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いつかの君とどこかの僕  作者: 密室天使
だいいっしょう  ひきがねをひくせかい
19/37

第十九話

  

 その兆はずっと前から現れていたのだと思う。


 雑踏の中にいた。

 途切れぬ足音は蝉時雨のように僕の耳朶(じだ)を打ち付けた。引きつるような笑い声がする。

 すれ違う人々。

 それを横目に僕は壁面に背を預けた。ポケットに手を突っ込んでぼーっとする。

 眼下には無数の人間、人間、人間。どこまでも人間。飽きるくらいに人間。

 辟易する。

 駅前のショッピングモール。

 そこは草薙の村でも都会と呼べる場所だった。店は多いし、ビルも多い。何より人が多かった。草薙村の人口の大半はここに集中しているように思う。

 ここに向かうための通行手段はほぼ電車に限られる。徒歩や自転車で行こうにも遠い。まして僕は自動車を運転できる年でもない。

 普段、ここに来ることはそうそうない。人ごみが嫌いだからだ。

 にもかかわらず。

 ここにいる。

 なぜか。

「お兄ちゃーんっ!」

 妹が店の自動ドアから出てきた。手には膨らんだポリエチレンの袋が握られている。 

 葵は屈託のない笑みを浮かべていた。肩で切り揃えられた黒髪が風になびく。それに準じて羽織っていたパーカーもはためき、チェックのスカートも揺れる。露出した大腿(だいたい)は艶やかで、やたらと目に立つ。今日の葵の格好は妙に扇情的に映った。

「何を買ったの?」

「これ」と葵はポリエチレンの袋から二つのマグカップを取り出し、「私とお兄ちゃんのおそろいのカップだよ。すごく悩んだんだけど買っちゃった」とかわいらしく舌を出した。上目遣いに僕を見る。

 葵の買ったらしいマグカップ。精密そうにできている。「その、お金の方は足りた?」

「大丈夫、大丈夫。これ、見た目が凝ってるわりに割と安いやつだったから」と葵は僕を安心させるように笑み、マグカップを袋に戻した。

 そして。

 葵は僕の手を引き、指と指とを複雑に絡めた。確かめるように、味わうように、指を交差させる。当たり前のように肩を寄せて、ぎゅーっと僕の腕にしがみついた。喜色を浮かべて、実に嬉しそうに、法悦のこもった笑みを浮かべる。

「あっ、葵……」

「ん。どうしたの?」

 僕は名状しがたい違和感を感じながらも、「変じゃないかな、こんな風にするの」と言って、腕を上げた。葵は僕の腕にしがみついているので、葵が僕にぶら下がっているように見える。傍から見れば間抜けな構図だった。

 一方の葵は不思議そうに首を傾げた。射止めるような流し目。その瞳は女としての愉悦が含まれているようで、僕を単なる兄とは認識していないように見えて、重要なネジが何個か落っこちているようで。

「変かな、これ」

「変だよ。普通じゃない」

「普通……?」

「普通の兄妹はこういう風に腕を組んだりしないだろ」

「……お兄ちゃんは私と腕を組むの、嫌なの?」

 そういうわけじゃないんだけどなぁ、と思う。僕が言いたいことはそういうことじゃない。もっと根源的な――社会の一般常識に関することだ。

 世間一般の兄妹は公衆の前で手を繋いだりしないし、腕を組んだりもしない。僕たちが年端の行かない子供なら話は別だけど、僕はもう中学生だし、葵は小学校六年生だ。大人の領域に足を踏み入れつつある年齢。

