第二十話
いつどこで葵がおかしくなったのは定かではない。
ただ。
気がつけば葵は変な具合になっていて、知らぬ間に折り紙つきのお兄ちゃんっ子になっていて、いつの間にか過剰なまでに僕に依存するようになっていた。
ああ。どうしてなんだろう?
自室の机で頬杖をつきながらそんなことを思う。
僕の頭の中には先刻の葵の様子が想起された。
それは独占欲のように思えた。葵の振る舞いは常軌を逸していて、貪婪ですらあった。
狂ってるのかな、僕たち。
薄々と葵の罪深さに気付き始めた僕。けれど、あえて知らない振りをして、これまで生活してきた。葵の気持ちを徒や疎かにしてきた。
そうしなければいけないような気がしたから。
そうしなければこれまでの関係が崩れてしまいそうだったから。
兄と妹と言う普遍で変わることのない関係がまったく別のものになってしまいそうだったから。
僕と葵は家族で、血の繋がった兄妹だ。これは確然たる真実。絶対だ。
けれど。
そのことを知っているのに葵は……。
流されてはいけない。
葵に流されてはいけない。もしそんなことになってしまっては、人の道を二人して踏み外すことになってしまう。なんとしても回避しなければならない。僕は葵の兄で葵は僕の妹なのだから。
昔日に思いを巡らす。
数年前の夏祭り。ちょうど葵が苛めから復活した頃だったかな。僕と始めて夏祭りに行ったんだっけ。
楽しかった。あのころの僕は純粋で無知で何も知らなかった。こうして悩むことも煩悶することもなかった。いたって幸せで何も考えなくてよかった。
葵も僕を兄として慕ってくれた。兄として生活、妹としての生活が成り立っていた。それが当時の平生だった。
否。
もしかしたら。
もしかしたらあの頃から禁忌の兆が萌芽していたのか。
僕があの粘ついた視線を感じたのはいつの頃だったのか。
舐めずるような仕草で触れてきたのはいつの頃だったのか。
それが致命的に間違っていると気付いたのはいつの頃だったのか。
他者と異質であることは罪なのか、そうではないのか。
罪とはなんなのか。
愛とはなんなのか。
「……寝よ」
そうため息をついて、さっきから無聊に弄んでいた猫の死体を無造作に投げ捨てた。
○○○
――次いで、二ヶ月に渡って徳島県草薙村で中年男性(41歳)と専業主婦(36歳)、男性フリーター(22歳)が相次いで刃物でめったざしにされる事件についてですが、県警の調べによりますと一連の事件は通り魔的で、被害者にこれと言った共通点はなく、捜査は難航している模様です。また、地域の小中学校では集団下校が行われ、地域住民の協力もあり――
「最近の村は物騒になったもんだね、お兄ちゃん」
朝の膳。
僕と食卓を囲んでいた葵はそんな旨のことを言った。
おもむろにテレビを見る。テレビにはニュースキャスターらしき男性が草薙村の殺人事件について報じていた。その悲惨、残酷さを真摯な姿勢で訴えている。
「そうだね」と気のない返事をして、焼き魚に箸を突き立てた。ぐしゃと音がして、魚の身が崩れていく。解体される肉。誰でもない何かに搾取されていく運命、摂理。
「お兄ちゃんも夜道は一人で歩いちゃダメなんだからね」
「それは僕のセリフだよ。葵こそか弱い女の子なんだから、夜道には注意するんだよ」
「へー、お兄ちゃん、私のこと心配してくれるんだ」
「当然だろ」と口を尖らせて、「僕はおまえの“兄”なんだから」と“兄”の部分を強調させる。
葵はむっと顔をしかめた。
それでいいんだ、と思う。これでいい。これこそが家族のあり方。正しい、正しい、家族のあり方なのだ。
許されざるものは僕一人で十分なんだから。
「けど、なんだか変だよね。こんな長閑で平和な村に殺人事件だなんて、似合わないよ」
「似合わない、ね」と唇を歪めて問う。「なんでそう、思う?」
