第十二話
「それで、あたしに何か用?」
気だるい口調で、入江浴衣は本から視線を上げた。
部活動の遠征が終わった次の日のことだ。
お喋りなどで倉皇とする教室。時間帯は昼休み。学園内が慌しいのも論をまたないことだった。
「ちょっと知りたいことがあるの」
「知りたいこと?」と浴衣は首を傾げた。
首を縦に動かす。「うん。少し、ね」私は数秒逡巡するも、「不知火彼方って人、知ってる?」と彼女にきいた。
それは、前にこっそり兄の携帯電話を確認したときに出た名前。
浴衣はやや呆れたような表情をした。切れ長の瞳が細くなる。
「あんた」と浴衣は間を置いた。「それを知ってどうすんの?」
口ごもる。理由なんて言えない。
彼女はその一瞬で大体の事情を察したらしい。薄くルージュの塗られた唇を隠微に歪めた。ある程度の付き合いがなければ分からない、浴衣の表情の変化。
浴衣は面白がっている。私はそう感じた。
「なるほど。また兄貴絡みか」とからかうような声。頬がかーっと熱くなるのを感じる。
「そっ、それは……!」
「別にあたしはなんとも思ってないよ。あんたが度し難いブラコンだってことは、周知のことだし」
「私はブラコンなんかじゃ」と思いのほか大きい声で反駁。周囲の人間が驚いたようにこちらに目を向ける。私は慌てて声のボリュームを下げた。「わ、私は、ブラコンなんかじゃ……。確かにお兄ちゃんのことは好きで大切な人だけど、その、そういう風なんかじゃなくって、もっと、その――家族だから! 家族愛だよ。私がお兄ちゃんを好きなのは、一重に家族であることの絆が深いからよ。なら逆に聞くけど、妹が兄のことを大切に思って何かいけないわけ?」
私はまくし立てるように言うが、浴衣は垢抜けた声で笑うだけだった。
「語るねぇ、あんた。兄貴のことになると、とたんに饒舌になる。忠告しとくけど、近親相姦とか洒落になんないからね」
洒落になってないんですけど。
「けどねぇ、まぁ、そうかもしれない。確かに家族は大切だよ。この世に生を受けて一番初めに会う他人で、一番近い他人だからね」と浴衣はアイシャドウの入れた睫を伏せた。「やっぱり、家族は大切にするに越したことはないからさ」
私は浴衣の言葉に少し救われたような気がした。
一番初めに会う他人。
一番近い他人。
家族と言うものはとどのつまり、血の繋がっているだけの他人なのだ。同じ親から生まれたと言うだけで、やはりそれだけのことなのだ。でも、社会はそれ以上踏み込むものをはげいく嫌悪する。
私だって何度も考えた。何度も彼を諦めようとした。
けれど。
やっぱりダメだった。私には兄さんしかいない。そういう結論しか出なかった。
その行き過ぎた肉欲と情動。ひょっとしたら私は、色狂いの気があるのかもしれないと思った。しかし、そう言うわけではなく、私は兄さん以外の男に性的な魅力を感じたことは一度としてなかった。むしろ嫌悪感すら湧く。兄さん以外の男に触られると、自分の純潔を汚されたように思えて、済度しがたい不快感を覚えた。
浴衣は本を閉じて、鋭利な視線を私に向けた。
「けどさ、葵。物事には限度ってものがあるわけよ」
「……限度?」
「そう、限度。あんたはちょっとばかし行き過ぎ。もう少し押さえなさいよ、しっかり自分をコントロールしなさいよ。別に兄貴に彼女ができたくらいで、そう目くじら立てることないんじゃないの?」
「……え?」
私の耳は不吉な単語を拾った(気がする)。それは精神の瓦解へと帰趨していった。
「その、しし、しっかり自分、をコントロールしなさいよ、の後が、きき、聞こ、えなかったんだ、けど」
「あんたねぇ、動揺しまくり。もう一回言ってあげようか? あんたの愛しい愛しい兄貴に、彼女ができちゃったってことだよ」
そう言って、浴衣は生徒手帳から一枚の写真を取り出した。
その写真には、綺麗な女の人が映っていた。髪の毛の色は鮮やかな白色で、対照的にその唇は艶かしい赤色をしている……。
「うわあぁぁぁぁぁぁんっ! そそそそ、そんな、こ、とがあるは、ずが、ないっ! おお、お兄ちゃんに限って、そそそそそんなこと、が……!」
私は頭を抱えて、大声でわめいた。脳がその言葉を理解するのを拒んでいる。それでも、その言葉は呪詛のように私を侵していった。
「ややややややだぁぁぁぁぁっ! そ、そんなの、いいいいいやだよぉぉぉぉぉっ! なななんで私じゃないの? どうして私、を選んでくれ、ないのっ? どうして、どうして……?」
目の前が真っ黒になる。私は場所と時間を無視して、盛大に泣き叫んだ。周りに知り合いや友人がいることも忘れ、ただその事実に慟哭する。私は深い悲しみと怒りに身を震わせた。
何事かと周囲の視線が集まる。構うものか。そんなものどうでもいい。
それよりも兄さんだ。どうして兄さんは“彼女”なんて言う、不毛で無意味でくだらない存在を作ったのだろう? そしてどうして作ろうとしたのだろう? それこそが解決すべき問題なんだ!
