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駒音とキーボード音

将棋は素晴らしいゲームだよ。勉強すればするほど、努力すればするほど強くなれるからさ。そうして強くなればたくさん勝てる。勝てば楽しい。楽しいから勉強する。勉強するから勝てる。それが将棋というものだ。いつしか僕は小学3年生でアマ五段という、そこそこ強くて有望な感じになった。えっ、めっちゃ強いって? まあね、でも棋士になるには普通くらいだよ。全国には僕より強いやつがいっぱいいる。僕のいる埼玉県じゃ、一応この前一番になったけどね。


だから僕はどんな世界であっても勉強して努力をすれば乗り越えられるものだと思っていた。そいつと出会うまでは。


パチッ、パチッ。


その日、大城怜(おおしろれい)は学校から帰宅して部屋の中で棋譜並べをしていた。クーラーをつけ、左手で本を持ちながら、右手で盤上に駒を並べていく。先人が残した対局の棋譜をなぞることで、定跡を勉強するのが怜の日課だった。この日は矢倉91手定跡のおさらい。羽生善治九段の真似をして、パチッ、パチッと優雅に舞うように。ついこの間、約100万円の高いパソコンを買ってもらったが、使い方がよくわからないから触っていない。そろそろ始まる夏休み中に活用できればと思っている。


怜の家は裕福だった。父の(じゅん)は35歳。職業は……そこにいるから説明してもらおう。


カタカタカタ


説明と言われても、ニートみたいなもんですね。家の中でずっとチャートを見ているだけです。でもそれじゃアレなんで、投資家といっておけばいいですかね。すみません思い上がっちゃって。本当は投機家です。昔は麻雀プロだったんですけど、いろいろあって辞めちゃいました。今のところデイトレでなんとか稼いでいます。


潤はデイトレーダーだ。主戦場はFX。FXとはForeign Exchangeのことで、外国通貨を売買して為替差益を狙う取引である。作業は簡単。自分が上だと思ったらロングの注文を入れて、上がったら利確する。下だと思ったらショートを打つ。下がったらまた利確。こうしてコツコツと差額で儲けていく。潤曰く、2分の1を当てるだけのゲーム。月収は大体6桁だが、最高記録は1200万円ほど。でも月収がマイナスになることもある。


息子はなぜか将棋にハマっちゃって。俺は麻雀なら教えられるんだけど将棋はからっきし。でも俺に似て勝負勘はいいのかもしれないですね。10歳でアマ五段ってすごくないですか? 俺はそんな難しいゲームなんてまっぴらごめんですけどね。FXのほうがやることが少なくてわかりやすいですから。


2分の1を当てるだけのゲームですよ。これほど簡単なことってありますか。将棋は天文学的確率の選択肢の中から最善手を探すそうじゃないですか。もっと人間、楽に考えずに生きましょうよ。


潤はまたカタカタカタとキーボードをたたく。指値注文を入れたのだ。現在、ドル円は1ドル146円から下落中。勢いの早さから145円付近の攻防戦になると読み、146.06で売りの利確を設定しておいた。ちょっと欲張ったが、もしこれが利確されれば48万の儲けになる。キリよく146.00にすればもう少し儲かるが、06付近で跳ね返ると読んだ。2階から1階のリビングに降りる前に3階の怜を呼ばなくては。


「怜、そろそろ降りてきな。ご飯だよ。お母さん今夜も遅いから、お父さん作るからね」


潤の妻、友美(ともみ)は外科医。いつも病院にいて、たまに家に帰ってくれば死んだように眠る。だから潤は家事担当だった。怜と一緒に過ごしている時間は比較にならない。


「お父さん、カレーがいい」

「またか。楽だからいいけど」


カレーは怜の好物になった。カレーならすぐに食べられるので、早く将棋の勉強に戻れるからだ。一方の潤も、すぐにパソコンの前に戻れるので歓迎だった。カレーといっても、優待でいただいたレトルトカレーである。優待でいただいたパックのご飯をチンして、終わり。楽で助かる。サラダは作り置きのを出すだけ。そっちはふるさと納税でいただいたサラダの詰め合わせだ。


ええ、もちろん俺はFXだけやってるわけじゃないですよ。FXで得た利益は株の口座に投入しています。株だけは長期投資。目的は配当金と株主優待です。安定な収入がありがたいです。


「今日は屋敷-渡辺戦やった! 91手とかマジ長い! めっちゃ大変!」

「そうかあ。覚えるの大変そうだな」

カレーの匂いでテンションが上がっていた怜は、さながら筋トレを終えたかのような様子で上から降りてきた。

「てか矢倉みんな全然やってくれないから意味ないんだよね! みんな急戦ばっかだし。意味ない気がしてきたー」

「勉強に無駄なことなんてないぞ。よくわからんけどきっと意味はある」


FXもそうだった。一応、移動平均線だとかRSIだとかMACDとか、それなりにFXの専門用語を知って覚えたつもりではある。だが結局のところ、俺は勘でポジションを決めてしまっているのだが。恐らくその下地が生きているのだと無理矢理自分を納得させて。


怜はきっちり一人前を食べる。おかわりはしない。食べ過ぎると眠くなると知っているからだ。そのせいか同い年の子たちに比べて少し小柄な気もすると潤は心配している。


さて、手短に食事を済ませてパソコンに戻る。怜も戻っていった。時刻は19時30分。アメリカ時間までは余裕があるし、スキャ(スキャルピング)でもやるか。もちろん、さっきの注文が刺さっていたらの話だが。

チャートを見て思わずガッツポーズ。ドル円は145.97をつけてから146.22まで反発していた。思惑通りのナイストレードではないか。いまのチャートの形は上に行きそう。ド底で利確できたかもしれない。

潤は成行で10枚のロングを入れた。ドル円はもうしばらく上に行くと見て。今夜も例によって10pipsで利確する作業を続けていく。損切りは早めに。


91手定跡って屋敷-渡辺戦のほかに何があったっけ。ちょっと調べたいな。

怜は初めてパソコンの電源を押した。しかしそこからがわからない。怜は部屋を出て潤のもとに向かった。

「お父さん、パソコン教えて」

怜が扉を開くと、大きなモニターを前に口元を押さえる潤の姿があった。

「ん、ちょっと待ってな。1分だけ」

「数えるよ」

「んーこれだけちょっと待ってくれないか。このポジだけ」

「10秒~」

怜は記録係の真似をして潤を急かした。もしかしたら今年、棋士の養成機関、奨励会に入るかもしれないからだ。そこで奨励会員の真似をして慣れておく。いまは7月10日。奨励会の試験まであと1ヶ月くらいだ。怜の夢は将棋の棋士になること。その第一関門を通過できるかが、人生の分岐点であった。試験は1年に1回のみ実施される。アマ五段になった怜は合格する気満々であった。


「すまん、もうちょい待って」

「ねえ、てか何やってんの。仕事?」

「そんなもんだ」

「ふーん何これ」


それが怜とFXの最初の出会いだった。

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