第二話
担任の挨拶と共に、ホームルームは淡白な終わりを迎える。
帰宅部の僕は、学校に残ってすることもないので、さっさと教科書類や筆記用具を鞄に詰め込む。
「紅花。おまえ、放課後空いてっか?」
と。
同じ帰宅部の相原が声をかけてくる。
相原は鞄を肩にかけて、僕の机のすぐそばまで接近した。
「この後、市街地で面白いことが起こる。おまえもどうだ? 真夏のぶっとびレイヴが楽しめるぜ」
この男はストリートライブの裏方のようなことをやっていると聞いたことがある。確か草薙市にはストリート系のダンサーやら、パフォーマーやらのグループがいくつかあって、相原はそいつらとつるんでいるのだそうだ。今を謳歌することに余念のない奴だ。グレーゾーン。相原は夜の草薙市を疾走している。
僕は首を横に振る。「用事があるんだ」
「葵チャンか?」
「葵は今日、遠征の微調整があるんだって」
「ふーん。そうか」と何を察した、と言うか思い出したのか、相原はあのニヤニヤとした笑みを浮かべながら僕に背を向けた。「用事があるなら仕方ねぇ。仕方ねぇよなぁ、そういう風にできてるものなぁ……。まぁ¥、暇があったら、東口通りの噴水広場に来たらいいぜ。オレの紹介だといえば融通してくれる」
僕は、「はいはい」と空返事をして、後ろざまに手を振る相原に手を振り返した。茶髪の男はあっという間に視界から消えた。
教室内は緩やかな喧騒でざわめいている。放課後の学校特有の騒擾。何かが終わったことに安堵したような、そんなぬるま湯を髣髴とさせる雰囲気。
再度携帯電話を開いて、考え込む。
行くべきか。
行かぬべきか。
僕は屋上にいた。
遮蔽物も何もない眼下からは、緑の映える山々が見える。その下には活気立つ商店街や住宅地。
屋上は解放されている。なので何の苦もなく屋上に入ることができた。
やや低めの柵に体を預けた。適当に鞄を置く。緑風が気持ちよいから、しばらくの間はこうしていたい。待ち人が来ずとも、それはそれでいいような気がしてきた。
そのまま側臥しようと思い、体を寝かせようとしたら、誰かの影が視界に入ってきた。
僕より少しだけ低い身長。触ったら折れてしまいそうな体。はためくスカート。明眸皓歯な面立ち。どこかで見たことのあるような顔。
上靴がコンクリートの床を穿つ。その人は典雅な動作で僕に肉薄していった。
「紅花君はいつもそんな目をして、ワタシを困らせる……」
同じ色の上履きをした少女は、僕のすぐ横に腰を下ろした。色素の薄い髪がさらさらとたなびいていく。
「そんな悲しそうな目をしたら、埋めたくなる。ワタシと言う心や体で、紅花君の悲しみを埋めたくなる……」
女は濡れたような瞳を僕に向けた。形のよい唇が言葉を紡いでいく様子は、艶やかで扇情的だった。
「ねぇ、紅花君はいつも何を思ってるの? 何を考えて、何を思って、誰を感じてるの? ……教えてよ。ワタシに教えてよ……」
女は僕の左手を握って、緩慢な仕草で顔を近づけた。透き影のついた鎖骨。潤んだ双眸。思い悩むような表情で、僕を凝視する。
「……不知火?」
僕はさして面息もない、同級生の名を呼んだ。
女――不知火彼方は嬉しそうな顔をした。
何かが起こりそうな予兆を感じる。僕は不知火サンから少し離れようとした。けど、つかまれた左腕は思うように動かない。まるで万力に固定されたようだった。不知火サンの細い腕からはとても想像できない力。
不知火サンは僕の耳元まで口を寄せた。
そして。
言う。
「……メール、見てくれた?」
「メール……? ああ、あれ、不知火……サンのだったんだ」
「そうよ」
「そうなんだ」
「…………」
「…………」
「やっぱり」
「やっぱり……?」
「やっぱり、紅花君を見ると悪戯しちゃいたくなる」
不知火サンは紅い舌で僕の頬をぺろりと舐めた。獣性のこもった瞳が、僕を貫く。不知火サンは滴る唾液に頓着せず、舌を艶かしいしぐさで出し入れした。落ちる唾液。アスファルトの地面にぺちゃりと、小さな波紋が広がる。
体中が総毛立つ感覚。ぞわっと体の芯から、変なものがこみ上げてきた。
「ななな、なっ、何を」
「何を?」と不知火サンが妖しく笑う。髪同様、色素の薄い眼球。長い睫毛。柔らかそうなししおき。
左手の温かい感触。
「何をって……その……」
「もっとされたい?」と艶然と舌舐めずりをして、「それとも、口同士で、とか」と言い放つ。
ぶんぶんと首を横にふる。そういうことじゃない。そうというわけではない。というか、そんなわけないじゃないか。
