一ノ弐
目が覚めるとそこには青い空と黒い影が一つ飛び込んできた。
太陽はまだまだ元気だと主張して僕の双眸を刺激したためすぐに目を閉じたが、やってきた漆黒の中でどうして青い空と黒い影があったのかを考える。
それに後頭部には柔らかい感触、枕にしてはちょっと小さいが心地は良いが背中あたりは固い感触。手でさっと触れてみると木材の感触がベンチで仰向けになっているのを理解した僕は、どうして仰向けになっているのかを考えると同時に今日の入学式から少女に殴られるまでの記憶が走馬灯のように浮かび上がった。
「そうだ、女の子に殴られたんだっけ……」
待てよ……。
よくよく考えてみて、だ。入学式当日に知らない女の子と屋上で会って「このクズが」とか言われて殴られるなんて妙な話だ。
そして今はベンチで仰向けになっているって事は、僕はベンチでうとうとしてそこらへんの柔らかいものでも見つけて枕代わりにして眠ってただけなんじゃないかな。
「夢……だったのか」
そうに違いない。
「いいえ、違うわこのクズが」
違うとさ、わざわざ罵倒までして教えてくれるなんて刺激的な人だ。
黒い影は僕を殴った張本人の頭で間違い無く、頬には彼女の長い黒髪であると思われるさらりとした感触がくすぐったかった。
目を開けるのが少し怖い。
また睨まれてるんじゃあないかって思ってさ。
それでも目を開けなければならないわけで、いざ現実を見てみるとそこには予想通りの表情をした少女が顔を覗かせていた。
「三十分ほど寝てたわよ」
三十分ね……寝てたんじゃなく気絶してたの間違いだろ? 主に君のせいで。
「ほら、起きなさい。膝枕も疲れるんだけど」
完全に状況を把握して、慌てて僕は上体を起こした。
膝枕なんて、僕がいつか叶えたい夢の一つで思いがけないところで実現したが何だか複雑な気分。だってそうだろう? 僕を「このクズが」と呼んだ奴の膝枕だよ? 僕を殴った奴の膝枕だよ? 嬉しいけど、複雑だよ。
僕は姿勢を正して彼女と距離を取った。
そんでもって問う。
「あの……僕、どうして君に殴られたんだっけ」
「貴方、見たでしょ」
「見たって何を?」
目覚めたばかりだと思考が上手く回らない。
「中庭」
「え? あ、ああ、あれか」
そうそう、中庭に少女が二人いて、一人は悪女といいたいくらいに恐ろしい事をしていたね。相手を土下座させて自分の足を舐めさせる、もはや相手の心を完全に折る行為だ。
「あんなのは控えたほうがいいと思うよ」
ということで僕はここで、と席を立ったが彼女は僕の腕を掴んで離さない。
「私ね、優等生としてここで過ごしていきたいの」
彼女の顔をよく見てみると、徐々に記憶が蘇ってくる。
入学式の時だ、壇上に上がって一年生代表として挨拶をしていた彼女の姿を。
名前は……小鳥遊なんとか、夢うつつでよく憶えてないけど。
「そうなんだ、だったら尚更だよ」
ではでは僕はここで、と帰宅の第一歩目を踏み込んだが彼女は僕の足を思いっきり踏んでくる。
「痛いっ! ちょ、ちょっと……」
「変な噂を流されたら本当に困るの。それにね、あいつは中学の頃のクラスメイトですごくウザかったから懲らしめただけなのよ?」
懲らしめるという言葉を彼女はきちんと理解しているだろうか。
あれは懲らしめるなんて生ぬるい行為だったと僕は思う。
「ここで貴方を何とかしておかないといけないって私は思ったのよね」
