第十四話
だったら、なんで神様は、ぼくのお母さんをみごろしにしたんだろう。
常々思う。何度考えても理不尽だと思う。そして、神様なんてこの世にいないんじゃないか、とそう帰趨する。
それでも。
それでもみそぎは、今の暮らしは幸せであると確信を持って言える。お父さんやお母さんがいなくて寂しいけど、みそぎには大好きな妹と、敬愛する人々、そしてなんだかんだで仲のよい親友もいた。
もし自分が陰鬱な感情を表に晒せば、あおいは落ち込むだろう。ひょっとしたら、その原因が自分にあるものと思い込むかもしれない。それだけは避けたかった。倹しい生活も近隣の悪童から苛められるのも、決してあおいのせいじゃないし、あるいは自らのせいだとも思えない。
幼い子供は無邪気に排斥的なものである。どうせ一時の行動だろうと思うし、時が立てばいずれ止むだろう。いじめとはその程度のもので、しょせんその程度でしかない。しかし、そのときに受けた傷は生涯、みそぎやあおいを苦しめるだろう。
みそぎはあおいが苛められているところを見ると、許せない、と闘志を燃やして突っ込んでいく。
が、たいてい、負ける。多勢に無勢。結局、喧嘩にめっぽう強い朋友か、ひさめたちが緩衝に入ってきてくれる。
助かったと思うのと同時に、やり場のない怒りと情けなさを覚える。自分は何一つできない。妹を守ることすらできない。そうして年若いみそぎは自己嫌悪に陥る。
その時は無言であおいが抱きしめてくれる。助けてくれてありがとうと、涙を流してお礼を言ってくれる。十分もしたら、みそぎは再び立ち上がるのだった。
みそぎたちの生活は苦しい。一家を支えてくれる人は当然のことながら、いない。
親切な祖父母が二人を養ってくれているが、いずれ自立しなければならない。兄妹と二人だけで身すぎ世すぎしていき、これまで助けてくれた人に恩返しをしなければ。みそぎはそんなことをいつも思っていた。
口元についた水をぬぐう。
袖が湿る。
禊は手水舎の脇にある社殿に向かって、薄氷を踏むように歩いた。鼠のような抜き足。砂利を踏まないよう気をつける。ここでじゃりじゃりと鳴ってしまっては、これまでの苦労が水の泡である。だからか、砂利を踏まないよう余分に距離をとった。やや過剰で遠回りな気もするが、石橋を叩いて渡る、とも取れる。
そして。
「しぐれさん、みーつけた!」
「あらら、これはやられた」
と、しぐれと呼ばれた少女はかわいらしく舌を出した。
しぐれは社殿の裏に身を潜めていた。
雅やかな口元を涼しげにして、ひょいと立ち上がる。しぐれが少ししゃがむと、禊と目の位置がほぼ一緒になった。
「うちで何人目じゃ」
「しぐれさんで三人目!」
しぐれは少し驚いたようだった。小股の切れた笑みを浮かべて、よしよしとみそぎの頭を撫でてくれる。
「そうか、そうか。相変わらずようやる、ようやる。禊に鬼ぃ、やらしたら敵なしやわ」
「それ、ひさめさんにもいわれた!」
「む。と言うことは、氷雨のあほはとうに捕まってもうたか」
「ひさめさんはあほじゃないよ!」
そう言うと、しぐれは優しく目尻を下げた。見るものを安心させる、臈たけた笑み。みそぎも嬉しくなって、微笑み返す。すると、しぐれも花開いたように笑った。
しぐれはひさめの双子の姉である。性格はおしとやかで、大和撫子のような佳人であった。また、大槻家の血なのか、ひさめと同様に髪の毛が銀色であった。それが腰の辺りまであるからか、透徹として典雅な印象を与える。所作も品があって、洗練された美しさを感じるのだった。
「残り一人は誰じゃ」
「あいはらのバカじゃ」と口まねをする。
みそぎがそう言うと、しぐれは静かに相好を崩した。
「おうおう、庵か庵か。禊が見つけるのの鬼やったら、庵は隠れるのの鬼やな」
「ぼく、角がはえるの……?」
「はえん、はえん。これはな、比喩、と言う奴じゃ。国語の時間で習ったじゃろ」
「ひゆ?」
「いや、わからんならええんじゃ。禊はまだ年端の行かぬ子供じゃもんな」
慈愛に満ちた表情でみそぎの頭を撫でる。胸の中がすーっと温かくなって、心地よい熱が全身を包んだ。
それは母の愛に似ている。
最後に残ったのは、みそぎの幼馴染兼悪友だった。
一旦、缶のところに戻る。杉の木の下には、これまで捕まえたあおい、ひさめ、しぐれと、三人いる。目を閉じて寝ていたり、木にも垂れていたり、樹陰で涼んでいたりしていた。
空き缶はすぐ近くにある。もし、奴が奇襲してきてもすぐに対応できる。理想的な陣営。鉄壁の布陣。死角なし。
常に空き缶のそばに控えるのはずるい気がした。けど、あいつだけには負けたくない。その一心。
そよぐ樹梢が荒ぶる酷暑を慰めるように響いていた。猛烈な暑熱。涼感のある風が、汗ばむ皮膚を冷ましてくれる。
「楽にしてやる」
声。
奴の声。
枝葉の揺れる音。不自然に大きい。
奴の声の源はどこか。前か、後ろか、右か、左か。
あるいは。
「……上!」
「ご名答!」
鋭利な声ははるか上空から聞こえてきた。
瞻仰する。燃えるような日差し。目を日光でやられないよう手をかざしながら、相手の姿を探す。網膜が人影を捉える。
そいつはあろうことか、杉の木から落下してきた。初めから木に登っていたのか? いや、そんなはずは。
むささびのような俊敏さ。縦横無尽。気随気儘。相変わらず型に囚われない動きをする。
完全に背中をとられる形となったみそぎは、つかの間周章狼狽してしまった。
まずは缶を死守すべき。
空き缶の位置を確認する。
と。
「笑止!」
カァーン、と高らかな音が響く。小気味よい金属音。それはあまりにも短兵急であった。
「みんな逃げろーっ!」
したり顔の少年。その言葉を嚆矢に、蜘蛛の子を散らしたように退散するみんな。缶は目に見えないところまで転がっている。早く、空き缶を回収しないと。
「唸る黄金の右足……! 日本代表も夢じゃない……! べにばな、このままハットトリック決めてやっから覚悟しろよ!」
少年は盛大な哄笑を上げながら、一目散に逃走していった。
木登りとか反則だろ、と思いながらも、缶を拾いに行く。怒りと屈辱に震えながら、必死に缶を探すみそぎ。
「くそっ、あいはらぁーっ!」
蒼穹にまで届く怒声。再度空き缶をセットする。
そうしてみそぎは、獣のように缶蹴りに打って出たのだった。