其ノ始
「おかえり」
家に帰ると誰かが家の中で待っていた。
その四文字の言葉に迎えられる日は、幼少期以来だった。
その四文字の言葉に迎えられる日はもう来ないと、思っていた。
来る日があるとしても平凡に社会人になって平凡に暮らして平凡に好きな人が出来て平凡に交際して平凡に同棲でもしない限りないと思っていた。
だから高校生活一年目にして恋人もいない一人暮らしの僕が家に帰ると誰かがその四文字の言葉と共に家に待っているわけがないのだ。
無表情で、申し訳程度に小さく手を振ってサングラスをかけたまま居間からは出ようとせずに僕と目が合うや居間をうろつき回る女性。
僕は冷静に靴をゆっくりと脱いで、黒く光沢を宿す紳士靴の隣に揃える。
「一人暮らしというものは興味深い。お前という人間がこの空間を見るだけで理解できる」
その女性は食卓や台所、それに居間の見回して最後に冷蔵庫を開ける。
やりたい放題だ、ここに警察がいたら僕は躊躇無く突き出していただろう。
「洗い物が溜まっている、少しではあるが少しだからこそ汚れのこびりつき具合からここ数日忙しい、若しくは面倒だと思うような心情が続いている様子が窺えた。合っている?」
答える気になれず、僕は無視して棒立ち。
着替えでもしようかな……。
「洗濯物も溜まっていたよ、洗って干しておいた。衣服には少々以前よりもこだわりを感じられたが、異性と行動を共にする機会が増えたのかな? そうだったら私は嬉しい」
着替えを終えて、僕は座布団に座って、長考の後にテレビをつける。
何かいい番組はないものかと、現状をなるべく忘却させてくれるほどに刺激的な番組を僕は今現在求めている。
「冷蔵庫の中を失礼ながら覗かせてもらった、あとゴミ箱の中もね。偏った食生活を送っていなくて安心したが、もう少し自分へのご褒美としてジュースやアイスなどを購入するべきなんじゃないかな」
テーブルにコップが二つ置かれ、注がれたのは橙色の液体。
柑橘系の爽やかな香りからオレンジジュースのようだ。
その香りが、僕の中に埋まっていた記憶を掘り起こさせた。
この人はオレンジジュースが好きだったな。
僕は好きでも嫌いでもなく、あったら飲むくらいだったけど冷蔵庫を開けると毎回オレンジジュースがあるのだから飲んでしまう。
それをこの人は僕もオレンジジュースが大好きなのだと勘違いして、何かとこれを買ってきて注いでくる。
飲みたい、飲みたくないっていう僕の意思がどちらかも確認せずに。
僕がオレンジジュースを好きだから、あったらいつでも飲みたいのだろうと思っているから。
テーブル越しとはいえ僕をじっと直視して、様子を窺ってこられるのでテレビも集中して見られない。
横から感じるこの視線に乗った威圧感、のびのびとできる時間なんだから正直なところここから出て行って欲しい。
「室内の掃除具合はほどほど、か。かすかに香水の香りがしたがお前のでは無いな。女性が好む香水をつけるはずがなく今もお前の体からは香水の香りはしない、つまりこの部屋に女性が入室した、それもここ最近」
だから何だというのだ。
僕はテレビを消して、オレンジジュースを口に含んだ。
「まだ高校生だろう? 早すぎやしないかな、部屋に女性を入れるなんて」
僕はじっと睨みつける。
「成長するにあたって異性との付き合いは仕方ないものではあるが、時期もまた重要だと私は思うのだよ。お前はどう思う?」
どうせ。
どうせこの人は、僕の言葉を待たずに続けて言う。
「一人暮らしという環境に加えて高校生活が始まったとあれば、しばらくこの一人暮らしと高校生活がほどよい交わりを得て難なく生活できるようになるまでは、避けるべきだと思うね」
台所を先ず指差した。
「洗い物は溜め込まない」
次に干し場。
「洗濯物も溜め込まない」
そして冷蔵庫。
「食えないものは溜め込まない」
最後に、
「性欲もまた、溜め込まない」
僕のどこを指差してるんですかねぇ……。
「私はそう思うね」
もう我慢ならない。
「さっきから何なんですか!」
「何が?」
ゆっくりと首を傾げられた。
何が? じゃないほ本当にさ。
「家に帰ったらいきなりいるわ、僕を探るような口調で観察した事を喋ってくるわ、じっと見てくるわで落ち着かないんですよ! 先ずどうしているんですか!」
「どうしている、か。その質問はとても深い、私の存在はどうしてここに在って、お前とこうして言葉を交わす事が出来るのか――」
「根本的な話とかじゃなくてですねえ! 今更になってどうして僕を訪ねて僕の部屋にいるのかを聞いてるんです! 何しに来たんですか! てか鍵は!?」
「お前が今どう過ごしているのか気になったのよ、母として当然の心配だと、私は思うのだよ。あとこのアパートの大家さんに事情を説明したら鍵を開けてくれた」
大家さん……どうして鍵を開けちゃったんですかね、警戒心を持って僕に連絡の一つはくれてもいいんじゃ?