「大丈夫、僕は口が硬い」
「でもね、私はちょっとこの学校でやりたい事があるのよ、そのためには人手が必要なの」
「そうかい、頑張ってね」
なんだかこの場をやり過ごしたい一心で対応が適当になってきている。
「貴方を暴力とか脅しとかで押さえ込むよりも、甘い蜜を吸わせて丸め込んだほうがいいかなって思ってね」
怖い事をさらりと言う奴だ。
悪魔のような笑顔を見せる彼女、思わず心の中で悪女再来と呟いた。
「従いなさい、そうすれば楽しい学校生活が待ってるわよ」
従うといっても、嫌な予感しかしない。
ここはどう対応するのが適切だろうか。
従うふりをしてこの場をやり過ごして後はなるべく避けるとかそういうのがいいかな。
僕は腕を掴まれていて足も踏まれてる、けれど女性の力なんてそれほど強大じゃない、強引に振りほどいて逃げるという手もあるが、彼女の顔を見ると気が引ける。
その可愛らしい表情が上目遣いで僕を見ている。
撫でたくなる、触りたくなる、それでも今は駄目だ。
ならば従ったふりが一番かな。
「はい……解りました」
一応下手に出て言葉には重みをつけておいた。
「よろしい。私の事は彪光と呼びなさい、愛を込めてね」
内ポケットから彼女は扇子を取り出して僕の顎をそれで持ち上げた。
「彪……光……」
女性らしくない名前、渋いね。
「うん、いいわね」
「それにしても、可愛いのに何だか残念だ」
はっとして、口を自分で塞いだ。
思わず本音が出てしまった。
「い、い、いきなり何を言うの!」
彼女は肩に軽く拳で殴ってくるが痛くは無かった。
効果音をつけるならばぽかぽかとかそういう音。
見る見るうちに顔が真っ赤になって視線を落としてしまった彪光を見て僕は笑みを溢してしまう。
頭を撫でたくなるくらいに無垢、抱きしめたくなるくらいに綺麗、触れたくなるくらいに可憐。
扇子で顔の下半分を隠しつつ、彼女は腰を上げて歩き出す。
「ふう、も、もうここには用など無いわ、帰りましょう。そうね、お互い親睦を深めるためにどこかでお茶でもしましょうよ」
親睦を深める……ね。
まあ大人しく彼女についていくとしよう。
帰るといっても帰り道は同じかなどお互い確認はしていないが、一緒に歩くという行動がちょっとした優越感を得られた。
彪光は未だに扇子で顔半分を隠しつつもちらりと僕の顔を見た。
口元は扇子によって窺えないが笑みでにんまりとした口になっているんじゃないかと想像。
校門から出た辺りで彪光は扇子を閉じて顎に添えるようにつけては小さく溜息。
彼女の視線を追って見てみると黒光りした車両、見た目からしてベンツとしか言いようが無い高級感を放つ乗り物が近くに停まっていた。
そのベンツには黒服が一人立っており、こちらへ向かって歩いてくるが彪光は来るなと言いたげに扇子を振って合図すると黒服はその場で停止。
なんだろうあの人は、そんな考えを持ち合わせるのも蛇足にすら思ってしまう外見は見るからに、護衛とかそういう印象。
サングラス越しでどうやら僕を見ているようだけど大丈夫かな、殴られないかな、殺されないかな、大袈裟かな。
「大丈夫よ、貴方は男にも惚れられそうな顔してるけど彼は違うから心配しないで」
僕の思考は口から自然と出ていたのか、彼女は僕の肩を軽く扇子で叩いた。
心配してくれる部分がちょっとずれてるな、とは思うがね。
「普段はあれが普通なの?」