瞬発力に物を言わせて、不知火サンから離れる。ここから先は行ってはいけないような気がするし、後戻りできないような気もする。そんなことを本能が告げている。
「あっ……」
儚げな声を出して、可憐な眉を顰める。不知火サンはしりもちを付いた。両手をついた体勢で、太ももがあらわになる。あられもない光景。淫靡。
腰をさする。どうやらさっきの衝撃で、不知火サンは腰を痛めたらしかった。「あいたぁ」とかわいらしい声を出す。
僕はチャンスだと思って、このまま走り去ろうとしたけれど。
「……ほら、手を出して」
と。
不知火サンに手を伸ばす。
不知火彼方と言う女ほど、完成された人間はいない。
性格は温厚。友人も多く、人格は練れ、勉学もでき、運動能力も上。不自然なくらい完璧。欠点がない。浮世離れした雰囲気。天女を思わせる。何より、浮いたうわさが出ないことが、その神秘性に拍車をかけていた。同性愛者ではないか、と裏ではささやかれている。
そういう意味でも不知火サンは異質な人間だった。しかしこれと言った接点はない。半分くらい記憶の中で抹消されていた。同級生。そんな認識。
「……紅花君の匂いがする」
当の本人である不知火サンは僕と手を繋いだまま、クンクンと制服の匂いを嗅いでいる。犬のように鼻を押し付けて、目を閉じて、ずっとこのまま。
これこれ十分くらいはこうしている。
「……腰の方は大丈夫なの?」
「……大丈夫じゃないかも。あなたが触って確認してくれたら、分かるかもしれない」
「……いや、多分大丈夫だと思うよ」
冷える。今年は七月だからそれほど寒いわけじゃないけど、なんだか冷える。それでいて、生暖かい感触。それはきっと、不知火サンの吐き出す息の熱だと推測。不知火サンはしきりに体を押し付けてくる。コタツの中のような、爛れた熱気が僕の体を支配していた。
異性の体に触れるのは久しぶりだった。幼いころはよく、葵とじゃれあったり、一緒に風呂に入っていたころもあった。
でも、最近ではそんなことしない。卒業している。
「……いい加減腕が痛いんだけど」
不知火サンは今だ、幸せそうに僕の皮膚に頬をくっつけていた。
「……まだ。ぜんぜん足りない。禊エネルギーが足りないの。後はあなたの鎖骨を舐めて、その髪を口に含めば、どうにかなりそう」
「どうにかなりそうなのは、僕だよ」
不知火サンの耳を掴んで、ぎゅーとした。「ううぅ」と悲鳴を上げて、仰け反る。複雑に絡まっていた手が、徐々に離れた。
「あぁ……もっとしたかったのに」と恨めしいのか、ムッとした表情で僕を睨んだ。
どういう言葉を返すべきか戸惑った僕は、苦し紛れに、「こ、こんなことをするために僕を呼んだのか」と大変無意味なことを訊いた。
不知火サンは首肯した。「けど、ちょっと違う」
「……違う?」
「あなたに告白するためにここに呼んだ」
やけに淡白なそれは、力強い余韻を伴って、僕を襲った。
そして情けないことに、すっかり気が動転した僕は、「えっ?」と間抜け面で問い返していた。
「あなたのことが好き。朝昼晩、ずっとあなたのことを考えてる。それくらい好き。好きで好きで堪らない。殺したくなる。それくらい好き」
……なんなのだ、この女は?
現実感がない。喜びよりも先に、不信感がわく。
何より、どうやって僕のメールアドレスを知ったのだろう?
水面下での動きがあったのか、それとも不知火サンがそれだけのツテを持っていたと言うことなのか。
どこかの男子が、不知火サンに情報をリークしたのかもしれない。確かに不知火サンに頼まれれば嫌とは言えない。多分、僕でもそうだ。
何も言わないボクに業を煮やしたのか、不知火サンは透徹とした目を向けた。「紅花君はワタシのこと、どう思ってる? それが訊きたい。紅花君がワタシのことどう思ってるか、知りたい。紅花君の感じているもの全てを知りたい。紅花君にワタシを知ってもらいたい。紅花君と交わりたい。紅花クンがワタシの全部にメロメロになって、たくさんイチャイチャして、二人でグチャグチャになって、お互いを支え合える関係になりたい。そういうのは、イヤ?」
「嫌じゃ、ないよ」
「イヤじゃない……」
「ドッキリとか、そういうんじゃないんだろ」
不知火サンは激しく首を振った。がんぜない子供のようで、思わず笑みが浮かぶ。
「いいよ。こんな僕でよければ。断る理由もないから」
「……ウン」不知火サンは高潮した頬をうつむけた。
かわいいなぁ、とふわふわした欣喜を感じている。
不知火サンはほほえんでいる。