少し困惑する。だってその人は、僕の大切な人だから。僕の尊敬する人だから。
けど、裏の僕はどうしても彼女がいいと言うものだから、泣く泣く了承した。まぁ、仕方がないか。だって、人間だもの。どうしたって好みは出てくるものだし、人間って我慢するの苦手だから、どうしようもないよね。
と言うわけで僕は、夏祭りの日に時雨サンを殺すことにした。
時雨サンの巫女舞は終わり、夏祭りもまた幕を閉じた。
僕は寝たままの葵をおんぶして、帰途に着いた。葵は相変わらず眠たそうなので、ベットに連れて行って、寝かせてあげた。
辺りは夕闇に覆われていた。
僕は美作神社に向かって歩み始めた。
当然。
ナイフその他もろもろの狂気――もとい凶器は服の裏にちゃんと忍ばせてあった。
ぬかるみのある畦道。両隣には長閑な田園が広がっている。月明かりに照らされた人影を見るが、それは畑の真ん中で佇立しているカカシだった。
二十分くらい歩いて、美作神社についた。鳥居を潜って本殿のほうへと向かう。寝静まった境内は、清浄な気に満ちている。
ここに来るといつも思い出す。往時への懐古。かまびすしい蝉時雨とか、夏の盛りの日差しとか、時折吹く涼風とか、そんなことを思い起こすのだ。
そんな昔のことを懐かしんでいると、いつの間にか本殿はすぐそこだった。
自然と胸が高鳴る。激しい興奮。狂おしい歓喜。そういったものが湧き上がって、わくわくしてしまう。これからのことを想像すると、ぱーっと目の前が明るくなるような気がした。
懐から小刀を取り出す僕。ゆっくりとした足取りで神社の本殿へと近づいていく。
本殿の近くにはやけに大きい古木がある。注連縄の張られた神聖な木だ。きっと時雨サンはそこで待ってくれているのだろう。僕に殺されるのを心から待ち焦がれているのだろう。
しかし。
しかし、しかし、しかし。
カーンカーンと音がする。何かを打ち付けているような音。金槌で釘を穿っているような音だった。
忍び足で覗き込んでみる。
すると。
そこには。
なぜか氷雨サンがいた。
氷雨サンは染み一つない白装束を着ていた。そして何かに憑り付かれたように槌を振るっていた。打ち付けていたのは僕の予想通り釘だった。
釘だった。
けれど。
打ち付けられていたのは。
「……時雨サン?」
そう、時雨サンだった。
まったくもって状況が呑み込めなかった。氷雨サンは嬉々とした様子で時雨サンに釘を刺している。時雨サンは注連縄の張られた古木にはりつけにされ、手足に釘を縫い付けられていた。その様相は痛々しく、どくどくと血が噴き出している。見るに耐えかねない光景だった。
あまりの悲惨さに目を覆う。こんなこと、人のすることじゃない。どうなってるんだよ、と猛烈に思った。
氷雨サンは狂ったように時雨サンを痛めつけていた。時雨サンはぐったりとしている。どうやら気を失っているようだった。
あるいは。
死んでいるのか。
おもちゃを取り上げられた子供が感じるような理不尽さ。あるいは先を越されたことへの焦り。僕は憤怒と焦燥感、そして一抹の不安と義憤に駆られた。何とかしなくちゃ。そう思った。
一旦小刀を懐に戻した。深呼吸をして、覚悟を決める。
そして。
「ひっ、氷雨サン!」
と。
呼びかけた。
恐怖と興奮で語尾が震えるのが分かった。なんにしろ今の氷雨サンの状態は明らかに異常だったからで、本能的な危機感を覚えたのだった。
ピタリと動きが止まる。槌を振るうのを一時止めて、こちらを振り向いた。
月夜に銀の髪が反射する。それは近寄りがたい神々しさすら感じさせた。氷雨サンの面容は不自然なくらいに整っていて、まるで粘土をこねくり返して作られた人形のように見える。作られた笑顔。月明かりに反射して、にこやかに笑っている。
氷雨サンは僕を見て驚いたようだった。唇を真一文字に結んで、僕と虚空を睨んでいる。
刹那の沈黙。
「……月が、綺麗じゃの」
と。
氷雨サンは言った。
この場には似つかわしくない言葉だった。
「こんなに月が綺麗じゃと、外に出たくなる」
「…………」
「そこで散歩がてらに歩いておると、たまたま姉様がおった。月光に照らされる姉様は美しく艶かしく、妖艶じゃった。月なんぞ目じゃのーて。事実、今の姉様は天女に見まがうかのごとき可憐さじゃ」
