第十七話
祭り囃子が聞こえてくる。
その陽気な音調は聞くものの心を高揚させ、奇妙な一体感を抱かせる。
みそぎもその中の一人であった。
生まれて初めての夏祭り。みそぎの胸は大いに高鳴っていた。
何より隣にあおいがいることが嬉しい。
あおいは元より人見知りをする性格だった。意志が薄弱で自分の気持ちを相手に伝えることが苦手であった。
加えていじめのこともある。あおいはますます人間不信に陥った。
しかし。
みそぎやあいはらたちの献身のおかげでいじめは確実に沈静化していった。いじめっ子たちもあおいから手を引き、二、三人ではあるが友人と呼べる子もできるようになった。
その結果、あおいは人と関わるようになっていった。以前では考えられないことであった。それくらいあおいは内向的で塞ぎがちな少女だったのだ。
二人で過ごす夏祭り。
藍で染め抜いた浴衣。木綿の心地よい肌触り。兵児帯をしごいて締め、鼻緒の赤い下駄を履き、みそぎは意気揚々と祭りに繰り出す。あおいも兄に連れられ、カラコロと下駄を鳴らしていった。
片夕暮れの草薙村は和気藹々と活気盛んだった。参道の両側に屋台や露店が軒を連ねる。辺りでは美味そうな匂いが漂い、金魚掬いで一喜一憂する人々の声が聞こえる。囃子の音頭に合わせて老若男女が浮かれ騒ぎ、夏祭りはよりにぎやかになった。
「何食べよっか?」
みそぎがそう問いかけるとすかさず、「りんごあめ!」と勇ましい声が返ってくる。
「りんごあめか……。ぼくも食べよっかな」
みそぎはりんごあめの幟が立てられた屋台に目を向けた。そこには鉢巻を締めた恰幅のいいおじさんがいた。人のよさそうな笑みを浮かべている。子供たちにりんご飴を配っている。
「これください」とみそぎは慣れない手つきで懐に手を入れた。虎の刺繍がされたかわいらしい財布。そこから小銭をいくつか取り出す。
「君とお嬢ちゃんの分かい?」
「はいっ」
「おおう、ちょっと待ってな」とおじさんはりんご飴を二つ取り出した。それをみそぎとあおいに一つずつ手渡す。
あおいはぱーっと花開いたように笑った。鼈甲のかんざしで結わえられた髪が小さく揺れる。あおいはりんご飴を舐め、おじさんに微笑みかけた。
みそぎはりんご飴の代金を払おうとした。けれど、屋台のおじさんは豪放磊落に笑い、「代金はいらぬ、いらぬ」と差し出されたお金を受け取ろうとはしなかった。「今回はお譲ちゃんの笑顔でまけてやっからな。特別だぞ?」
おじさんは秘密を打ち明けるように小声で言い、その後太っ腹に笑って見せた。
「ありがとう、おじさん!」
「いいってことよ。がははははは!」
みそぎは何度もお礼を言った。最後にぺこりとお辞儀をしてその場を辞す。りんご飴の甘い風味が口に広がる。おじさんの心意気が嬉しくてたまらなかった。
「よかったね、あおい」
「うん。あのおじさん、優しかったね」
あおいは兄の手を握った。伝わる体温。伝播する感情。みそぎもその手を強く握り返した。
みそぎとあおいは次の屋台へと足を伸ばそうとしていた。
次は何を食べようかなと思案していると、見知った人影が視界に入った。
「ひさめさんっ!」
焼きそばの屋台の前には女物の浴衣を纏うひさめの姿があった。肩の辺りまである銀髪を一本に結わえてある。その後姿は小股の切れ上がった花魁のように映った。姿勢がよく、長身のわりに華奢な体つきだからか。
「おお、禊に葵。奇遇じゃのう」
振り返ったひさめは明朗と莞爾を浮かべた。