葵は僕の奇妙な物言いに首を傾げた。「何でって言われても……ほら、この村は辺鄙で平和。殺人なんて無縁のところじゃん。だからその、風土って言うのかな? うーん、平和な草薙村の風土に合わないなって思ったの」
「風土なんて関係ないと思うよ。いつどこでも、悪意は芽生える。それはいつしか溢れ出る。すると、さっきみたいにニュースになるんだ」
「ふーん」
葵は興味なさそうだったが、それでも構わず続けた。
「そもそも思うんだけど、こうやって殺人事件を放送するだろ? ありえないとか、信じられないとか言って。アレはね、嘘なんだ。全然、まるっきり、思いっきり、嘘。多分世間のみんなは考えていないだけ。自分が殺される可能性、その発生率の高さに。……それでね、僕は思うんだ」
飯を無遠慮に咀嚼していく。歯ですり潰された魚の骨、身、肉。唾液とともに嚥下されていく。
「町に行くだろ。するとシャツを着た子供とすれ違うんだ。ほかにも、喫茶店に入る女性。ベンチに座る男性。携帯を片手に歩くサラリーマン。色々な人を目にする。それでね、その人たちは考えていないんだ。自分が殺される可能性。極論を言えば、すれ違いざまにナイフを振るわれる可能性はゼロじゃない。だよね? 車が突っ込んでくる可能性も、通り魔に遭う可能性も、テロに遭う可能性も、もっと言えば隣にいた人に殺される可能性も――ある。ウエイトレスが料理に毒を盛ってる可能性も、ベンチの下に爆弾が設置されている可能性も、携帯から毒ガスが出る可能性も、十分ありうる。起こりうるであろうことは、起こるべくして起こるんだ。その確率がゼロに近くても、人はいつかは死ぬんだから、死ぬのが早いか遅いかだけの違い。わずかな差異。ほかにも人が死ぬ可能性は無数にある。殺され方にも惨殺、強殺、撲殺、刺殺、絞殺、扼殺、轢殺、圧殺、毒殺、謀殺、銃殺、屠殺、薬殺、叩殺、斬殺と星の数ほどあるし、死に方にも病死、戦死、爆死、縊死、圧死、客死、事故死、衰弱死、過労死、窒息死と枚挙に暇がない。ほら、世界にはこんなにも死の可能性がある。だから、人が死ぬってことは思ってるほど不思議でもないんでもない。普遍的なこと、ありふれた日常の一片。けど、普通の人間はそんな想像はしない。そんなのカオスだ、ありえないって――そう思うんだ」
葵は目を点にしている。「なんか、相原さんみたいなこと言うね。どうかしちゃったの、お兄ちゃん?」
「相原もここまでは言わないよ。けどまぁ、僕もあのバカに感化されたのかもしれないね」
僕は静かに笑い、ふと、月曜日の夜に刺し殺した男の顔を思い出した。
○○○
美作神社は露天や屋台などで活気付いていた。まだ夏祭りは始まっていないと言うのに、早くもわいわいと賑わっている。
僕と葵に割り当てられた仕事は、参道一帯に提灯を巡らすこと、そして境内の清掃だった。
参道の辺りには葉桜の葉が幾重もの層をなしている。
すだく蝉のけたたましい騒音に包まれて、僕たちは竹箒を動かす。夏の日差しはうだるような暑さだった。それを回避するために参道から少し離れ、木陰へと避難する。すると草がこんもりと薈蔚していて、実に涼しいのだ。端無くも、茂った草木の上で大の字になった。
見上げてみれば青い空があった。うららかな昼下がり。ついつい眠くなる。いつの間にか瞼が重くなり、旅立つ準備をしている僕がいた。
と。
「うぎゃっ」
「おまえは何様のつもりよのぉ、禊や」
僕は竹箒で盛大にぶっ叩かれた。頭にフルスイングだったから猛烈に頭が痛い。脳内が攪拌される。
「怠惰、精神のたるみ。男が一度決めたら最後までやり通すのが筋ではないのかえ?」
「……時雨サン」
「ほれ、葵を見てみ。一生懸命がんばっちょるぞ」と時雨サンは参道のほうを指差した。
上体を起こして見てみれば、確かに葵はがんばっていた。落ち葉と懸命に戦っていた。
「いくらうちらが頼んだ仕事とは言え、女の葵だけにやらせるのは感心せん」