氷雨サンは愛でるように時雨サンの頬を撫でた。
反応はなかった。
「……姉様も僕の愛撫に恥ずかしがっておるのじゃな。いつものようによがっておればよいものを……。今日の姉様はつれんな」
「…………」
「それとも僕のことが嫌いになったのか……。いや、ならん。そんなことはあってはならん。姉様は僕に誓ってくださった。一生僕のために尽くしてくれると、僕と添い遂げてくれると約束してくださった。それをいまさら反故にするつもりですか、姉様? そんなの僕が許しませんよ」
「…………」
「……ねぇ、何で反応してくださらないんですか? 返事をしてください、姉様。僕のことを構ってください。いつものように笑いかけてください。いつものように僕と口付けてください。姉様……時雨姉様!」
氷雨サンは完全に僕のことを無視しているようだった。ひたすらに時雨サンに呼びかけていた。その顔には死相すら漂っているようだった。
返事なんか返ってくるはずがなかった。それでも氷雨サンは健気に時雨サンとコンタクトを取ろうとしていた。
背中に空々しい寒気が襲った。夜は快適な気候なのに冷や汗が肌を伝う。僕とはまったく違うベクトル。僕は氷雨サンに度を越した恐怖心を抱いた。
「なっ、何をやってるんですか! し、時雨サンはとっくにもう――」
「……月が、綺麗じゃの」
氷雨サンはその事実を否定するように僕の言葉を遮った。
「こんなに月が綺麗じゃと、外に出たくなる」
歌うように言う。儚げに月を仰ぎ見る姿は幻想的で非現実的な風だった。
「そこで散歩がてらに歩いておると、たまたま姉様が追った。月光に照らされる姉様は美しく艶かしく、妖艶じゃった。月なんぞ目じゃのーて。事実、今の姉様は天女に見まがうかのごとき可憐さじゃ。……姉様も僕の愛撫に恥ずかしがっておるのじゃな。いつものようによがっておればよいものを……。今日の姉様はつれんな。それとも僕のことが嫌いになったのか……。いや、ならん。そんなことあってはならん。姉様は僕に誓ってくださった。一生僕のために尽くしてくれると、僕と添い遂げてくれると約束してくださった。それをいまさら反故にするつもりですか、姉様? そんなの僕が許しませんよ。……ねぇ、何で反応してくださらないんですか? 返事をしてください、姉様。僕のことを構ってください。いつものように笑いかけてください。いつものように僕と口付けてください。姉様……時雨姉様!」
壊れたように呟く。声量はだんだんと上がっていった。最後は怒髪天につく勢いだった。
狂ってる、と思った。なんかもう異常だった。今の氷雨サンは平生の氷雨サンではなかった。氷雨サンの皮をかぶった別の生き物だった。
僕の安っぽい殺人願望とは対極をなす感情。氷雨サンの言動は大事な箇所が全て破綻していた。
氷雨サンはうわごとのようなことを幾度も呟いた。精神病にむしばまれたようなおぼつかない足取り。千鳥足で足を絡ませ、やがて倒れた。金槌はどこかに転がっていく。
あわてて駆け寄る。氷雨サンは泡を吹いて気絶していた。
よくよく見てみれば、氷雨サンの手の指の内三つが欠けていた。根元の部分で切断されているようだった。しかも、切断したのはつい先ほどだったように思う。氷雨サンの欠けた指の断面は血漿で固まっていたばかりだった。醜い傷跡。生々しく、凄惨だった。
幸い、利き腕である右腕のほうは無事だった。だから槌を振るえたのだろう。これと言った外傷はない。……外傷は、ない。
僕は雑に爪の剥がされた氷雨サンの右手を両手で包みこんだ。氷雨サンの指はぼろぼろだった。次いで、観察してみれば首筋には縄の跡があったり、手首には刃物を当てたような傷があったり、腹部には何かで深くえぐられたような傷跡があった。足首のほうも右足首のほうが極端に細かった。まるで縄状のものできつく締められたような……。足の指もいくつか欠けていた。
虐待の形跡。僕は何がなんだか分からなくなった。
軽い気持ちでやってきたのに。何でこういう展開になるんだ。僕はただ、時雨サンを殺そうと思っただけなのに……。
なぜか目の前が見えなくなっていた。拭っても拭っても目蓋にたまった水滴は取れなかった。