第十一話
大量の水に沈む体。ずぶずぶと、浴槽に埋まっていく。それは底なし沼に嵌っていくような錯覚をもたらした。
目に見えない鎖が私を束縛しているようで、嫌な気持ちになる。烈々と湧き上がる感情。悪意と好意を源泉にして、叶うことのない恋慕を膨張させる。ただ、一気に肥大化した想いは、現実を直視したことで燠のように燃え尽きた。
幸か不幸か、私は紅花家の長女として呱々の声を上げた。一つ上の兄がいて、両親はともに不在。典型的な孤児。生活がある程度安定しているだけで、やはり親の愛情を欠如させて育ったことに変わりはない。
だから、兄に愛を求めたのか。
分からない。
今となっては。
その原因も、理由も、意図も、分からない。生物の枠から離反した欲求と愛憎。何度も考察や考証を繰り返す。
結果。
残ったものは、狂おしいほどの熱と、病のような執着だった。それは私の心の中で、傲然と屹立している。いついかなる時でも、忘れることも逃れることもできない感情。
水をすくう。湯気の立つ温水。指の隙間から漏れていく。
反面、あふれ出る。楔で打ちつけ、釘で固定し、決して外に漏れないよう蓋をしておいたのに。それでも鉄格子の檻を叩き、背徳的な愛を持って、私を支配しようとする。私の中に巣食う獣は、ただ一途に純粋に、あの人を求めている。
……けれど。
頤の辺りを水面につける。私は入水するように、体を浴槽の中に埋没させていった。
先述のとおり、兄の交友関係は狭い。過去に遡及してみても、兄はずっと私といてくれた。
考えてみれば、女友達を紹介されたことはない。加えて、それらしい人を見たこともない。兄の一日スケジュールを日記につけている私の知る限り、そんな人はいなかった。
ただ。
そういうわけにもいかなくなった気がする。
私は煩悶のため息をついて、浴槽から出た。
水滴のついた鏡には私が映っていた。
なるべく艶かしい仕草で、ふとももを指でなぞる。舌をチロチロと小出しにして、誘うような目つきを心がける。私は鏡の中にいる自分を誘惑した。
指はだんだんと秘所へと近づいていって、足の付け根の辺りで止まる。爾後、私は疲れきった吐息を吐いた。
「……私ってかわいいのかな」
思わず呟く。私は自らの容姿に対して苦手意識のようなものを持っていた。
周囲の人間は、かわいいと褒めてくれる。葵を好きにならない男なんていないよ、と私の友達なんかは言う。
実際、いる。
実際いるから、こんなにも苦労している。それも私に一番近い人なのに。
再度、青色吐息を吐き出す。あの人は、私の裸を見てもどうにも思わないのかな。
前に決意してバスタオル姿で行ってみたけど、無反応だった。露出した上腿に目を向けるのでもなく、しどけなくさらした肩に目を奪われるでもなく、いたって平常心を保っていた。ちょっと、少し、わずかに、いや、ものすごく、ショックだった。結構落ち込む。同時に、それもそうかと思う。血縁関係にある異性に性衝動を覚える人間は皆無。そういう風にできていない。縁続きの相手に色欲を抱くことはない。
全身をバスタオルで拭きながら、思う。
……浅ましい。
あまりに浅ましい。
この想い、あまりに浅ましい。
根本から履き違えた感情を、私はどう処理すればいいのだろう? この劣情を手なずけることなんてできるのだろう?
