手待ちとノーポジ
「大局観は美香のほうが上だと思う。よく冷静に判断しているよ」
武田が美香との感想戦の検討をひと通り終えて、そう総括した。大局観とは将棋における全体の流れやバランスを見て考える力だ。
瞬間的な閃きというか、突き抜けた力は怜のほうが上か。そこは女性らしい感じもするな。周りを見る力というか。武田はそう思ったが言葉には出さなかった。
「では第2ラウンドに入ります。武田駿太、大城怜。丸橋修、曽山美香」
「えー丸橋さんとじゃなかったか」
館長の声に対し、怜が露骨に落ち込んだ様子を見せた。武田には勝ったことがなかったからだ。丸橋になら勝てそうだったのだが、勝者同士で当たるシステムだったので、本当は当たるだろうと思っていた。
「丸橋さん、奨励会を控えた若者に鍛えてあげて」
「こっちが鍛えられちゃうよ。まいったな」
丸橋が角刈りの頭をかきむしる。美香はケロッとした様子だ。先ほどの涙はもう忘れてしまったかのよう。
美香はさっさと席に着き、駒箱を開けた。もう次の将棋に気持ちを切り替えている。怜はその様子を横目に見て、胸の奥が少しざわついた。
(さっき泣いてたのに……切り替え早すぎだろ)
それが強さだと、怜は薄々わかっていた。
一方、武田の前に座った怜は、いつもより深く息を吸った。相手は年上、研究会の常連、終盤が異様に粘るタイプ。正直、得意ではない。
「お願いします」
「よろしく」
武田は盤面を見る前に一瞬だけ怜の顔を見た。その目は、子どもを見る目ではなかった。完全に“勝負相手”として見ている。
振り駒の結果、怜が後手。
(後手か……)
怜は不意に、昨夜見たローソク足を思い出した。ずっと上に行っていたのに、ある瞬間、理由もなく一気に下に振れた、あの1分間。
(ずっと有利でも、突然ひっくり返る)
将棋も同じだ。ずっと良くても、一手で終わる。
武田は角換わりを選んだ。定跡通り、静かな立ち上がり。だが、どこか“待っている”感じがする。
(受け将棋だ)
美香と同じだ、と怜は思った。ただし、武田の受けはもっといやらしい。相手が踏み込んだ瞬間を、刈り取る準備をしている。
中盤、怜は自然と指が止まった。
(ここで仕掛けるか……?)
頭の中で、将棋の定跡と、FXの画面が重なる。
上に行きそうだからロング。
そろそろ下がりそうだからショート。
どちらも「予想」だ。
(でも……)
怜は気づいてしまった。
FXでは、理由のない動きがある。
将棋では、理由のない一手はない。
盤上の駒は、人間が動かしている。
相場の駒は、誰が動かしているかわからない。
(……怖さが違う)
怜は▲4五歩を突かなかった。代わりに、じっと形を整える一手を選んだ。
「お?」
武田が小さく声を漏らす。
「今日は慎重だな」
「はい」
慎重――それは逃げではない。待ちだ。
武田が仕掛けた。待っていたのは、怜のほうだった。
終盤。秒読み。
美香と丸橋の将棋はすでに終わっている。周囲の視線が、自然とこの盤に集まっていた。
(ここだ)
怜は踏み込んだ。角を切り、銀を捨て、玉に迫る。一直線の攻め。読みは深くない。だが、迷いがない。
武田は耐えた。耐えて、耐えて――
「……あ」
武田の指が止まった。
一瞬の空白。
「詰んでるか?」
館長が立ち上がる。
武田は数え、数え、そして静かに駒を倒した。
「負けました」
怜の胸が、どくんと鳴った。
勝った。
武田に。
初めて。
「……強くなったな」
武田は苦笑しながら言った。
「さっきより、大局が見えてた」
怜はその言葉を噛みしめた。
大局観。
美香。
武田。
そして――父のFX。
(将棋は、勉強すれば強くなる)
でも。
(世界には、勉強しても理由がわからない動きがある)
その両方を知ってしまったことが、これから自分をどこへ連れていくのか。
その答えを、怜はまだ知らない。
ただひとつ確かなのは――
あの夜、たった1分で700万を動かしたローソク足が、確実に彼の人生の“局面”を変え始めていた、ということだった。