「……元母でしょ。華奈枝さん」
そう、この人は僕の“元”母親だ。
僕が幼い頃に両親は亡くなっている、その後に引き取ってくれたのがこの人と……夏雄さんの榊原夫妻。
母さんの遠い親戚にあたり、両親が亡くなって引き取り手に困っており施設を検討していたところ名乗りだして引き受けてくれたと聞いている。
子供に恵まれておらず、子供が欲しかったのが理由ではあるがそれよりも、そのほかに、それ以上の理由があったからこそ、僕達は家族という関係に亀裂が入り、破綻してしまった。
「お前と、社会にとってはそうだ。しかしね、私は今でもお前を息子だと思っている。たとえ法的にはもう赤の他人だが、私とお前の関係はいつでも気持ちの問題ではないかな」
「血は繋がっていなくても、とかそういう話を持ち出さないでくださいね」
「お前は頭が良い。私が次に何を言おうとしていたのかを察してくれるのだから。だがあえて言おう、血は繋がっていなくても、家族というのは気持ちの問題で構築できる、私はそう思うのだよ」
「貴方の考え方はいいです、押しつけもいらないです」
「押しつけてなどいない、私がそう思うだけで、お前がどう思おうと私にはどうする事も出来ない。私には、お前の心を動かせる力も無い、だからお前には私の考え方や気持ちを、知ってほしいだけなのだよ」
この淡々とした口調がずっと苦手だった。
母親としての愛情はある、のだろうが僕は残念ながらそれをあまり感じられずにいた幼少期。
あの頃は何もかもが疑心暗鬼で、この人の淡々とした口調を僕は愛されてないと思い込んで不仲となった原因の一つに繋がったと思う。
華奈枝さんはこういう喋り方で、笑顔はほとんど見せない人――最初からそれが分かっていれば何か変わっていたかもしれない。
変わっていたとしても、養子縁組の解消は逃れられない未来だったけど。
「はいはい、分かりました。ここはどうやって突き止めたんですか」
「目と耳と口があればある程度は調べられる、どの程度かと具体的に言うならばお前を見つけられるくらいの調査力だ。加えて探偵も雇ってね、時間が掛かったが見つけられたよ」
それはすごいですね、本当に。
「お前にここを用意したのも、生活面などの多くの手続きに手を貸してくれたのは養子縁組の件と同じ人かね? 正しき法も歪める手段を持つのは信用できるとは言えない、そんな人と知り合うのは感心しない」
「貴方よりは信用できます」
「それはとてもショックというものだよ、すごく悲しい。お前の母親として一時期世話をしていたのに」
悲しいという割には無表情なんですが。
「僕の母さんは一人だけです、貴方が僕の心の中で母さんとして居座る事は不可能なんですよ、席が空いてません」
「そうだろうな、分かっている。昔から気づいていた、気づいていたからと言って私は諦めるような人間ではないがね。今も、私はお前をまた養子として迎え入れたいとも思っている」
「本気で言ってるんですか?」
「いつだって私は本気だ、冗談を言う時など一年に数回程度。ここで貴重な数回のうち一回を消費したりしない」
そうですか。
「話し合っても無駄ですよ、何よりあの人も大嫌いですし」
あの人――夏雄さんとは特に馬が合わなかった。
息子として引き取ったのではなく、跡継ぎとして引き取っただけで愛情の欠片すら感じず、兎に角同じ空間にいるだけで嫌な気分に引きずり込まれたものだ。
「家族というものは多くの形があるが、私達の家族とは、複雑な形ではあるが非常に――という言葉は不要なものであると、私は思うのだよ」
「何が言いたいんですか」
遠まわしな言い方ばかりしてくる。
「やり直すのは、簡単だと思わないかね」
華奈枝さんはサングラスを取って、口元だけを歪めて華奈枝さんなりの笑顔を見せてきた。
「思いません。修復不可能なくらいに壊れてしまったのですから」
「そう? それは残念だ」
「話はこれでおしまいです、お帰りください」
榊原夫妻の人生にはもう僕は関わろうとは思わない、この人も僕の事を忘れて三人ではなく、二人での人生を歩んだほうが幸せな人生であるはずだ。
「すまないが、今日は泊まっていく」
「は?」
「ああ、更にすまない。今日は、ではなく暫く――だ」
「は?」
「着替えは持ってきている、金もある、何も問題はあるまい」
「問題あるのですが!」
「何の問題かね。お前の生活に何一つとして支障はきたさないはずだが」
眉の曲がり方が、この人は頭の上にクエスチョンマークを浮かべて『問題などあるはずがないのに何故お前はそう拒むのだ』と言いたげだった。
「どうして僕の家に泊まる必要があるんですか、金があるならホテルにでも泊まればいいでしょう?」
「金があるからといってホテルに泊まるという行為は傲慢ではないかな。金による贅沢は人間を駄目にする。私はね、贅沢などしたくは無いのだよ。贅沢に幸福は無い、本当の幸福とは贅沢を分かち合える人と共にする時間、と私はそう思うのだよ」
「そうですか、分かったので出て行ってください。駅まで行けばホテルがありますよ」
すっと、華奈枝さんは腰を上げた。
よかった、帰ってくれるようだ。
――とか、思ってた途端に華奈枝さんは上着を脱いで、浴室へ。
「借りるよ、寝る前にシャワーを浴びなければ落ち着かなくてね。出来れば風呂が沸いているとありがたいが、温度の上昇が感じられないので沸いてはいないだろう。残念だ」
「勝手に使わないでくださいよ! ほら、早く帰って!」
「大人一人が暫く住む事に何の問題が? 料理や掃除洗濯も得意、住まわせてもらう代わりにそれをやってやるというのだから便利であろうに」
「何が目的なんですか?」
「目的? 私はただお前を探して疲れたから暫くここで寝泊りさせてもらいたいだけの事」
「目的があるんでしょう、じゃないと今になって探そうともしないはずですし」
「今になって、では足りないな。ずっと探していて“今になって見つかった”というのが正しい」
会話するだけで疲れる人だ。
僕は溜め息をついてどうしようかとオレンジジュースを口へ運んだ。
暫くとは何日ほどなのか、とりあえずシャワーを終えたら聞いてみようと思う。
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