“あれ”というのはもちろん、ベンツで帰宅に護衛付きの事である。
「そうよ、中学からずっとね。もちろん今日は貴方と一緒に帰るわ」
それはちょっと嬉しいね。可愛い子と一緒に歩けるなんてさ、まあ中身は見なかった事にして、だ。
先ほどの護衛さんがずっと遠くではあるがついてきているのが気になって仕方が無い。
「もしかしてお嬢……様?」
家にはメイドや護衛達がいて、毎朝車で登校、お嬢様なんて呼ばれてたりして、なんて想像をしてみる。
「貴方が今思い浮かべた想像に近いと思うわ、でも気にしないで」
頭の中を探られたような気分だ。
町に入ってすぐのところに喫茶店があったので、店の良し悪しなど関係なく僕達は喫茶店へ入った。
テーブル席に座って彼女を目の前にすると何だか緊張してきて、僕はコーヒーを口に運んで落ち着こうとしてみるが、なかなかうまくいかないもんだね。暖かいものってのは落ち着くと聞いたが緊張が増すばかりだ。
「意外と美味しいわねここのコーヒーは」
扇子を華麗に開いて彪光は軽く扇子で扇ぐ。
それは熱いや暑いとかではなくて、コーヒーの香りは鼻腔へと誘い込んでいるようだ。本格的に味の楽しみ方は学んでいる様子。
僕なんかはコーヒーを飲んで苦いけど美味しい! 略してにが美味しい! なんつって! とか阿呆な思考でいつもコーヒー飲んでたけどね。
それも時々ブラックコーヒー、いつもは砂糖入りのあま~いコーヒー。
「貴方はあま~いコーヒーでも飲んでそうだけど」
「ごもっとも」
「でしょうね、貴方の性格を幼少期から予測するに当たって、成長後は角砂糖一個をコーヒーに入れたら意外と美味しくて今では角砂糖を増やしてあま~いコーヒーを飲んでる姿が思い浮かんだわ」
彪光はひょっとしたら僕の全てを把握する能力を持っているんじゃないかな。それとも監視カメラでもつけて僕を見張っていたとかさ。
そう思いたくなるくらい正確するぎる。
「それはいいとして、ね。どう? あの学校の印象は」
「んー、すごいなあって感じ?」
食堂が広くて料理は安くて美味しい、校舎が大きくて綺麗、教室、グラウンドが広い、他校とは圧倒的に一つ一つが違うので感想としてはすごいなあというのが代表で出たがこのすごいなあはこれらの要素が含まれているというわけだ。
「そう……私はすごく退屈って思ったわ」
彼女は扇子を閉じて、僕の顎につきつけた。
テーブルの幅が広いおかげで彼女は無理をして手を伸ばして僕の顎に扇子をつけるその仕草はなんていうか、一言で表現するのならばお茶目。
「退屈と言われても……」
僕はどうすればいいのやら。
自分で言うのもなんだが僕はとてもつまらない人間だ。
「あの学校ね、意外と裏は真っ黒なのよ」
「というと?」
「非公認サークルっていうのかしら、そのサークルはね、喧嘩や賭け事で随分とあくどい事をしてるようなの」
どの学校にも必ず不良といった輩はいるが、少々不良の領域を超えているような言い回しだ。
「触らぬ神に祟り無しだね」
「そのサークル、どれか一つ乗っとりましょう」
今日はいい天気だ、こういう日はジョギングとかしてリラックスしたいね。
とか現実逃避を思わず実行しようとするが、彼女の扇子が僕の頬に減り込んで現実から逃がさんとする。
「聞・い・て・る・の?」
「あ、はい、聞いてますよ」
それよりもここの裏メニューに耳栓とか無いかな?