私はこの無限地獄の中で苦しみ続けるのだろうか。
夜。
窓から眠った町が見える。亭々とそびえる木の柱。夜の帳の下りた草薙市は、深々と静まり返っていた。
「……お兄ちゃん」
眼下には蒲団にくるまる兄がいた。寝息を立てている。
きっと、楽しい夢を見てる。
それもそうだと納得。兄は起きない。そういう風にしてある。今夜の兄さんは、朝六時まで起きることはない。
いつ始めたのか分からない遊戯。
幾度となくやめようと思った。こんなことをしてもいたずらに虚しくなるだけだと、何度も後悔する。
けれど。
一旦始めてしまったら、もう後には引けなかった。やめることができなくなっていた。
私の中にいる獣は、この禁じられた遊びを辞することを許しはしなかった。
冴え冴えと照る月明かり。黒いシルエットが浮かび上がる。それは欲心が充溢した私の影だった。
燻っていた欲望。大きな口を開ける。肉欲の奈落を内包した獣が、荒々しい咆哮を上げた。
小さく呻く。兄は「うぅ」と唸った。
私はゆっくりと近づく。
ベットの上。
空気感染する兄の体の熱。私はなぶるように舌なめずりをして、濁った目で就寝する兄を見た。
そして。
「ん」
私は兄さんの唇に自分の唇を合わせた。
心の中で何回も謝る。ごめんね、ごめんねと、どうしようもない懺悔の言葉を胸底で吐いた。
兄さんとこういう事がしたくて。
兄さんと体を交わしたくて。
私はそういう生き物で、汚れていて、穢れていて、間違っていて、気味の悪い生き物だった。
こう言うことでしか、愛情を表現できない。行き過ぎた愛情を、こうやって消化していくんだ。
ぐちゅぐちゅと口の中をかき回す。私の舌が兄の唾液を掬い取るように蠢き、絡めとっていく。
思う。
壊したい。
兄の全てをぶっ壊して、私の色に染め上げて、私の汚らわしい情欲をひたすらに兄に向けたい。
ああ、私は。
私は。
ほかの女と一緒にいるなずっと私だけを考えろ私の幸せを一番に考えてくれるんじゃなかったの私のために必死になって誰よりも私の幸せを大切にしろ私はあなたのただ一人の家族で誰よりも大切にすべきなのになんで私以外の女のメールアドレスが携帯に入ってるんだよ私だけを愛して私とだけ一緒にいて私との生活だけに生きがいを感じればいいんだよ私以外の生きがいなんてあなたにはいらないそんなことどうでもいい私を悲しませるな嘆かせるな私以外の人間と関わるな私以外の全ての関係性を断ち切って壊してそんなくだらない関係なかったことにして私と幸せな人生を送っていけばいいのそれが家族ってもんでしょ家族はちゃんとほかの家族の面倒見ないとダメなのそれともお兄ちゃんは私のこと嫌いなの見たくもないのどうでもいいのいやそんなわけないお兄ちゃんは私のことが大好きで私だけがいればいいって言ってくれたよねもしかしてそれ嘘なの嘘なわけないよね本当だよね私もそうだよ私はおにいちゃんだけいればそれで幸せだからおにいちゃんとチューしたり抱き合ったり出来たら私最高だからそれが一番の幸せだからおにいちゃんもそれで幸せだよね私と一緒にいて幸せだよねそれが正しい家族の在り方だよね家族ってのは何よりもまず血のつながりを大切にするよね私をどんなことがあっても大切にしてくれるんだよねいや大切にしろ私以外のことで幸せを感じるなそんなものはまやかしだ嘘だ嘘だ嘘だそんなのに惑わされたらダメおにいちゃんは私が幸せにしてあげるから一生尽くしてあげるから一生愛するから裏切ったりしないからそんなこと絶対しないから私の愛を受けとめてよ私の唇を受け入れてよ私を好きだって言ってよお兄ちゃん。
○○○
東の空から太陽が昇る。
清々しい日の出。
反対に、私の気分は最悪だった。
眠れなかった、と言うわけではない。ただ、自分の薄気味悪さに嫌気がさした
私は行きたくもない遠征のために朝早くから起床して、そして兄さんのためのお弁当を作っていた。
本命は後者。前者は単に兄さんが部活に入ったら、と薦めてくれたから。どうやら兄さんは私に罪悪感のようなものを抱いているらしい。だから、できることなら部活くらい参加させてあげたいと、そう思ったのだろうか。
ひょっとしたら、新聞配達をする理由は、ここにあるのかも。兄さんは自らのアルバイトの収入を私の部活費に充てるために、アルバイトを始めたのか。
兄さんがアルバイトに着手した時期と、私がバスケ部に入部した時期はほぼ一緒。多分、そうなんだろうと思う。
