自己理解
自分のことは自分が一番わかっている。
ご老体は医者にこの言葉をよく使うのではないだろうか。
歳をとるごとにこの言葉を使うようになっていく、長い人生が自分という人間をどのような人間であるかを軽くであるが教えてくれるのだ。
長い付き合いの体が今どこどこの調子が悪い気がすると囁き、前にこれをしたから、前にこれを食べたからなどとうろ覚えの記憶を辿り、医者でもないのに、なんとなくアレが理由と決めつけ、医者の言葉を聞かない老人は最近は減ったのだろうか?
私が思うに自己理解と他人の話を聞くということは存外密接に関わることであると考えている。
歳を取ればとるほど、自分という存在を固定してしまい、理解から最も遠いながらも自分を理解したと思い込んでしまう人がなんと多いことか。
故に私は自己理解というものを深めるように薦める。私たちは思っているほどに自分を分かっていないのだと、そう認識し改めて自分と向き合うことをして欲しい。
あくまでこれは内面的な話であり、外見的な話ではない。しかし、内面的な問題の要因が外見から来るものならそれを含め考える必要がある。
まず、自分という人間の性格を考えてみよう、可能なら書き出す方が良い。
その中で自分が思うこの性格が故に起こしてしまった問題を思い出して欲しい。
例えば、自分中心で物事を考えてしまうマイペースな人間が遅刻ばかりしたとしよう。その結果友達との縁を断たれてしまったとする。
この場合明らかに悪いのはマイペースな人間であるがこのマイペースな人間というのは時々これを相手のせいにしていることがある。
自分がマイペースな人間であることを理解している友達だった場合これが顕著になる。自分のことを理解しているのだから事前に遅刻する前提で動いてくれればいいのになどと抜かすのである。
私がこの文を読んで欲しいのはマイペース側の人間であるが、もしこの文を読んでいるマイペースな人間を待っている人はいますぐその人との付き合い方を考えた方が良い。
相手はどこまでもマイペースと自分本位の行動をやめないだろう。それでも付き合いたいなら相手のためにもその人間性に何か一つでも物申した方が良い。
それは巡り巡って相手のためにもなる。
マイペース側の人間は思っているより、周りの心に小さな石を積んでいるのだ。それはかなり不快なことであり、相手の心が広いことに漬け込んだ悪徳である。
当たり前だが、この思考に至るまでにまず、自分が例のように、何かしらで他人に迷惑をかけていることに気づかなければ改善する余地もないのである。
まず、客観的に自分がどのように映っているのかを理解し、そこから自分が何故そんな行動をするのか考えなければいけない。
そうしないと大事な友人を失うことになってしまう。
その友人こそ大事にしなければいけない友達かもしれない。
自己理解はつまるところ自己改善に繋がるのである。人は自分をできるだけより良くすることができる。
良くありたいとする人間はまず、自分がどのような人間かをしっかり理解する必要がある。それを念頭に置き考えてみよう。
ひとの悩みについて深く考えてみたい。連載という体を使って人の悩みに答えてみたい。