もしもあるのならば注文して耳栓をしてから話を始めたいと思うのだけど。
まあ……無いか。
「でもいいのかい? 生徒会候補とかって耳にしたけど」
入学式で誰かが囁いていたのを覚えてる。
「ふん、別にいいわよ。生徒会の人から一年の生徒会長選挙に立候補するのはやめてもらいたいと言われたからね」
「一年?」
「知らないの? うちの学校、生徒が多いから学年ごとに生徒会を設けてるの。だから毎年三人の生徒会長が存在するのよ。それに加えて総生徒会長も選ばれるらしいわ」
へえ、そうなんだ。
学校資料ってのは一応渡されたけど今頃僕の部屋の片隅で瀕死の重傷を負っていると思う。今日、僕が帰宅したら殉職かな。主にゴミ箱へ搬送だ。
その前に生徒会について一度目を通してはみるとするか。
「二年、三年は今月に選挙。一年は来月に選挙なんだけど、元二年生徒会長から言われてね。私の家柄は極道みたいなものだから印象が悪いのでしょう。むしろ一時期はそうだったから否定はしないわ」
極道ね……。
先ほどにて護衛やらベンツやらそういったものを簡単に用意できるような家となると、連想は大富豪の娘だったのだけれど、極道のほうでしたか……。
驚いた? そう問われて僕は首を横に振る。
ちょっとした強がりがそうさせたのかも。
「でもさ、だからっていくらなんでも酷くないかなそんな言い方は」
「その人はどうせ生徒会長に立候補して三年生徒会長になると思うから、私みたいなのが一年生徒会長にでもなったら嫌なのよ。聞いた話だと他の立候補者と比べると確定したようなものらしいし」
選挙の前に芽は摘んでおくってか。
「それでも選挙に出て見返してやるのはどう?」
「嫌よ、それよりもあの生徒会長と生徒会に思いっきり迷惑かけるほうが面白いわ。目標はサークルを全て支配して学校を裏で操ってやるの! 裏の生徒会を作るのもいいわね……」
駄目だこの子……なんとかしないと手遅れになる。
「そして校長も弱みを握って学校を掌握! 私の高校三年間はバラ色よ! 喜びなさい、貴方も私の喜びを共有できる資格があるのよ」
拒否権は今日のコーヒー代を僕が負担で手を打ってもらえないかな。
言いたい事は全て言い終えたのか、彼女は扇子を閉じて満足そうにふふんと鼻息を立てる。
「明日から動くわよ」
嫌な予感しかしない学校生活、明日からきっと欝になるに違いない。
そうしてこの際ついでなので彼女を送るべく僕は少々遠回りなど関係無しに彼女と肩を並べて帰路についた。
大通りを越えて住宅街に入ったところで塀が聳え立ち、しばらく右には彪光、左には塀という妙な状態で肩を並べて、本当にここ住宅街なのかと辺りを見ました。
右側は普通の住宅街だが、左側は僕の身長を軽々と越える塀があってこの先はどうなっているのかが少し気になるね。
「どうしたの?」
「いや、この塀高いなあって思ってさ。ここ、どこかの施設とかあるのかな?」
塀が高いほど中に建つ建物の重要さが解る。
病院施設とか研究施設とか、さ。こういう鼠色したコンクリート以外何物でもない塀が囲むものってそういうものが多いだろう?
「私の家があるだけよ」
「……嘘」
「本当よ」
「マジ?」
「マジよ」
そうして歩く事数分後、見事といいたくなる特大の門。木製の門は渋くていいね、それに小鳥遊という表札の隣に黒服の人が一人。
彼女を見るや深々と頭を下げてお帰りなさいませお嬢様、だとさ。
「送ってくれてありがとう、また明日ね。楽しみで眠れないかも……ふふ……」
不敵に笑う彼女を見送って手を振ったが、門が閉まると同時に僕はここにいるのがまったく場違いな気がしてそそくさとその場を去った。
黒服の視線が背中に突き刺さってるのがやけに気になったせいで歩調はやや早く。
少々彪光と僕は友達関係であるとしても釣り合わない気がする。幼い頃はまったく彼女の事なんて何も知らなかったけど、こうして今の彼女を見てみるとこの僕よりも高い塀が“月とすっぽんだぜ”と言ってくるようだ。
次に彪光と会ったら緊張しちゃうかも。ちょっと軽く身体に接触でもしたら黒服に襲われたりして。
なんちゃって、いや……ありうるか。
まあそれはいいとして、僕は歩きながら考える。
橙色に染まり始めてる空を見上げて僕は溜息を空へと溶かして呟いた。
「面倒な事になりそうだ……」
嫌な予感っていうのはよく当たる、本当にね。
第一章、ここで終了です。次から第二章に入ります。