時雨サンの言う通りだと思った。いくらなんでも、仕事の途中で居眠りとは自分が情けない。自分に課された責務はしっかりとこなさなきゃ。そんなことを思った。
その気持ちが伝わったのか、「わかっとるようじゃから、まぁええ」と時雨サンは額の汗をぬぐって、たおやかに口角を緩めた。「それに、うちもすまんと思っとったんじゃ。わざわざこんな猛暑におまえたちを引っ張り出して、悪かったの。んで、これは侘びじゃ」
受け取るがよいと言って、時雨サンは握り飯を一つ差し出した。
時雨サンは悪戯っぽく笑んだ。「なんだかんだで仕事は捗々しくいっとるようじゃな。一応もうしばらくしたら飯の時間になる。それまでの辛抱じゃな、禊」
巫女姿の時雨サンはもう一度笑んでどこかに行ってしまった。きっとほかの人たちにも握り飯を配るつもりなのだろう。
握り飯を片手に時雨サンの後姿を目で追う。
清浄な袴を着付け、竹箒を携えたその艶姿。
凝然として眺める。まじろがずに、ずーっと。
すると、胸の奥底から不思議な感情が湧き上がってきた。黒いような白いような、黒白つけがたい奇妙な感情の波、うねり。波濤のように押し寄せていく。
「……あっ、つぅ……」
突如、酩酊感に襲われる。僕は頭痛のする頭を抱え、そこにうずくまった。
それは猛烈な痛覚だった。想像を絶する冷気が全身を包む。疎ましい悪寒。苦しい。吐き気がする。
どうなってるんだよ、僕。
そんなことを思いながら頭を上げると、目の前には黒ずんだ何かがあった。
……え。
気がつけば僕の右手には黒光りするナイフが握られていた。どす黒い血。ナイフは勿論、頭の天辺から足の先まで、どす黒い血で濡れている。
「うぅ……えっぐ」
声にならない呻き声。それは目の前の何かではなく、僕の口から発せられていた。
たまらなく気分が悪い。
それでいて。
たまらなく気分が良い。
僕は物言わぬ死体を見下ろした。睥睨する。それでも男の死体は何も言わない。何も聞かない。何も見ない。
何も言えない。何も聞こえない。何も見れない。
そんな存在に堕ちていった男。苦悶の表情を浮かべ、天に向かって手を伸ばしている。しかし、その手が月や星屑を掴むことはない。物悲しく虚空に静止するだけ。
あぁ。
納得する。今の状況、その狂態に。
僕は。
僕は――。
「、、、、、っつ」
歯の根の噛み合わぬ恐怖、後悔。そして恍惚。溢れんばかりの恍惚。恍惚、恍惚……。
段々と思考がクリアになっていく。これまで僕が何をしていたのか、何に勤しんでいたのか、何を欺いていたのか、何を騙していたのか、全部分かる。うっすらと肺腑にしみていく。
繁茂する竹林。
冴え冴えと月の明かりが射しこむ。
そんな幻想的な風景の中、僕と、男は、いた。
対峙していた。
否。
退治していた。
眼前にいる男は見るからにヤンキーだった。きっと悪いこともしているだろう。多分、しているだろう。
だから。
だから、僕は正しい。……多分、正しい。
少なくとも役には立ってる。社会の役には立ってる。
鮮血に汚れた己が体を省みる。穢れた男の血。服の隅々まで染み渡っている。
僕は男に近づいていった。地に付かぬ足取りで男のそばにきて、しゃがむ。
そして。
刺した。
刺した、刺した、刺した。とりあえず、ふいに、なんとなく、きまぐれに、刺した。
刺しぬいた。
地面に縫い付けられた男。事切れた死骸に鋭利な刃が突き刺さっていく。ぐちゅぐちゅと肉がかき混ぜられていく音もする。
振り上げるのをやめると、粘ついた糸がナイフに引いた。銅のように変色した血液。新鮮さの失われた血糊。
僕は言いようのない法悦に囚われていた。
血しぶきに舞う夜。
機械的にナイフを上げ下げする僕。
肉の破片を飛び散らせる男。
遊戯。
終わらない遊戯。
いつになったら終わるのか。
どこに行ったら終わるのか。
なぜ終わらないのか。
なぜ終わろうとしないのか。
なぜ終わらせようとしないのか。