第十三話
氷雨……空から降ってくる氷の粒のこと。あるいは、冬季に降る冷たい雨のこと。気象学で定義された用語ではない。
時雨……秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨や雪のこと。
八月。
別名を葉月といい、旧暦で言えば秋に当たる。
由来は稲の穂が張る穂張り月と言う説が有力。また、月見月と言う別名もある。
夏雲の隙間から、日の盛りの光が差し込んできた。肌をじりじりと照りつける。焼け爛れるような熱気だった。
「きゅうじゅうーはち、きゅうじゅうきゅー、ひゃーっく!」
大きな杉の木の下で、少年は目を開ける。そうして勢いよく振り返った。
杉の木陰から飛び出して、眼前の空き缶に足を乗っける。楽しそうに周囲を見渡す。
よし。
視線を少しだけ上げた。誰もいない。ザワザワ。木のさざめきだけが聞こえる。
静寂に包まれる境内。
少年は颯爽と駆け出した。
少年は軍隊の斥候のように、慎重な足運びで桜の周りを巡る。足音を漏らさず、檜皮色の幹に手をかけて、そーっと木の裏手を覗いた。
少年はしめた、と言わんばかりの顔をした。
桜の裏手には、体操座りをして隠れる少女がいた。
「あおい、見ーっけ!」
少年はあおいと呼ばれた少女を指差した。
あおいは伏せた頭を上げなかった。
白を切るつもりだな、と思ったのか、しゃがんであおいの肩をトントンと叩いた。
恐る恐る顔を上げる。
少年と目が合うと、「うぅ、また見つかっちゃったよぉ」と服の裾を握って、あおいは臍をかんだ。悔しそうに少年の頭をぽかぽかと叩く。
あおいは地べたに座り込んだまま、「なんでわたしの隠れ場所が分かったの?」とつむじを曲げて問うた。至極あっさりと見つかったものだから、無念だったのか。
「あおいはワンパターンなんだよ。缶蹴りのときは決まってここに隠れるだろー」と少年は種明かしをした。先ほどの仕返しにと、あおいの頬を引っ張ってやる。
「うー、お兄ちゃん、いたいー」
「白を切ろうとしたあおいが悪いんだ。ほら、行くよ」
どうやらこの少年はあおいと呼ばれる少女の兄らしかった。
少年はあおいを立ち上がらせた。あおいは子犬のように唸った。
少年はあおいの服についた木の葉をはたいてあげた。この子は桜の陰に限らず、とにかく木の近くに隠れる。だからかよく衣服に葉っぱがつく。
特にお尻のところは落ち葉だらけだった。
まったく、もう。
思わず苦笑いを溢す。少年はあおいにくっついていた落ち葉を落としてあげた。
あおいは大人しくそれを受け入れる。もはや、この作業に慣れているといった風であった。仲睦まじい兄妹。心やすい関係。ただ、ほのかに頬が赤いのは、乙女の恥じらいなのやもしれぬ。
兄をこき使って。
心の中で悪態をつく。それでも、そんなあおいの姿が微笑ましくもあった。
何年も前に母の愛をなくしたと言うのに。
少年にはあおいが無理をしているように思うことが時々あった。妹は気丈で優しい子だ。つらくて悲しい思いを胸にしまって、ひたすらに一人背負い込んで、笑顔を振りまける健気な妹だ。
それでも。
だからか。
あおいは少年によく甘えるようになった。母親を失う以前は兄妹で手を繋ぐなんぞ恥ずかしいと言っていたが、やはり肉親の死は感に堪えないものがあったのか。
……当然か。
あおいに催促されて手を繋ぐ。仲のよい兄と妹は本殿の表を回った。
兄妹は仲良くせなあかん。
少し前にとある人から言われたこと。
家族は広い世界にほんのわずかしかいない。世の中の大半は赤の他人で、家族と呼べる人は少ししか存在しない。
勿論、替えなんて効かない。家族とはそう言うもので、我が身を賭しても守らなければならないものなのだ。
だから。
あおいを守れるのは自分だけ。あおいは、妹は、兄である自分が守らなくちゃいけない。なぜなら、兄とはそう言うものだからだ。
お父さんもお母さんもいない。とうに死んだ。あおいがすがれるのは、もはや兄だけなのだ。
ぎゅっと握り締める。あおいの指はほっそりとしていて、このまま強く握ってしまえば、たやすく折れてしまいそうだった。
「あおい」
「なーに?」
「あおいは心配しなくていいからね。ぼくがあおいを守ってあげるから」
あおいはしばらくの間目を点にしたが、やがて、「うん」と頬を赤らめながら頷いた。
あおいを拝殿の近くにある杉の樹下に連れて行った少年は、次の目標に標準を当てていた。
小祠の設けられた摂社。妻入りの屋根の下には木の戸があり、手前には神饌が供えられている。
静かに近づいていく。眼前には巌のような巨岩。苔むした表面は幾年もの星霜を経た森厳さがあった。
相手は少年に気づいていない。木々を迂回して、そっと背後から忍び寄る。
「ひさめさん、見っけ!」
「……ぬぅ」
ひさめと呼ばれた青年は苦い顔で唸った。口を真一文字に結び、親の仇を見るように少年を睨む。その視線は鋭く、少年は怒らせてしまったのではと心中気が気でなかった。
と。
一転して、朗らかな笑みを浮かべる。ひさめはニコニコと大黒様のように笑った。
「禊はどうして人を見つけるのがこんなに上手いんじゃ。おまえが鬼だと、すぐに終わってしまうな」
鮮やかな銀髪を涼風に揺らして、みそぎと呼ばれた少年に微笑みかける。その男にも女にも見える中世的な顔立ち。ひさめの視線は涼しげで、とても同姓とは思えない妖艶さがあった。
「ほんで、僕のほかに誰か見つかったのか?」
「ひさめさんは二番目!」
その言葉で大体の状況が把握できたらしい。みそぎより二つ年上のひさめは水平にした掌に握り拳を当てる。すると、ポンとかわいい音が出た。
「なるほど。葵は見つかってしもうたか」
「開始早々に見つけた」
「おまえも小ずるい。どうせ、葵の隠れ場所を、前々から分かっていたのだろう」
ひさめは本当に勘が鋭い、と禊は思う。
それを察したのか、「勘はええんじゃ。勘だけが取り柄の男」
ひさめは十一と言う歳でありながら、その風貌は大人びていた。華奢で引き締まった体躯。髪は生来の銀で、染めたわけではないらしい。本人曰く、遺伝だそうだ。
ひさめの実家は、この美作神社の神主を勤める家系だった。
大槻家の歴史は平安時代にまで遡る。そのころの大槻家は衛士だった。
詳細は知らない。蔵の古文書曰く、どこかの武門の分家であると。
確か、名伽とか言う武家の支流であったとか。髪の色が淡い銀色なのも、本家との血の交わりに起因するようだった。事実過去にひさめは、名伽の跡継ぎと顔を合わせたことがある。それはそれは見事な白銀であったことを覚えている。
「残りは姉様とあやつか」
「五分もあれば見つかる、見つかる!」
「それはどうか。姉様はともかく、すばしっこい庵を捕まえるのは、たいそう難儀」
ひさめはくるっと方向転換した。どうやら自ら杉の木に仮設した牢に入るようだった。
後ろざまに手を振るひさめ。わずかに見える横顔は楽しそうな表情をしていた。
「はよせんと、誰かが缶を蹴ってしまうぞ」
その声にはっとなって、後ろざまにひさめが笑っているのが分かって、少し恥ずかしくなって、慌てて走り出した。