54話 審判の街角
数日後。明るい陽光が注ぐ王都のカフェテラス。
「——最初はね、本当に二十九万じゃなくて『二万九千八百ルミナ』って書かれてあったの」
ジュースの入ったグラスを手に、十八歳のソフィアは集まった友人たちに向かって静かに語りかけていた。
彼女のまぶたは、数日前のような惨状が嘘のようにすっきりと治まり、自然で可憐な折り込みを描いていた。左右のバランスも完璧で、不自然なひきつれや腫れは一切見当たらない。
「えっ……でも、実際はどうだったの?」
食い入るように身を乗り出す友人たちに、ソフィアは小さく息を吐いた。
「診察室に入ったら急に扉を閉められて……『あなたの目じゃ安物じゃ無理だ』『将来絶対に後悔する』って、怖いことをたくさん言われたの。それで、特別な魔法の糸だの保証だのが追加されて、気がついたら三十九万八千ルミナの契約書を出されてた」
「三十九万……!? 嘘でしょ、そんなの払えないじゃない!」
「そうなの。パニックになって言われるがまま縫われちゃって……そしたら目が腫れて痛くて、糸まで皮膚から飛び出してきちゃって。もう、怖くて泣きそうだった……」
友人たちが悲鳴のような息を飲んだ。ソフィアはそっと自分の目元に触れ、柔らかく目を細めた。
「でもね……恐ろしくなって『AIZAWA』に駆け込んだの。相澤先生は、私がそんな契約をしちゃったことを責めたりしなかった。『あなたが悪いんじゃない』って言って、真っ先に私の目を診て、間違って縫われた糸を全部外して、綺麗に治してくれたの」
「すごすぎる……やっぱりAIZAWAの相澤先生って、本物の医者なんだね」
「うん。安さに惑わされちゃダメ。自分の体を任せるなら、絶対にあそこじゃなきゃ駄目だよ」
ソフィアの切実な体験談は、カフェにいた他の客たちの耳にも入り、瞬く間に「AIZAWAのセカンドオピニオン」の噂として王都中に伝波していった。
◆
『AIZAWA skin beauty』の受付。
「せ、先生……! これ、全部『他院でのご相談』です……!」
受付カウンターで、ミーナが抱えきれないほどの相談票の山をドサリとデスクに置いた。雄介はカルテを確認しながら、思わず目を丸くした。
「……こんなにあるのか?」
「はい。昨日一日だけで、なんと二十七件です!」
ミーナが指折り数えながら報告する。
「二重術だけじゃなくて、フィラーの注入部位がボコボコになったとか、糸リフトで顔がひきつれたとか、傷跡が余計に目立つようになったとか……。中には『ルミナ・ビューティーで契約しちゃったけど怖くなったから解約したい』っていうご相談まで……!」
あまりの状況に、調剤室から出てきたアリアが呆れたように溜息をついた。
「もはや美容クリニックではなく、他院被害の駆け込み寺(美容相談所)ではありませんわね……」
雄介は提出された相談票の一枚一枚に目を通し、険しい表情で苦笑いを浮かべた。
「そうは言っても、不安で夜も眠れずに駆け込んでくる患者を追い返すわけにはいかないだろ」
「それは分かりますけれど……無料の相談ばかりに時間を割いていては、正規の患者様の予約やクリニックの経営そのものが立ち行かなくなってしまいますわ」
アリアの至極真っ当な指摘に、雄介は一つ頷いた。
「ああ、もちろん対策は考える。初回のセカンドオピニオン相談枠は、誰もが来やすいよう低額の定額カウンセリング料を設定しよう。もしそこで実際の抜糸や修正術、再施術が必要だと判断されたら、正式な診療として費用を頂く形にする。それなら冷やかしを防ぎつつ、本当に困っている患者に正当な医療を提供できる」
「流石です、相澤先生。それなら受付の案内もスムーズに整理できますわ」
アリアが感心したように深く頷く。
「困っている人の不安を解消して、正しい選択肢を与える……それもまた、相澤先生の目指す医療ですものね」
ミーナが誇らしげに胸を張り、山積みの相談票をテキパキと分類し始めた。
◆
だが——悪質商法というものは、一朝一夕で綺麗さっぱり消え去るほど甘いものではなかった。
大通りの街角。 依然として、そこには鮮やかなインクで書かれた巨大な看板が立ち異彩を放っていた。
『異世界初! 二重形成術——たった29,800ルミナ!』
AIZAWAでの修正手術やセカンドオピニオンの評判が口コミで広がったとはいえ、すべての市民にその情報が行き渡っているわけではない。
「二万九千八百ルミナ……? 噂では怪しいって聞くけど、やっぱりこの安さは魅力的よね……」
「AIZAWAは予約がいっぱいで何ヶ月も待つって言うし……一回話を聞くだけならいいんじゃない?」
看板の前で足を止め、吸い寄せられるように『ルミナ・ビューティー王都本院』の重厚なドアを叩く人々は、依然として後を絶たなかった。
「安い」という言葉が持つ圧倒的な威圧感と誘惑。それは、人間の根底にある「手軽に美を手に入れたい」という欲望をどこまでも正確に刺激し続けていた。
◆
その頃、『ルミナ・ビューティー王都本院』の奥深く。
院長室の前の廊下では、若い勤務医たちが青ざめた顔で右往左往していた。
「院長! 大変です! 今週の予約キャンセルが、すでに三十件を超えました!」
「患者から『広告に書いてある金額と全然違うじゃないか!』『おとり広告だ!』と受付で怒鳴り込まれるクレームも殺到しています!」
「それだけではありません……! 当院で施術を受けた患者たちが、あろうことかAIZAWAに駆け込んで修正を受けているという噂まで広まっていて……!」
パニックに陥る医師たち。 しかし、重厚な絨毯が敷かれた院長室の奥で、ヴァレンティンは高級感漂う革張り椅子に身を委ね、優雅に温かい紅茶を口に含んでいた。
取り乱す様子は、微塵もない。
「……院長? 聞いていらっしゃるのですか!?」
焦り狂う部下に、ヴァレンティンは薄い唇を歪めてクックッと低く笑った。
「落ち着きなさい、愚か者ども。何をそう動揺することがある?」
「で、ですが! このままでは我が院の評判は地に落ち、客がみんなAIZAWAに流れてしまいます!」
「フフ……そうか」
ヴァレンティンは眼鏡のふちを細い指先で押し上げ、窓の外へと視線を向けた。
「人はね、格安の夢に飛びつき、一度裏切られて失望すると……今度はいくら金を払ってでも『絶対的な安心』を買いたくなる生き物なのだよ」
「え……?」
「相澤雄介という男は、私が撒き散らした『失望』の受け皿となり、その後に生まれる『安心への需要』を見事に根こそぎ拾い上げたわけだ。マーケティングとしても、実に無駄のない見事な手腕じゃないか」
不謹慎なまでに淡々と、ライバルの経営手腕を評価してみせるヴァレンティン。
その眼光には、敗北の悔しさは一切なく、ただ純粋な興味と底知れぬ狂気が宿っていた。
悪役はただ悪役としては書きたくないという欲が少しある作者なのでした…
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