第十八話
易に太極有り。これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。
○○○
「うわぁ……!」
みそぎは胸底からの感嘆の息を吐いた。
迦陵頻伽な調べ。笙や篳篥の音色。筝や琵琶の和音。厳粛な雰囲気を作る。その様相は非日常を思わせる神々しさを呈していた。
小高い台の上。
粛々と舞う巫女装束の少女。赤の伊達襟を重ね、半襦袢と白衣の間に着け緋袴を着付けている。飾られた花簪に赤の行灯袴。少女は静々と神楽鈴を片手に舞を奉納していた。
「あっ……あれ、ひさめさんじゃねーか?」
あいはらは和琴を奏でる少年を目で示した。
「……ほんとだ」
「お琴、弾いてる。なんだかすごいねっ」
あおいは感動した風に言う。事実、その荘厳さに震え上がっていた。耳は流麗な調べを脳に刻む。準じて鈴の音がさらさらと流れていった。
みそぎの瞼の裏にはよどみなく舞い踊るしぐれの艶姿があった。白装束がたゆたっていく。その姿に蝶々を投影するみそぎ。
脳裏に四角い画面が過ぎる。その中でうごめく何か。そいつがそよそよと飛ぶ蝶を捕獲していく。
重なっていく。二つの光景が一つに重なっていく。
現出する幻。そうした幻想の中に一つの感情。産声を上げて、みそぎを闇へと飲み込んでいく。
飲み込む。
飲み下す。
飲み倒す。
飲み潰す。
「……っておい。べにばな」
「ん」
「ん、じゃないだろ。見てみろよ。しぐれさんすごすぎだっ。言葉に表せねぇ。表せねぇけどとにかくすごい。だろ、べにばな?」
「あっ……うん。すごい、ね」
「そうだよ、お兄ちゃん。しぐれお姉ちゃんすごいよ。わたしもお姉ちゃんみたいになりたい……」
「なれるよ」
「そうかな?」
「あおいなら」
みそぎはにっこりと笑った。確信のこもった笑みであった。
あおいは照れたようにはにかんだ。「だといいけど……どうかな」
「なれるだろ。あおいちゃんかわいいから。超絶美少女だから」
「それは微妙に方向性が違うだろ」と突っ込むと、あいはらはニヤニヤと笑った。
「けどよぉ、あおいちゃんがかわいいのは事実だろ。苛めたやつらもあおいちゃんがかわいくて、こっち見てほしかったから苛めたように思うんだけどよ」
「かもしれない……。ちょっと複雑」とみそぎは目を細めた。「そうだとしても許さないけど」
「典型的ないじめっ子心理。気をつけておけよぉ、べにばなよぉ。あおいちゃん超絶美少女だから、もたもたしてっとどこぞの馬の骨に掻っ攫われるぜぇ」
「……こう言うのを娘を嫁に送り出すお父さんの心情なんだろうね」とみそぎははかなげな表情を作った。考えてもみなかったが、あいはらの言うとおりだ。
あおいはぎゅーっとみそぎの服の袖を掴んだ。「大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたし、どこにもいかないから……」
みそぎは苦笑しながらも、あおいの頭を撫でてやる。
黙って受け入れる。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「お兄ちゃんもどこにも行かないよね?」
「行かないよ」
「わたしもずっとお兄ちゃんのそばにいる。あいはらお兄ちゃんと遊んで、しぐれお姉ちゃんにお裁縫習って、ひさめお兄ちゃんに木登り教えてもらう。だから……お兄ちゃんをドキドキさせるようないい“おんな”になるんだからっ!」
びしっとそう言われる。あおいはみそぎに指を突きつけた。顔は赤い。その後すぐに、恥ずかしそうに指を下ろすのだった。
「おおっ、宣戦布告だぜ、べにばな。こいつは覚悟しとかねーとなぁ」と茶化すような口調。「くれぐれも実の妹に惚れるなよぉ、べにばなよぉ」
みそぎはあおいのかわいらしい物言いに困惑しながらも、その勇ましさに頼もしさを覚えていた。
ぼくも。
ぼくも、がんばらなくちゃ。
「だったらぼくは、頼りがいのある“おとこ”になるっ!」
「だったらおれは、世界一危ない“おとこ”になるっ!」
みそぎとあおいはあんぐりを口を開ける。一方の本人はポーズを決めて空に指を突き上げていた。
「……なんだよ、それ」
「なにもどうにも目標だろ、目標。おれは世界一危ない“おとこ”になると誓ったんだ」