優しい兄さん、と陶酔するのと同時に、余計なお世話、と思わなくもない。
兄さんが部活に入れなんていわなければ、兄さんと一緒に過ごせる時間はかなり増えていたと思う。それは明白。
しかし。
かと言って、兄さんラブの私が兄さんの申し出を断れるはずもない。それに兄さんはたまにバスケ部の練習に顔を出してくれる。そこで活躍すると、普段はしてくれない頭なでなでをしてくれるから、なきにしもあらず。私は単純な人なので、兄さんが自主的に私に触ってくれると、とても嬉しくて幸せな気持ちになる。ここ以外に兄さんが自主的にボディタッチしてくれることは稀だから、悪くない話。むしろ、それが一つの生きがい。
丹精込めて野菜に包丁を通す。寸分の狂いなく、デコボコのない断面図が表れる。玉ねぎは包丁を扱い方が命。切ると言うより滑らせるようにするのがコツだ。
切った玉ねぎをフライパンに投入する。私は冷蔵庫からキャベツを取り出した。キャベツの葉に粘っこい唾液が残るようなキスをして、まな板の上に乗せる。そうして包丁で加工していった。
何気なく階段の方に目を向けた。
すると。
兄さんがいた。
兄は寝癖のついた頭をかきながら、気だるそうに階段を下っていた。少し頬が赤い。どうやら兄さんは微熱気味らしく、昨日体温計で計ったら、微妙に熱があったことを思い出す。
兄はキッチンに立つ私を見て、はっとしたような表情を作った。苦笑いを浮かべる。「早いね、葵。僕、今の自分の有り様が恥ずかしいよ。その反面、葵は偉いね。面倒だろうに僕の分までお弁当を作ってくれて……」
「いいの、いいの。これが私の仕事だから。お兄ちゃんは全然気にしなくていいんだからねっ!」と元気付けるつもりで言う。
「……そう」とわずかに顔を緩ませる。「家事洗濯食事。何でもできる妹を持てて、兄さん幸せだよ」
「……あっ、うん。ありがと」
「考えたら、おまえ、できないことがないよな。本当に家事洗濯食事、何でもござれ、か。おまえ、苦手なこととかある?」
恋愛の仕方、とは言わずに、「私、音痴だよ」とそれを言うにとどめる。
「……どうやら音楽全般が苦手なのは、紅花家の血筋みたいだね。僕も全然歌えないよ」
兄は冷蔵庫を開けて、牛乳をコップに注いだ。「飲む?」
「ちょーだい」
「りょーかい」
二人分のコップを取り出して、牛乳パックを掴む。注がれる乳色の液体。
一旦調理の手を止めて、兄さんからコップを受け取った。喉もとを浸透する甘い口触り。
兄さんも同様に、コップに口をつけて牛乳を飲んでいた。
口の中を通過する白い液体。盛り上がる喉。液体を飲料するときに聞こえるあの有機的な音。
流体が兄さんの中を嚥下していく。
知らぬ間に伸びる手。私は飲み終えていないコップをそこら辺に置いた。夢遊病者のように思考がまどろむ。
唇から漏れる儚い声。それは私の口から発せられて、淡く溶けた。
同時に動く私の体。
触れたい。
兄さんの体に触れたい……。
自身の自我とは無関係に動く。何かを期待するかのように、私の腕がだんだんと兄さんに近づいていった。
気づかない。後ろを向いている兄さんは、私の手に気づかない。
私の手。
「……あっ」
その手は兄さんを掴むことなく、空を掴んだ。
兄さんはのんきに伸びをして、リビングの方に消えていた。
徒花。実を結ばない。それはさながら、覚めることのない悪夢のよう。
湧き出る罪悪感。洗い清めることのできない不浄。
己の罪科、その深さに諦めのようなものを感じる。
私ってダメな人間なんだ。
いけない子なんだ……。
それでも未練がましく兄さんの姿を追う両の瞳。同時に喉の渇きを覚える。さっき牛乳を飲んだばかりなのに……。
「そういえば葵」
「はっ、はいっ!」
私のほうに顔を向けた兄は、不思議そうな表情をした。「今日、何時くらいに帰ってこれるの?」
「はっ、八時くらい……」
「そっか」
私は気を取り直すように、「兄さんは学校に行くの? 昨日熱があったよね?」と尋ねた。
「あれくらいの熱なら大丈夫だろう。とりあえず学校には行く」と兄さんは笑う。「気分が悪くなったら、保健室に駆け込むから。僕のことは心配しなくていい」
「お兄ちゃんは低血圧なんだから、きつくなったら保健室に直行なんだからね」
「……おまえは僕の母親かよ。言われなくともそうするよ」と兄はむくれた。
兄さんのすねたような言動にはぁはぁしかけた私は、猛烈に死にたくなった。