第一話
禊……神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること。仏教では主に水垢離と呼ばれる。
武者絵のぼりが飾られる五月はとっくに過ぎていて、いつの間にか気の滅入るような梅雨が終わっていた。
七月。
別名を文月と言い、旧暦で言えば秋に当たる。
夕刻。
西日に照らされた室内。淡いオレンジ色が窓ガラスに透けて、そこから鳥のさえずりが聞こえてくる。
「お兄ちゃんはお夕飯、酢豚でいいかな?」
お盆を持った葵が、テーブルの前に来る。お盆の上には雫で濡れた麦茶が乗せられていた。葵は慣れた手つきで茶の入ったコップを配膳する。
「いいと思うよ、酢豚」と返答して、「ありがとね」と礼を言い、テーブルに置かれた茶を飲んだ。清涼としたものが喉元を過ぎていく。
「お兄ちゃん、酢豚好きだもんね」と嬉しそうに笑って、自分の分の麦茶を飲んだ。そのまま僕の向かい側のソファーに腰を下ろす。その拍子にさらさらと、セミロングの髪が揺れた。
「酢豚はいいよ。野菜も肉も入ってて、健康にもいい。何より、おいしいじゃないか」
「それはお兄ちゃんの好みだよね」と葵はそんなことを言う。「まぁ、私も好きだけど、酢豚」
「後、語呂もいい」
「お買い物行ってくるから」
「行ってらっしゃい」
「台所のおやつはお夕飯が終わった後に食べるんだからね」
「食べないよ。意地汚い」
「けど、お兄ちゃん、昨日、食べてたじゃん」
「あれは不可抗力だった」
「お兄ちゃんはいいよね。いっぱいおやつ食べても太らないし」
「それはおまえも一緒だと思うけどね」
「そんなことないよー。私にとっては本当に死活問題なんだからね、それ」
葵はお腹に手を当て、思い悩むような表情をした。そのままリビングを抜けていく。どうやら話題に体重の話が出たからか、そちらの方を気にしているらしい。けど少なくとも僕の目から見れば、葵は痩せているほうだ。それも身長が百六十センチと、女の子にしてみれば長身な方だから、スレンダーに見える。今のままでも十分魅力的だと思うんだけど。
葵が出してくれた麦茶を飲み干した僕は、だらりとソファーでへたれた。へたれることが好きな僕は、いつもこうしている。そして、決まって葵に小言を言われる。
塀の向こうから、赤々と燃える夕空が見える。
横目で葵が帰ってくるのが分かった。
ソファーに座る。
こうやって一日が終わっていくんだなぁと思う。
○○○
まだ自己紹介がまだだったね。僕の名前は紅花禊。自宅から一キロくらい離れた公立高校に通ってる。歳は十六で、高校二年生。一つ下の妹がいる。両親の方は、十年前に父親が交通事故で他界。母親は僕が八歳の頃に行方不明に遭ってる。以後、親の遺産と生活補助を受けて、僕と妹だけの二人暮し。一応祖父母の了解を貰っているので、学校側もこれを公認している。また、家計が苦しいときには祖父母がある程度工面してくれるので、衣食住に不自由しないくらいには、生活は豊かだ。
とまあ、経歴や来歴は非凡ではあるけど、風体や身なりにこれと言って特筆すべき点はない。父譲りの細長い目と、母譲りの小さい鼻。よく顔が小さいと言われるけど、身長は結構高い。百七十センチ前後と言ったところ。痩せぎすで、子供のころは、赤いコートを愛用していたからか、周りにニンジンと呼ばれていた気もする。それと、髪の毛を銀に染めている。
○○○
葵は料理が上手い。
それは一重に、紅花家の家庭事情が影響している。葵は我が家の家事洗濯の一切を請け負ってくれている。その中には勿論、調理も含まれていて、僕の分の食事まで作ってくれる。ありがたい話だ。
一方の僕はアルバイトと言う形で、紅花家に貢献している(つもり)。新聞配達と言う簡単な仕事。それのおかげで祖父母の不要な扶養を受けずにすんでいるとも言える。妹もある程度は感謝して――いるのかどうかは分からないけど、まぁ生活の足しくらいにはなってるんじゃないかな、くらいには思う。
それでも。
葵に日々の雑多な仕事を葵に押し付けていることに変わりはない。「僕がするよ」と言うと、「私がやるから、お兄ちゃんは座ってて」などと制せられる。及び腰になる。そして、その状態をずるずると引きずっている。
「お兄ちゃんは今のままでいいんだよ。ずっと、ずっと、私が養ってあげるから」
そんなことを夕飯で滔々と垂れ流していた僕に向けて、妹は言った。
目の前には酢豚を含む手料理の数々。香ばしい匂いが食卓を包みこむ。
妹は水晶玉のように透明な目で僕を見た。飯を食った後だからなのか、喉が隆起している。その生物的な動き。
「お兄ちゃんはここにいてくれるだけでいいんだから。私はそれで満足。お兄ちゃんもそれで満足。お兄ちゃんも今の生活に不満はないよね? だったらそれでいいと私は思うんだ」
葵の持っていた箸が酢豚の肉に突き刺さる。肉の繊維の切れる音がして、二つ三つと引き千切れられた。
「ていうか、お兄ちゃんは今の生活に責任感じすぎ。今も昔もこんな感じだったよ。私がご飯作って、お兄ちゃんが新聞配って、それで一日が終るって感じだったじゃん。だから、お兄ちゃんは今のままでいいの」葵はにっこりと花開いたように笑って、「ほら、箸が進んでないよ」とご飯を食べるよう促した。
変な違和感を覚えながらも、「そうだね」と頷いて食べることに専念した。