せっかく近くには私と言うイケてる女がいるって言うのに、どうして私に手を出そうとしないのだろう? いつでも大歓迎なのに。兄さんのためだったら何でもしてあげれるのに。私の唇も胸も髪も、何でも捧げられるのに。兄さんのこと好きで好きでたまらないのに……。
なのに。
なぜ。
「おお、落ち着きなよ葵」
「落ち着けるかぁぁああ!」
一蹴。うぅと嗚咽を漏らしながら、必死に頭と心の整理をしようとする。けど、私の心は爆発寸前で、すでに導火線には火がついていた。
滂沱の涙を流して、袖を絞る私。私はあまりにも悲しくて、虚しくて、どうしようもなかった。
表裏をなして、どす黒い怒気が胸襟に広がる。悪意にも憎悪にも似た、獰猛で荒々しい感情が。
「おお、お兄ちゃんに、かかか彼女……っ! そんなの認めない! お兄ちゃんは私のものなんだからぁあっ! 絶対に誰にも渡さないぃいいっ! お兄ちゃんに愛されていいのは私だけなんだからぁぁああっ!」
「あ、葵ってば! その発言はまずいって! みんな見てるから! あんたのぶっ飛んだ言動に引いてるから!」
「うぅぅぅぅうっ! 私、私」
私は涙が枯れ果てるまで泣いた。体裁なんか一切合財気にせず、ただ泣き喚くも、厳然といてある残酷な現実――。
兄さん。
私の愛しい人。
誰よりも大切で、何者にも代えがたい人。
私が一番好きで、もっとも愛している人。
なのに。
これだけ想ってるのに。
うううううわわわわぁぁぁぁぁぁっ!
私はがばっと起き上がった。涙を手の甲でぬぐい、周囲に視線を巡らす。周りの人間はみな、呆然とした表情をしていた。
机の上に置かれた写真。それを親の仇のように荒っぽく掴み、懐に入れる。私は集まる人ごみを駆け抜け、廊下に出た。ものすごいスピードで階段を駆け上がる。
目的地は。
当然。
二年二組。
「おにいちゃぁぁぁあああんっ!」
私は教室の扉を開けて、開口一番大音声を発した。
一つ上の先輩たちは、唖然とした面を向ける。いきなり下級生が怒鳴り込んできたのだから当然だろう。けれど、そんなのに構ってる暇など私にはない。
そんなことよりもまず、兄さんだ。兄さんに会って真相を確かめないと。もう、私、死んじゃうよ……。
兄さんは窓際の一番後ろの席にいた。前の席にはパンを片手に相原さんが陣取っている。
兄さんを見つけた私は、一直線に兄さんの元へと向かった。先輩たちは私の迫力に押されたのか、自然と兄さんまでの間に一本の道ができていた。
「お兄ちゃんっ!」
劈くような金切り声を上げる。私は兄さんの机を思いっきり叩いた。
一方の兄さんはまったく状況が飲み込めていないようだった。私が至情込めて作った魚の切り身が、掴んでいた箸から落ちた。
「あっ、葵、サン?」
私は有無を言わせず、兄さんの胸倉を掴んだ。火事場の馬鹿力と言う奴なのか、女の私でも腕力だけで兄を立ち上がらせることができた。
殺意を込めた目で兄さんを睨みつける。多分、今の私は涙目だろう。それでも、兄に尖った視線をぶつけた。兄さんは何がどうなっているのかよく分からないようだった。
兄さんの口は何かの言葉を紡ごうと動く。
私の“食欲”を誘う唇の蠕動。
もしかしたら写真の女は、兄のとろけるように甘い唇をすでに知っているのかもしれない。
この柔らかい肌も。
この滑らかな髪も。
あの女は。
あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!
耐えられない! そんなこと信じたくない!
そんなことないよね? そんなわけないよね?
私は兄さんの体を上下にゆすった。揺れる兄さんの頭。私は憤怒と悲愴のあまり、口の中が粘ついて声が出なかった。
と。
兄さんの頭ががくっと下がる。兄さんは熱っぽい目を私に向けた。けれど、その目は私を見てはいなかった。麻薬を摂取したかのように、焦点が合っていない。
嫌な予感に駆られた。
私の脳裏には、低血圧と言う文字がさーっとかすめていった。
胸倉を離して、兄さんの額に手を当てる。
……ひどい熱。
兄さんはそのまま、床に崩れ落ちた