第十六話
炎暑のみぎり。
ひたすらに涼が恋しくなる。
学校から帰宅したみそぎはテレビを見ていた。九歳のみそぎにとって、テレビは魔法の箱だった。中に人が入っているのでは。そう思いテレビを調査してみても、それらしい形跡はない。ではなぜなのか。それは小学校高学年になるまで解決されることのない疑問だった。
画面には教育番組が放送されていた。ちょうど昆虫の生態系に関する番組だった。
みそぎの網膜にはヒラヒラと舞う蝶々が映っていた。綺麗な翅を広げ、飛ぶ。広漠とした草原で、そよそよと飛翔していくのだった。
その姿は自由と言う単語を連想させた。
美しい。
そう思った。
と。
食われる。
蝶々が食われる。
画面の中では、両の鎌で蝶を捕らえる蟷螂の姿があった。むしゃむしゃと無遠慮に、蝶の翅や触覚をかじっていく。
食う。
食う。食う。食う。
みそぎは身を乗り出した。
「うわぁ……」
呻いた。頬は赤く上気し、目は恍惚に溺れる。握り拳を作って、生唾を呑みこんだ。
蟷螂が蝶を捕食する映像は、みそぎに多大なショックを与えた。
初めはかわいそうだと思った。
けれど。
すぐに、喉の渇きを覚えた。
ソファーから立ち上がって、その映像を凝視した。目を皿にして、穴が開くくらい眺めた。
みそぎの思いを知ってかしらずか。
蟷螂はいよいよ、その妙なる蝶の躯を三角の口で食らった。小さい目はやけに無機質だった。何の感情もたたえていない。しかし、口や鎌はせわしなく動く。その様子に陶然としている自分がいる。忘我の境。だらりとした快感。
……気がつけば応援していた。
もっと食らえ。もっと食らえ、と。
体中が熱を発していた。みそぎは徐々に高揚していった。
それは蟷螂が完全に蝶を食い終わったところで頂点に達した。
達成感に囚われた。食らってやったぞ。そう言った思いで一杯になる。
みそぎは完璧に蟷螂に感情移入していた。
と。
「お兄ちゃーん」
いいところだったのに、とみそぎは柄になく苛立つ。
それはお風呂場の方から聞こえてきた。
「回覧板、お願いしていいかな?」
あおいだった。おそらく風呂掃除をしてくれているのだろう。
その言葉でつき物が落ちたようだった。みそぎは妙な罪悪感を感じながらも、急いでテレビを消した。
「うん。分かった!」
そう言って、玄関へと向かう。
頭の中では先ほどの映像がぐるぐると巡っていた。
隣の家に回覧板を届けた後、しぐれと会った。
しぐれはTシャツにジーパンとラフな姿だった。買い物籠を携行している。大根や長ネギが籠から出ていて、中は大きく膨らんでいた。
「あら、禊じゃないか。どうしたんじゃ」
「回覧板を届けていってた」
「そうか、偉いの、禊は」
しぐれは冗談交じりにそう言って、窈窕とした笑みを浮かべた。艶のある銀の髪が風に揺れる。その姿態は儚げで可憐であった。
禊はしぐれが蝶々に似ている、と思った。この折れてしまいそうな雰囲気や振る舞いが、脆くも甘い何かを想像させる。
事実、しぐれは美しかった。その容姿もさることながら、身に纏う雰囲気、何気ない起居までもが、時雨の美しさを際立たせた。本当に蝶のようだった。
胸に打つものがあった。それは禊の内に波紋を投げかけ、妖しげに広がっていった。
「どうしたんじゃ、禊? ぼーっとして。気分が悪いのかの」
「いや、ぼく、大丈夫だよ。へーき、へーき」
みそぎは身振り手振りを交えて言った。
しぐれはふふふと、興じた。その余韻が涼風にさらわれていく。
「お買い物に行ってたの?」
「そうじゃ。氷雨が刺身を食いたいと図々しく宣ってな、そのついでに野菜やら何やらを買ったと言うわけでの」
とは言うものの、しぐれは静かに笑っていた。
「ご飯は全部しぐれさんが作ってるの?」
「無論。料理は女の仕事じゃ。うちがしなくて誰がする? ゆっとくが氷雨はできぬぞ。あいつは料理家事と、てんでダメじゃ。どうしようもないのよ」
「ぼくもぜんぜんできないや。朝ご飯も昼ごはんも夜ご飯も、あおいががんばってくれてる……」
「おいおい、気に病むな。おまえはまだ子供じゃろう。別にいいんじゃ」
「いいの?」
「ええの。おまえには時間がある。力もある。年も若い。一歩一歩努力していけばいいんじゃ」
きざじゃったかな、としぐれは恥ずかしそうに笑う。
みそぎは胸を突かれた想いだった。しぐれが蝶に似ているとか言う以前に、やはりしぐれさんはすごいと思った。
みそぎは叫びたい。大槻時雨は頭もよく、綺麗ですばらしい人だと。他人を気遣えるかっこいい人だと。
すっかり高揚してしまった。ますます気持ちの整理がつかなくなる。
今日のぼくは変だ。
そう思った。よくは分からない。けど、そう思った。
普段感じたことのない法悦。背筋を這いずるような冷気。熱にうなされたような狂喜。それは体に大蛇が巻きついているような不快感、そして名状しがたい興奮をもたらす。
可憐なものが散華していく。蝶が蟷螂に食われていく。儚く散る。命の灯火が潰える。その一瞬。
陶酔。言い尽くせない陶酔。その一瞬に感じるは、想像を絶する愉悦。愉悦。愉悦。
幼いみそぎにはそれをどう表現すればいいのか分からない。分からないが、感じる。
大切にしていたものが壊れる。
それに刹那の愛を感じる自分がいる。
暗然として露呈する想い。剥き出しになる心の軋み。無邪気なみそぎを塗りつぶす闇。漆黒。晦冥。渦を巻く暗黒。
じわりと表出する歪み。
まだ自覚できない。
「しぐれサンは……蝶々、好き?」
「なんじゃ、藪から棒に。……まぁ、好きじゃよ。蝶々は好きじゃ」
「ぼくも好き」
「ほう、そうか」
みそぎはしぐれを見た。
しぐれは笑っている。深々と笑っている。口元に手を当てて、優雅に笑っている。
と。
みそぎは見た。しぐれの綺麗な瞳を見た。
無極。茫漠。果てしない。
あまりに果てしない。
見る角度によっては妖艶な憂いを感じさせる。それがまた、しぐれの魅力を加味する。憂いを帯び、濡れた睫毛に飾られた双眸は、幽寂とした深淵を思わせる。
みそぎはさよならの言葉を入れて、しぐれと別れた。
自宅の扉を開けて、玄関口に入り、靴を脱いで初めて分かった。
みそぎの胸は冷たい熱を持って、どくどくと高鳴っていたのだ。