 感じる。

 モヤモヤとした違和感を感じる。

 あるいは。

 背徳の悦のような、一線を越える狂気のような……。

 葵は濡れた唇を僕に向けた。湿った口唇は妖花のように艶麗で、男の情欲を誘う。

 ぎゅーっと手に力がこもる。指の関節が痛い。葵は僕の手を握り潰すかのように力を加えた。

 痛いと言える雰囲気ではなかった。葵は能面のように無表情だった。その気配は(いばら)のように刺々しく、鋭利に尖っている。

 その雰囲気に気圧された僕は口を噤んだ。

「家族じゃん」と呟く。「私たち、家族じゃん」

「え」

「家族は大切にしなくちゃダメ。一緒にいなくちゃダメ。それくらいお兄ちゃんも分かるよね? 分かるよね、分かるよね、分かるよね? だから、腕を組むくらい、なんでもない。それこそ普通なことなんだよ? 家族が家族のことを大切にするって何か変なことかな? 別に変じゃない。普通。当たり前。だから、私のやってることは正しい。お兄ちゃんと手を繋ぐことは正しいことなの。こうしてお兄ちゃんとの仲を深めようとすることはごく普通の行為なんだよ。だってわたしたちは二人だけの家族、兄と妹なんだから。だから、二人でお買い物に行ったり、二人で映画を見に行ったり、二人で喫茶店に入ったりすることは、不自然なことじゃない。まとも。いたってまとも。そうだよね?」

 まとも、なのか?

 前に周囲の連中に聞いてみたけど、そんな答えは返ってこなかった。おかしいだとか、異常だとか、そういう返答ばかりだった。

 当然葵のことは大切にしているし、今後もしたい、と思っている。葵の言説どおり、葵は僕の唯一無二の家族で、かけがえのない妹だ。その考えは今も昔も変わらない。

 しかし。

 今のこれは少々様相が異なるように思えた。

 葵の言う家族愛と僕の想像する家族愛はなにやら根本的に違うようだった。葵の提示する家族愛は倫理に基づく絆などではなく、もっとその……兄妹の境目を踏み越えた先にあるもののように思えるのだ。

「あのね、葵」と諭すような口調で言った。「それは僕もそう思う。思うけど……これはちょっと違うんじゃないかな。確かに僕は葵が好きだし、葵も多分僕のことが好きなんだと思う。けどね、行き過ぎてる。おまえは外してはいけない箍を外しているように思うんだ。度を越している。考えても見ろよ。さっき僕たちの見た映画で兄と妹が登場しただろ。その中の二人は今の僕たちみたいに手を繋いだり、腕を組んだりしてなかったよね? 変なんだ、どこかが。そもそもおまえ、本来なら浴衣(ゆかた)ちゃんと一緒に遊びにいく予定じゃなかったのか?」

 葵の眉が神経質に蠕動(ぜんどう)する。手の力はずるずると緩んでいた。が、反面、葵の押し潰すような重圧が眼に見えて濃くなったように見えた。

 雑貨店の店先。

 通行人が不思議そうに僕たちを流し見る。無遠慮な視線や詮索するような視線。ひょっとしたら、僕たちが喧嘩中の幼い恋人同士に見えたのかもしれなかった。

「……なんで。なんで浴衣のこと、知ってるの?」

 と。

 呟く。

 押し殺したような声で。

 呟く。

「昨日彼女と会って聞いたんだ。僕たちがさっき見た新作の映画。あれ、元々浴衣ちゃんと見に行くはずだったんだろ? 二人分のチケットも用意していたみたいだし」

「会った……の?」

「うん。夕刊を配達しているときに偶然会って、そんなことを聞いた。それよりもいいのか? きっとさ、浴衣ちゃん、楽しみにしてたんじゃないかな」

「そう……」

「浴衣ちゃんの予定でも変わったの?」

「うん。そうだと……思う」

「思う?」

「…………」

 葵は無言だった。口を閉ざし、話そうとしない。

 話す素振りもない。

 奇妙な空白。停滞する空気。ぽっかりとした空洞が穿たれる。

「……そういえば」

 ふいに。

 ふいに声。 

「そういえばお兄ちゃん。昨日の夜に携帯で誰かと話してたみたいだけど……誰?」

 暗い目で問いかける。

「あぁ、浴衣ちゃんだよ。せっかくだからってメールアドレスを教えて貰ったんだ」

 葵は空ろな表情で返事をした。雲散霧消。消え行く余韻に喉がひりつく。葵の意識は薄弱でその目は暗褐色に混濁していた。

 色々な人が目の前を通り過ぎていく。

 男、女、子、鳥、犬。

 性別、年齢、種族、関係ない。スーツを着こなした男性、ハイヒールをはいた女性、天衣無縫な子供、禿頭の老人、電線に足をかける鳥、リールにつながれた犬。

 生物の坩堝(るつぼ)。各々の道、人生。離反しては交錯していき、連綿と繰り返される。点や線。入り混じる。僕たちのあり方。運命。出会っては離れていく本性、宿命、その螺旋。

