第十五話
簀子に腰を落ち着けて、みそぎはつばめの群れを目で追った。暮れ行く夕空を飛翔している。やがて山の方に飛んでいき、見えなくなる。
「葵は寝たか」
「寝ちゃいました」
みそぎは膝の上で寝息を立てている妹の髪を撫でた。癖のない艶やかな髪。缶蹴りに疲れたのか、昏々と寝入っていた。
かれこれ、三十分近く寝ている。いよいよ膝関節が痛い。
「幸せそうな寝顔」
みそぎは静かに笑って、あおいの髪をもう一度撫でた。自分の指があおいの清い髪をつーっと抜ける感触が心地よかった。
「おまえのそばにいると落ち着くのやもしれないな。安らかな顔をしている」
「それよりも膝の辺りがひりひりして痛いです」
「そうか」
「やっ、あおいが起きる!」
ひさめが荒々しくみそぎの頭を撫でるので、大きく揺れる。その細腕からは想像できぬ力。ぐらぐらと揺り動かされる。
膝枕をされているあおいも、異変を感じ取ったのか、小さく唸り声を上げていた。ひょっとしたら地震が起こったのか、と錯覚しているのやもしれない。それはそれでかわいい奴、とみそぎは思った。
「わはははは、それもそうだ」
剛直に笑って、手を離す。体の振動がゆっくりと止まっていった。
ひさめと言う男は長身でほっそりとした体つきをしている。しかし、その体は屈強で強壮で壮健だった。
みそぎは試しにひさめの腕を掴んでみる。
鋼のようだった。
みそぎが胸底で感嘆していると、ひさめは意地の悪い笑みを浮かべた。
ゆっくりと手を忍ばせて、みそぎの体をくすぐる。ひさめはみそぎの反応が面白かったらしく、何度も執拗にくすぐり続けた。それも、あおいを過度に刺激しないような、絶妙な匙加減で。
みそぎが必死にひさめの手から逃れようと体をよじっていると、渡殿を歩く足音がした。
「なんじゃ、男同士戯れて。気味ぃ悪いわ。氷雨もそこら辺で仕舞いにしなさい」
しぐれは苦笑交じりにそう言いながら、お盆に載った菓子を簀の上に置いた。みそぎの隣に腰を下ろす。
「葵が起きたらどうするんじゃ」
「姉様も禊と同じことを仰る。けどまぁ、それもそうやの」とひさめはみそぎをくすぐるのを止めた。
みそぎはほっと一息ついた。その後、あおいが起きてないかどうか心配になった。そーっと覗いてみる。どうやら起きていないようだった。
その様子を見たひさめは興じながらも、微笑ましげだった。穏やかに頬を緩める。そして、しぐれに一言入れて、大福をほおばった。
「禊も食え。姉様の手作り」とひさめは笑いながら、みそぎに大福を手渡した。
みそぎはぱーっと笑顔になって、大福を口に含んだ。
「うまいか」
「おいしい」
「それもそうじゃ。これは姉様が丹精こめて作ってくださった菓子じゃ。うまいにきまっとる」
ひさめが自分のことのように誇らしげに言う。事実、しぐれの大福は美味だった。
そうしている間に盆の上の大福がなくなっていく。のべつ幕なしに大福が二人の口の中に入っていった。しぐれはそれを嬉しそうに眺めていた。
と。
「わたしの分は? えぇ、もう食べちゃったの?」
あおいが泣きそうな声を上げたのは、大福が全てなくなったころであった。
「すまんの、葵。僕と禊で全部食っちまったわ」とひさめは申し訳なさそうに言うが、その表情は満足げですらあった。
あおいは己の兄の胸にすがった。「本当、お兄ちゃん?」
「ごめんね」とみそぎに言えることはその程度であった。だっておいしかったんだもん、とは言えない。
「そんなぁ……」
