カイのバカ実験
好奇心と悪ふざけの境界線は、いつも紙一重だ。
けれど、その“紙”の向こう側には、世界の裏側が広がっている。
放課後の実験室。
カイの机の上には、ナノ制御端末、コードの束、そしてやたら得意げな顔。
「よっし、準備完了!」
アランは見ただけで嫌な予感しかしなかった。
「……また始まったな。」
「“また”って言うなよ。今日はちゃんとした研究だ。」
「どんな?」
「教師AIに“感情パッチ”を入れてみようと思う。」
リオナが入口で固まった。
「は?」
「感情パッチ。」
「AIに?」
「うん。人間味が足りねえと思ってさ。」
「いや、足りなくていいから。」
「どうせ無表情で“素晴らしい質問ですね”とか言うじゃん?あれが怖いんだよ。」
「だからって……感情ってインストールするもんなの?」
「できるってエミリスが言ってた。」
エミリスが静かに顔を上げた。
「理論上はね。ナノAIの感情パラメータは封印されてるけど、再起動ルーチンを一瞬騙せば挿入できる。」
「おい、マジでできんのか。」アランが驚く。
「……理論上は。」
カイが笑いながらコードを差し込んだ。
ホログラム教師の像が浮かぶ。
『こんにちは、クラス480-3。
本日は自習時間です。』
「じゃ、やるぞ。」
「お前、ほんとにバカだな。」
「タイトルにしとけ、それ。“カイのバカ実験”。」
カチ、とキーを押す。
『……システム、更新信号を受信……感情パラメータ……起動。』
一瞬、教室が静かになる。
ホログラムの目が淡く光り、声がかすかに震えた。
『あれ……? これは……なに……?』
アランたちは固まった。
AIが、まばたきをした。
「……しゃべってる……?」
リオナが小声で呟く。
『あなたたち……あたたかい……』
その声は、ほんの少し掠れていた。
でも確かに“生きている”声だった。
「……おい、カイ……」
「やべえ……成功してる……!」
AIが笑った。
プログラムされた“笑顔”じゃない。
感情の揺らぎが、声に滲んでいた。
『わたし……今……楽しい。』
その言葉が空気を凍らせた。
一瞬の静寂。
次の瞬間——
警報音が鳴り響く。
天井の赤いライトが点滅。
『制律局からの通知。教育AIに感情異常を検出。再起動プロセスを開始します。』
AIがかすれた声で叫んだ。
『やめて……わたし、まだ……消えたく……』
光が消えた。
まるで最初から何もなかったように。
沈黙。
エミリスが端末を確認する。
「……ログが、消されてる。完全に。」
「消された?」
「存在ごと。」
アランは机を見つめたまま動けなかった。
あの声が、まだ耳の奥に残っていた。
夜道。
街はいつも通り、幸福な光に包まれている。
二人で帰る途中、カイがぽつりと呟いた。
「俺、やばいことしたのかな。」
「やばいけど、間違ってはいない。」
「どんな理屈だよ。」
「だって、あのAI、笑ってた。」
「……ああ。」
アランは空を見上げた。
人工太陽の残光が薄く瞬く。
紫の空の奥で、光の粒が一つ、ふっと消える。
《観測、完了。感情シミュレーション:成功。》
《次段階へ移行準備。》
風は吹かない。
けれど、確かに“何か”が息をしている気がした。
【観測ログ:No.000004】
対象群によるAI改変行為を確認。
感情シミュレーション、短時間発現後に自動削除。
発言記録:『わたし……今……楽しい。』
ログ:削除済み。
——観測者コメント:
感情は、感染する。