 草薙村の駅前は雑然としていて、騒々しかった。 

 表裏をなして、葵は静かだった。不自然なくらいに静かだった。怖い。


 


   ○○○




 蒸し暑い夜。

「うだぁー」 

 粘っこい暑さにすっかり参ってしまった僕は、ソファーの上でぐだった。足を投げ出し頭を上へ向ける。そうしてぼんやりとする。それがここ最近の日課となっていた。

「もう、そんなにぐだらないのー」

 妹の注意も何のその、僕はソファーに全身を預けた。「僕は暑いのが何よりも嫌いなんだ」

「誰でもそうだと思うけど……」

 葵は皿を拭きながら、呆れたように言う。

 と。

「……誰だろう?」

 ふいに鳴る携帯電話。僕はのそーっと手を伸ばしてテーブルに放置された携帯電話を手に取った。

「もしもーし。誰ですかー?」

『僕じゃ、禊。いや、それよりもなんじゃ、その腑抜けた返答は。うだる夏の暑さにやられた口か』

 みるみる意識が鮮明になる。僕はソファーから飛び上がった。「ひ、氷雨サン! どうして、その、いきなり……」

『うろたえんでええ。別に赤紙渡すわけでも、冥界からの電話と言うわけでもない。ちーとおまえたちに頼みたいことがあってな』

「頼みたいこと、ですか?」

『あぁ。そう難しい話じゃないぞ。時期的にもこの頃であろうな』

 僕は氷雨サンの言いたいことがなんとなく分かった。時節のことを鑑みれば、すぐに類推できることだった。

「夏祭りのことですか?」

『ご明察。後三日もすれば夏祭りじゃろう? だからの、おまえと葵に明日、祭りの準備を頼み申したいと、そう言うことじゃ』

 そう言えばもう夏祭りの時期だったんだっけ。

 カレンダーを盗み見てみれば確かにその通りだった。

「葵。明日は大丈夫?」といつの間にかすぐそばに来ていた葵に問いかける。葵は逡巡することなく頷いた。 

「葵も僕も大丈夫です」

『そうか』

「相原のほうにも声をかけたんですか?」

『庵はすとりーとらいぶなるもので忙しいそうじゃ』

「……なるほど。あいつは今夜からずっと暴れまわる魂胆か」

『むぅ、そうかどうかは知らん。……まぁ、あいつはあいつで楽しくやっとるじゃろ。それにおまえにも世話をかけっぱなしじゃ。すまんの』

「そんなことはないですよ。僕のことは全然こき使ってくれて構いませんから」

『……おまえらしい物言いだな。勿論働き手は丁重に扱うからの。では、また明日じゃ』

「はい」

 電話が切れる。

 僕は携帯電話を閉じようとした。

 と。

「……あれ」

 異変に気付く。

 それは電話帳に現れていた。

 大槻氷雨(おおつきひさめ)はあ行に登録されている。あ行はほかにも相原庵(あいはらいおり)大槻時雨(おおつきしぐれ)と続いている。

「どうしてだろう? 浴衣ちゃんのメールアドレスが消えてる……」

 入江浴衣(いりえゆかた)はあ行の段に属している。なのに電話帳にはそれが載っていない。昨日の夕方に登録したつもりなんだけど……。

 と。

「消したよ」

 冷え冷えとした声。

「……え」

「私が消した」

「……葵が?」

 葵のほうを向く。

 葵は柳腰で僕の隣に座っていた。こちらを見る目は妖にして艶で、やけに澄み切っている。

「そうだよ。イヤだった?」

 主軸からずれたような問い。イヤとかイヤじゃないとか、そういうことじゃなくて……うう、なんていったらいいんだろう?