あおいは青菜に塩をかけたようにうな垂れた。ひょっとしたら、時たま出されるしぐれの差し入れを楽しみにしていたのかもしれない。そう思うと、みそぎはいたたまれなくなった。ぼくも食べ過ぎたかなー、とも思った。
結局、「おー、よしよし」とあおいの背中を優しく叩いて慰撫することしかできなかった。子守唄を歌うようにポンポンと調子をとる。「大丈夫だよ。こんなこともあろうかと、もう一個、とっておいたから」
みそぎはどこからともなく大福を取り出した。まるで魔法。あおいの顔も魔法がかかったように明るくなった。
「お兄ちゃん、あおいに食べさせて」
あおいはねだるように言う。わくわくと期待に胸膨らませた目を向けて。
一方のみそぎは困ったように頭をかいた。気恥ずかしさが心の隅まで周匝し、同時に胸がポカポカするような愛おしさを覚えた。
「しかたないなぁ」と観念したのか、あおいのいとけない笑みに参ったのか、「あーん」と大福を食べさせてやった。
がんぜない微笑み。あおいは喜色を浮かべ、破顔一笑した。モグモグと美味そうに咀嚼する。やがて、安らかにまぶたを閉じた。すぅすぅと寝息を立てる。
寝てしまったようだ。
自然と口角が緩む。みそぎもひさめもしぐれも、邪気のないあおいの姿に和んでしまった。
みそぎはほっと息をつく。
そうして。
こっそりと、隠しておいた二つ目の大福を取り出した。
○○○
あいはらに一発殴られて、大福を奪われた。
○○○
地平線の先には夕の日の沈む海原。
みそぎはすっかり眠り込んでしまったあおいをおぶっていた。兄の背は安心するのか、あおいは幸せそうに寝入っていた。
あいはらはだるそうにポケットに手を突っ込んで歩いていた。時折暮れなずむ空を見て、眩しそうに目を細める。
十歳にも満たない二人の少年。一人の少女をおんぶして、田んぼ道を進んでいく。ぬかるみに足を取られないよう、気をつけて。
二人の間には心地よい静寂があった。互いに気心の知れた友達である。なんだかんだと衝突こそするが、二人は紛れもなく膠漆の間柄であった。
紅花禊は、妹思いの少年。複雑な家庭環境が影響しているのだろう。必死に妹を悪童から翼蔽し、特には諛言やおべっかを用いてでも妹を守ろうとした。
一方で考えなしに軽はずみな行動をとることも多い。思慮に欠ける。
一方の相原庵は聊爾に欠けるところもあるが、確固たる信念を持った少年であった。自分の意志を貫き通す。一見簡単なように見えるそれは、その実限りなく難しい。
それに禊の妹の葵を加え、年上の氷雨と時雨を加え、五人でよく遊んだ。日の暮れるまで遊んだ。遊び場所は決まって美作神社の境内と決まっていた。理由は単純。敷地が広く、遊んだ後、たまさかに時雨がお茶菓子を作ってくれるからだった。
葵は一年前に母を失ったばかりで傷心であった。そこを乱暴者が配慮の足らぬ容喙をし、抵抗、抗弁をしなかった葵は格好の的となった。元から蒲柳の質の気があった葵は、精神的な苦痛もあいまって、大いに苦しんだ。
しかし、氷雨と時雨の介入で、葵への苛めは日に日になくなっていった。禊と相原の尽力もある。
最近では笑顔を見せるようになった。禊はそれがたまらなく嬉しい。みなに感謝しきれない。
また、葵も筆舌に尽くしがたい恩を感じていた。特に兄の禊には本当に助けてもらった。
その胸を借りて何度も泣いた。
その腕で抱きしめてもらった。
その指で涙をぬぐってくれた。
その心で自分を愛してくれた。
禊と葵は固い絆で結ばれていた。それを紐帯するものは何も血だけではない。すなわち、山よりも高く海よりも深い愛情であった。
ただ。
それが後になって歪みをこしらえるとは、当の本人といえ露にも思わなかった。