「そもそも危ない“おとこ”ってなんだよ。ナイフでも振り回すのか?」
「違うから。全然違うから」とみそぎの言を訂するあいはら。「おれの言う危ないってのはよぉ、思想的なやつだ。それによぉ、日本語の表現で、危ない男ってあるだろ? そんな感じだ」
「ぼくにはまったく分からないんだけど……」
みそぎは呆れたように苦言を呈した。あいはらの理解不明な言動は二人を大いに戸惑わせた。それは単純にあいはらが天性のバカである可能性もあったが、だがしかし、きっとただのバカなのだろうと思った。
「まぁ、いいか。とにかくおれは世界一危ない“おとこ”になってやる。だからよぉ、おれに近づいたら火傷するぜ」
なんじゃそら、とみそぎは辟易するが、あいはらは構うことなく変なことを言う。
「そう言えば前におまえが、蝶々が好きだと言っておったの」
拝殿裏の庭。
照る月明かり。葉桜の湿気ったにおいが夜風に運ばれていく。その静けさは祭りの終極を暗示しているかのようであった。
ポツポツと畳まれる幟や屋台。業者の手によって提灯が外されていく。余った仮面や金魚は物悲しく回収されていった。
「それがどうかしたの?」
「ふふふ、みて驚くでないぞ……」
しぐれはおもむろに厚い本のようなものを取り出した。
開けてみる。
すると、その中には展翅された蝶の標本があった。鮮やかな色彩をした蝶々。列を成すように針でとめられている。
みそぎは歓声を上げた。
「これはな、曾御祖父様秘蔵のコレクションでな、曾御祖父様は熱狂的な蝶の収集家だったんじゃ」
みそぎは恋焦がれるように標本を眺めた。
展翅板にとめられた蝶々たち。
整然とした美しさ。どこか妖しげで妖艶ですらある。
ただ。
言い換えてみればそれは、しょせん物言わぬ遺骸であった。
死。
死。死。死。
蝶の死。
「曾御祖父様はすでに身罷っていらっしゃってな、これは曾御祖父様が残してくださった大切な遺産じゃて。うちの宝物じゃ」
「いいなぁ、いいなぁ。ぼくもほしいなぁ」
「さすがにやることはできん。できんがこうして見せてやることくらいはできる。見たくなったらここに来るがよい。いつでも見せてやるからの」
「うん!」
みそぎはぶんぶんと首肯した。それくらいしぐれの提案は魅力的だった。
大げさなみそぎの反応。幼心の発露。しぐれは楚々と表情を緩めた。
みそぎの頭の中は無数の蝶々で一杯だった。留め針で身を穿たれた蝶々で一杯だった。
前翅に二十本。
後翅に二十本。
計四十本の針に刺し抜かれた躯。不自然に整えられた触角、翅。それがやけに細い針で串刺しにされていた。
まるで十字架を思わせるそれは、罪人の手足に杭を打ち込むような残酷さを思わせる。
空っぽな穴が口を開けて待っている。晦冥の無へと続く扉が開こうとしている。
知らず知らず。
通り過ぎようと。
している。
「しかし、いつ見ても綺麗なもんじゃ。特に好きなのはこのアゲハチョウかの。禊はどれが好きじゃ?」
「ぼくは……これかな」
「おまえはいい趣味をしておるの。うちもこの鮮麗な彩りには目を見張っていたところじゃ」
「しぐれさんも?」
「と言うより、どれもがすばらしくて甲乙つけがたい、と言ったところか。どれもこれもが秀逸。これだけ見ても飽きんわ」
それはみそぎも同意見だった。神秘的な超の標本はみそぎとしぐれの心を掴んで離さなかった。
「……腹が減ってきた。そろそろ氷雨たちのところに戻るかの」
しぐれは後ろを振り向く。きっとしぐれの家の中ではひさめたちが餅を食っているところだろう。みそぎとしぐれは例の標本を見せるためにそこから抜け出したのだった。
みそぎの腹の虫が鳴る。祭りの最中にそれなりに食べてきたのだが、やはり成長期と言ったところか。
「禊も腹ペコのようじゃな。今夜はお母様特製の草餅じゃから、はよう戻らんとみなに食われてしまうぞ」
その姿が容易に想像できたみそぎは、「早く行かないとあいはらのバカに全部食べられちゃう!」と大慌てでしぐれの家へと向かった。
「おいおい、そんなに急がんでも」
「どっちが先に着くか勝負だ!」
「ほう。自ら敗北を選ぶか……」
しぐれはパタパタと草履を履いた足でみそぎを追いかけていった。
当然のことながら、しぐれの勝利に終わる。