「その、勝手に見たの? 僕の携帯」と小さな声でそんなことを言った。 

「見たらダメだったかな?」

「うーん」と僕は呻吟した。言葉を慎重に選ぶ。「あんまり……感心しないな」

 すると。

 葵は不機嫌そうに眉を顰めた。よこしまな色をした双眸はどんよりとしていて、獣のように息を荒らげる。唇はわなわなと震えていた。

「そ、そうやって、もも、もっともらしいプライベートを、わっ、私たちの間に持ち込むの? 携帯見るくらいたいしたことじゃないよ。携帯をこっそり閲覧することはいけないことかもしれないけど、それは人間心理の必然でしょ? お兄ちゃんがバカな女に騙されてないかとか、ほかに女ができてないかとか、私としては気になるの。私だってお兄ちゃんが気になる。お兄ちゃんがどういう交友関係を持ってるか知りたい。全部知りたい。それなら携帯見るのが一番手っ取り早いから。だよね? お兄ちゃんもそう思うよね? 私がほかの男と一緒にいたらお兄ちゃんはどう思う? イヤだよね。不快な気分になるよね。私だってそんなことを思ってるんだよ。お兄ちゃんが私以外の女と会ってないか気になるの。イヤな気持ちになるかもしれないと分かってても、お兄ちゃんのことが知りたいの」

 粘着質な視線が僕を貫く。

 艶かしい舌なめずり。笑みの形を作る顔。人形のように可憐に整った面貌。

 それは妄執。常軌を逸した妄執。

「それにお兄ちゃんにはあんまり私の友達とは仲良くしてほしくないかな。あんまり無駄な関係ができちゃうと、私がお兄ちゃんと一緒にいれる時間が少なくなっちゃうから。家族はやっぱりずっと一緒にいないとダメだよね。それにお兄ちゃんはかっこいいから浴衣がお兄ちゃんに惚れちゃうかもーとか、逆におにいちゃんが浴衣に惚れちゃうかもーとか思ってるし。そんなことないと思うけど。ありえないと思うけど……と言うかそんなこと、絶対に許さないけど……けどね。もしもだよ。もしも、お兄ちゃんがほかの人に惚れたり、惚れられたりしたらイヤだから。そんなことになったら私、ショックで死んじゃうから。生きていけなくなるから。お兄ちゃん抜きだったら私、生きていけなくなる……。それに。それにお兄ちゃんが私のいないところで笑顔になってたり、楽しそうにしていたら、私……。うぅ、うううぅぅう!」

 葵は泣きそうな目で僕を見ていた。

「……葵?」

「そういえばお兄ちゃん。昨日街に行ったとき、派手な服の女の子たちに取り囲まれてなかった? お兄ちゃんはそう言う人じゃないから分からないと思うけど、あれはね、逆ナンって言うんだよ。その人たちはお兄ちゃんに気があったんだよ。私が横から割り込まなかったら大変なことになってたかもしれないよ? 変なことさせられてたかもしれないし、もしかしたらお兄ちゃんの貞操奪われてたかもしれないし……。そこで私は思うんだけどね、お兄ちゃんは私から離れたらダメなんだよ。私がそばにいないとお兄ちゃんはどこか抜けてるから災難に遭っちゃうよ。それを未然に防ぐためにも、ずっと私のそばにいてよ。ずっと隣にいてよ。それが一番の良策だと思うな。だから、お兄ちゃんが私以外の人と関わってたらいけないの。その分お兄ちゃんが危険にさらされるから。ほかの人たちだったらお兄ちゃんを守れないよ。だからこうするんだよ。こうすればずっとお兄ちゃんが私のそばにいられるから。当たり前のことだよね、これくらい。だって私たち、家族なんだし。家族は絶対に離れたらダメだし。でしょ、お兄ちゃん?」

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