逆転とドテン
日曜日。怜は毎週通っている都内の将棋道場にいた。この日は研究会。実力の近い人同士で対局する勉強の場である。
「それでは第159回将風館研究会を始めます。呼ばれた方から席に着いてください。丸橋修、武田駿太。大城怜、曽山美香……」
怜の名前が呼ばれた。タタタッと椅子に座り、駒箱を取り出す。相手は同い年の女の子だ。暗くてあまり喋らないが実力は高い。将棋界では強いと一目置かれ、次第に友人と化していく。怜ともその関係だ。彼女も今年の奨励会を受験する仲間であり、意識している間柄であった。
「ねえ、奨励会の前哨戦だね。館長が当ててくれたんだ」
「うん」
怜が話しかけると、美香は少しはにかんだ様子で返した。少し照れてしまったが怜は気づいていない様子。黙々と駒を初形の位置に並べ、対局開始の合図を待った。待ちきれんとばかりに足を動かす怜を見て、館長の佐藤昭は白髪をかき上げながら、すかさず声を発する。
「怜、足パタパタすんなー。えーそれでは対局の準備が整ったところから対局を開始してください」
「「お願いします!」」
怜が指そうとした瞬間、美香が制した。
「待って、振り駒してない」
「あっごめん」
「振って。怜くんのほうが強いから」
「ミカンにこの前負けたからそっち振っていいよ」
「えっ別にいいよ」
「じゃあ振る」
ミカンというのは怜が美香につけているあだ名だ。
怜が5枚の歩を手に取ってシャカシャカと振る。そして先後が決まった。先手は怜。改めて両者とも頭を下げた。
将棋は美香の一手損角換わりという戦型に。怜は最近勉強中の矢倉を覚えてきたのだが、無理矢理角交換されてアテが外れてしまった。仕方がなく腰掛け銀に進める。すると美香も腰掛け銀で対抗してきたため、相腰掛け銀となった。がっぷり四つの序盤戦。怜が仕掛けて戦いを起こせるかどうかが焦点となった。
(▲4五歩で仕掛けたいけど成立したっけ。形忘れちゃったな。えーとどうしよう)
怜は迷っていた。仕掛けられずに膠着状態になってしまうと、後手番の美香の思うつぼだったからだ。美香の作戦は待機。相手が仕掛けてきたところを受け止め、カウンターを食らわす。怜が一層ためらっていた理由は、以前に無理攻めで仕掛けてしまい、きっちり反撃されて負かされたからであった。
結局、悩んだ末に怜は▲4五歩の仕掛けを決行。しかし美香の的確な対応を前に、形勢を損ねてしまった。
「あー動かなきゃよかった」
無意識に怜の口から後悔が漏れた。美香は「え、でも難しいよまだ」とポツリ。心なしかエールのような口ぶりだった。美香は盤上を凝視する。怜は鋭い攻め将棋だ。食いつかれないように慎重に。安全を期して。
「負けました」
「ありがとうございました。いやー丸橋さんさすがに玉薄すぎでしょう」
丸橋-武田戦が終わった。武田がにんまりと笑う。
「さて、隣がまだやってるから場所移して感想戦しますか」
「いやーいけると思ったんだけど」
ふたりが立ち上がった。武田がちらりと怜と美香の将棋を見る。普通は子ども同士のほうが圧倒的に早く終わるものだが……まさか俺たちの将棋より長引くとは。熱戦だな。
(くそっ、崩れてくれない。ミカン強い)
(怜がなかなか楽にさせてくれない。やっぱり強い)
相入玉か。しかも点数は接戦。持将棋になるかもな。
館長が遠くから見守る。心ゆくまでやり合うといい。館長は穏やかで優しい性格だ。指導にも定評があり、自然と人が集まってくる。将風館は現在設立50年目を迎え、館長も御年77歳を迎えたばかり。感想戦を終えた丸橋と武田がやってきた。
「館長、ふたりともまた強くなりましたね。体力もついた」
「うん。今年の奨励会は間違いなく受かるだろう」
「俺はまだ負けたことないけど、丸橋さんこの前怜くんに負けてましたよね」
「あれは最後うっかりしたんだ。99%勝ってた」
「また言い訳してる。そういえば昴くんは今日もお休みですか」
「うん。最近ちょっと身が入ってないような気がするな。今年こそは奨励会に受かると思うけど」
「うーん。怜くんと美香ちゃんに追いつかれて焦っているとかですかね」
田村昴。小学4年生で怜と美香のひとつ上だ。彼も小学3年生でアマ五段の実力を持つ有望株だったが、ここ1年は実力が停滞していた。昨年の奨励会試験は二次試験であと1勝届かずに落ちてしまった。
「昴来るの?」
「おっ、怜終わったのか。どっち勝った」
「僕。逆転勝ちした」
「はいよ。感想戦したのか?」
「まあちょっとね」
武田はそっと駆け寄る。盤の前に座ったまま動かないでいる美香のもとへ。
「どうだった。受け切れそうだったけどな」
「受け間違えた。悔しい」
「うんうん。時間ないと受ける方が大変だよな。よしちょっと検討しよう」
「ううう。うっかりした。あり得ない」
美香の目には涙が。武田は無言で駒を並べ始めた。
「ねえ館長、昴に会いたい。最近見てないし」
「今度の千葉県こども将棋大会に出ていればいいが」
「昴って千葉にいるの?」
「そうだよ。知らなかったのか」
「うん。ミカンは東京都代表で僕は埼玉県代表。昴は千葉県代表になったことあったっけ」
「あるよ。まったくいい加減だな。ほら、美香が武田さんと感想戦やってるぞ。怜も混ざってこい」
「えー丸橋さん将棋やろうよ」
「おっ俺は」
急に振られた丸橋はもじもじしながらトイレに逃げ込んでしまった。怜にもし2連敗でもしたらつらい。身を守った行動だった。
身を守る行動、か。
潤はロングポジションを抱えたまま、膨れ上がりつつある含み損を目にため息をついた。押し目でナンピンを繰り返してしまい、熱くなってしまう失態をおかしていたのだ。50枚のポジションで100pips捕まった。一向に上がらないチャートを前に、いよいよ損切りするか悩んでいた。
「ドテンです」
そうつぶやいた潤はポジションを決済した。そしてショート、つまり逆のポジションをすぐさま持った。いつも通り10枚。本当は100枚投入したかった。しかしそれでは身を滅ぼしてしまう。安易に熱くなってはいけない。
手堅く10pips抜いて今日は終了。いったん体を休めた。ついドテンなんてやってしまったが、それで終えられたのは成長なのかもしれない。そもそもナンピンがいけなかったな。熱くならず、冷静に大局を見る。相場観を鍛えねば。