ひさめは袖口から手を出し、二人を手招きをした。その肌は雪のように皚々として白く、変な色気があった。しかし、ひさめの笑う様子は男らしく豪快だった。
「おまえたちも来ておったのか。それで、目当てはこいつなんじゃろ」
ひさめは鉄板に広がっている焼きそばを指差す。ソースであえられ、じゅうじゅうと焼き上げられる焼きそばの匂いは二人の食欲を刺激した。
「おやじ、あと二人分ほど焼いてやってくれぬか?」
「お安い御用だぜ、大槻の兄ちゃん。けど、こんなところにいてもいいのかい?」
「神楽のほうはええ。僕は和琴を弾くでの。神楽の舞を奉納する姉様はともかく、僕はあくまで裏方やから」
「時雨様はご多忙なこった。と言うことは今も着物の着付けやら、禊祓を粛々と執り行っていらっしゃるのか?」
「その通りじゃ。姉様は今、裏の滝で御身をお清めになられておる」
「兄ちゃんはもう済ませたのか?」
「済ませた。さきほどまで白装束で滝に打たれておったわ」
「けど兄ちゃんよ、本当に時間とか大丈夫か? もうすぐ始まるんじゃねーのよぉ、時雨様の神楽舞は?」
「息抜きじゃ、息抜き。姉様がの、暇じゃったら飯でも食って来いと仰っての、それでおやじの焼きそばをこうして食いにきたんじゃ」
そう言って美味そうにめんをすする。注文した二人分の焼きそばも出来上がりつつあった。
と。
「そら、一丁上がりっ!」
どうやらできたようであった。
焼きそば屋のおやじは、「二つ分だぜ。金はいらねぇ、こいつは俺のおごりだ」とやはり物惜しみしない度量の深さを見せる。おやじは豪気に構え、焼きそばをみそぎとあおいに差し出した。
「いっ、いいの?」とあおいがちらちらとおやじの気色を窺う。
「いいんだぜ、お嬢ちゃん。これはおじさんからの贈り物さ。俺も商売とは言え、いたいけなガキに金貰うなんざ目覚めが悪いからよぉ」
「ほれ、おやじもこう言っとる。こう言うときはありがたく食っとくのが礼儀じゃ」
ひさめも便乗するようにそう言い、「おやじ、おかわりをくれ」と空になった容器を突きつけた。「青海苔を死ぬほどのっけてくれ。後紅しょうがもじゃ」
「兄ちゃんも注文が多いねぇ、遠慮ってもんがねぇ。まぁ、作ってやっけどよ」
俺もつきが回ったもんだぜ、とおやじは苦笑しながらそう言うが、その表情は満足げであった。
みそぎはひさめに促され、焼きそばを口に運ぶ。
「おっ、おいしい」
あおいも頤が落っこちるような心地だった。兄と軌を一にしてひたすらに焼きそばを食べる。
焼きそばで舌鼓を打つみそぎとあおい。
おやじは景気よく焼きそばを焼く。
ひさめは今か今かと焼きそばの完成を待ちわびる。
祭りも佳境。時は夕を過ぎ暮夜の刻へと移ろいつつあった。
時の推移に合わせて、灯篭には赤々と燃える火が灯る。それが縦に並び、参道の脇を無数に伸びていた。その近くには轟々と活気立つ露店が軒を寄せ合う。
祭りは終わらない。
「そろそろじゃな」
狐の面を斜めにかぶったひさめは本殿のほうに目を向けた。
本殿では巫女舞の準備が粛然と行われているだろう。
さすがに戻らねばならぬ。
「禊、葵。僕はそろそろ行くでの」
「ひさめさんは踊るの?」とみそぎは無邪気にそう問うた。
ひさめは首を横にふり、「僕は踊らん。奏でるんじゃ。こういう風にの」と言って琴を弾くような動作をした。
その素振りだけでは、どういう楽器をひさめが奏楽するのか窺い知ることはできない。当然のことながら、みそぎは邦楽について無知であった。
ポカンと口を開けるみそぎ。それを見たひさめはぷっと吹き出した。みそぎの仕草があまりに邪気がなくて、なんだかおかしかったのだ。