テーブルに向かい合う、僕と葵。四つある椅子のうち二つは僕たちが使っていて、残りの二つは空席。
「そういえば葵」と声をかける。「部活のほうは、もうそろそろ試合なんじゃないっけ?」
「うん。一週間後に遠征するんだって」
「どこの方に?」
「確か隣町の商業高校だったと思う」と顎に人差し指を当てる葵。その後、期待したような上目遣いを向けた。「もしかして……その、見に来てくれるの?」
僕は難しい顔をした。「どうだろう。朝夕の新聞配達がかぶってなければいいけど」
葵はしょぼくれた口調で、「ごめん。無理言って」と低い声で言った。
なんだか悪いことをしたような気になってしまった僕は、「そんなことないよ」とすかさずフォローを入れた。「葵は葵で部活、がんばってるんだなって思って、お兄ちゃんは誇らしいなと、そういうこと。しっかりダンクシュート、決めてきてよ」
「……私、ポイントガードなんだけど」
葵は困ったような嬉しいような表情をして、キャベツを口に含んだ。
○○○
「そこでオレは言ってやったんだよ。パンがなけりゃ、ケーキを食えばいいってな」
そんなことを言って、相原庵は無邪気な目で僕に同意を求めた。
草薙村。
公立霧島高校。
二年二組の教室。
僕は机に頬杖をついたまま、窓の外の風景に目を向けていた。
僕の前の椅子を勝手に借用していた相原は、僕の憂鬱具合を見て呆れるような表情をした。「おまえ、何たそがれてんだよ。たそがれるにはまだ早すぎるだろ」
「相原。たそがれってのはあくまで夕方と言う字義であって、そういう悩むとか煩悶するとか言う意味はないぞ」
「……ったく、理屈っぽい奴だよな、おまえ。理屈だぜ、理屈……。理に屈するって書いて理屈って言うんだ……おまえは理に屈している……」
目をすがめて相原を眺める。
奴はぶつぶつと奇妙なことをつぶやいている。
次いで、相原は飄々と笑いながら、手の甲にあごを乗っけた。「おまえ、テストどうだった?」と相原が尋ねる。テストと言うのは、つい最近行われた定期考査のことだろう。
言おうかどうか迷い、結局、「普通だったよ」と当たり障りのない返答をした。事実、今回のテストは平素変わりなく終了した。特別に悪い点数もなければ、良い点数もない。平均点より少し上ってくらい。
「そんなこと言ってもよぉー、オレは分かってるんだぜぇー。オレはよぉ、おまえの国語の成績だけには絶対勝てねーって思ってんだよ」
「だろうね。おまえ、極端なまでに文系ができないからな」とふっと息を吐く。「絶望的に」
その分、相原は絶望的なまでに理系がいい。特に数学は平常、学年トップ。
この男は髪を茶色に染めている。無軌道や無秩序を好む。それでいて、妙なことに造詣が深い。ジャングルにおける狩りの行い方であるとか、日本人の原初はシュメール人であるとか、そんな知る必要のないことばかり知っている。
これほど奇妙という言葉が似合う男はまれだが、いざとなれば頼りになる男だ。ふざけた言動のわりに、頭も切れる。だからなのか、なんだかんだでみなに一目置かれている。
そんな男だからか、観察力も鋭い。
「今日のおまえ、なんだか様子が変だぞ」とさらりと核心を突く。「熱でも出たか。あんまり葵チャンに迷惑かけるようなこと、するなよ」と加えて、情にも厚い。
「そんなに変か?」
「変」
「なるほど」
「紅花は打たれ強いから大丈夫だろ」と意味不明なことを口にして、「前からそうだ。おまえは喧嘩になると妙に打たれ強かったからな。特に後ろに葵ちゃんがいるときはそれが顕著だった」と癖なのか、寄り目を作る。「氷雨さんもそう言ってただろうよぉー? おまえは守るものがいるととたんに強くなるって」
「やめろよ。こそばゆいから」僕は面映くなって、口をへの字に曲げた。
「いやよぉ、お前ってそう言うところあるだろ? 何かを背負うと強くなるなんていいじゃないか、正義のヒーローっぽくてよぉー。オレは善が悪をフルボッコにするって言う勧善懲悪は大嫌いだけどよぉ、きちんと自分の正義持ってる奴はカッコいいと思うんだよ」
「ふーん。そっか」と僕は頷く。「それで、おまえはどうなんだ?」
相原は困ったような顔をした。「さぁな。オレはまぁ、自分なりの信念って奴は持ってるつもりだ。それでも……己の信念曲げて、自分の信じてたもん裏切って、それで何かを得るって場合も結構ある。だろ? 結局のところ、正義とか信念なんてものは立っているポジションで姿形を変えるもんなんだよ」
「違わないだろうね」と右の腕をさする。「けどまぁ、僕は葵をちゃんと守っていければそれでいいかな」
その言葉に頬を歪ませた相原は、おもむろに椅子から立ち上がった。「いいじゃないか。それがお前なりの信念って言うなら、それを堅持すればいい……。意思を持つ……これはいいことだぜ」
相原は皮肉るような笑みを浮かべて、自分の席に戻った。
確か次の授業は理科だった気がする。
僕は生物を取っているので、生物の教科書を机から出す。
「んじゃな」と相原は物理の教科書を持って、教室を跡にする。黒板には、「物理は物理室で、生物は二組の教室で行います」と書かれていた。
僕は机に体を突っ伏した。そして、相原が気にかけていた何かを、誰にも見えないように見る。
開かれた携帯電話。見知らぬ人から送信されたメールには、「放課後、屋上で待ってます」と言ったものが残されていた。