「まぁええ。それよりも僕は一旦戻る。後三十分もすれば神楽の舞が捧げられるはずじゃ。時間になったら本殿に来るといい」
ひさめは狐の面をみそぎにつけて足早に去っていった。置き土産、と言うことか。
「行っちゃった……」
ひさめは人々の間をすいすいと通り抜けていった。その後姿を呆然とした風に見る。風みたいだ、とみそぎは思った。
「そだね……」
気がつけばひさめは視界から消えていた。
「どうする、お兄ちゃん?」
「うーん、どうしようか……」
「なら、おれのたこ焼きを食いやがれっ!」
と。
「あっ、あっつう! 何するんだ!」
「何するって……おれさまの最上級のたこ焼きを食わせてやろうと思っただけだ」
「あ、あついだろ! びっくりするじゃないか」
ふがふがと口に突っ込まれたたこ焼きを食いながら、みそぎは盛大に文句を言った。
一方の相原のほうはと言うと、まったく堪えた様子はない。いつも通り飄々と意地悪い笑みを浮かべるだけである。
「ちょっと、お兄ちゃんが困ってるよぉ」
「いいんだってこれくらい。あおいちゃんも食ってみろって。死ぬから。これ、旨すぎて死ぬから」
あいはらはたこ焼きの入ったトレイをあおいに渡した。
あおいは半信半疑な視線をたこ焼きに、そしてあいはらによこす。恐る恐るたこ焼きを食べてみた。するとたちまち、その表情は満ち足りたものとなった。
「……おいしい。このたこ焼き。おいしい!」
「だろ、だろ、だろ? このたこ焼きはうまいんだよ。神がかってんだよ。けどこいつは文句しか言わねー。ことあるごとに文句しか言わねー。罰当たりなやつめ。呪われろっ。たこ焼きの神に呪われろっ」
「……なんだよ、たこ焼きの神って。八本足の神様なんていないだろ。おすしでおいしく頂ける神様なんていないだろ」
「これはたこ焼きだっ」
「分かってるよ!」
みそぎは肩で息をした。たこ焼きはすでに咀嚼済みだった。慮外、美味しかったことが腹立たしい。
「……それで」とみそぎは一旦息を整えて、「それでおまえはなんでここにいるんだ? しかもそんな格好で」とあいはらに問いかけた。
「ああ、これだろ」とあいはらは己の服装を改めて眺めた。「おまえは知らないだろうけどよぉ、熱いんだよ鉄板。ほら、たこ焼きって鉄板つーか穴がたくさん開いたやつで焼くだろ? あそこでずっと焼いてるとよぉ、焼け死んだりする。あまりの熱に焼け死ぬんだよ、これが。熱が体にこもっちまう。だから下着姿に短パンっつーラフな格好になっちまう。自然に、いつの間にか。抗いがたい。しかたねぇだろ」
「……おまえ、意外と大変なんだな」
「店、任されてるからな。小学生に運営やらせるなんて鬼だろ、おれの親」
そう言うとあおいはびくんと体を引きつらせる。その目は遠いものを眺めていた。
あいはらはばつが悪そうな表情を作った。「いや、そうだった。ごめん」
「別にいいよ。気にしないでいいから」
いやな静寂が流れた。
それを破ったのは不自然に明るい声であった。
「そ、そう言えばひさめさんとしぐれさんのあれ、見に行かねぇ? まだ時間的に余裕あるけど、早く場所を陣取りしとかねーと」
「うん。早く行かなくっちゃ!」
同様に不自然な声。みそぎはあいはらに同調するように陽気に言った。
……あいはら、ごめん。
その言葉が伝わったのかどうかは分からない。けれどもあいはらはより一層楽しげに笑い、本殿の方へと歩き出した。
みそぎとあおいもそれに倣う。
その途中、店番とか大丈夫なのかな、と思いはしたが、口にはしなかった。