最終章「カンブリア爆発前夜」
「銀河鉄道の夜」の最後のシーンが流れていた。ジョバンニが友人のカムパネルラの死を受け入れ、新たな決意を抱く瞬間。視聴覚室の静寂は、作品への深い没入を物語っていた。
本郷直樹は映写室の小窓から客席を見渡した。大学祭最終日、追加上映が決まった「想像力の冒険」の締めくくりだ。会場は再び満席。その中央あたりに、一人の男性が静かに座っていた。水沢だ。
普段の影のような存在感とは異なり、今日の水沢は妙に鮮明に見えた。まるで光を放っているかのように。本郷は不思議な感覚を覚えた。
スクリーンにエンドクレジットが流れ始め、徐々に会場の照明が上がっていく。
「上映は終了しました」安藤の声がスピーカーから流れた。「後ろの席の方から、順序よくご退出ください」
観客たちが次々と立ち上がり、感想を語り合いながら出口へと向かう。しかし水沢だけは席を立たず、何かをメモしていた。本郷は映写室を出て、フロアへと降りていった。
「やあ、本郷くん」北見が笑顔で近づいてきた。「今回も大盛況だったね」
「はい!」本郷も嬉しそうに答えた。「三日間で延べ500人以上の方に見ていただけたそうです」
「展示ブースの方も好評だったしね」高塚も満足げだった。「売上を合わせれば、部費の損失も回収できたよ」
「何より、新しい発見があったのが収穫だわ」村上がスケッチブックを抱えて言った。「これからもっと可能性が広がりそう」
「そうだな」橋本も珍しく嬉しそうだった。「三研究会の共同研究誌を定期的に発行する案も出ているしね」
会場はほぼ空になったが、水沢はまだ席に座り、何かを書き続けていた。
「水沢先生、まだいらっしゃるんですね」本郷が近づいていった。
水沢は顔を上げず、ただ黙々とメモを取り続けていた。その姿に、本郷は声をかけるのをためらった。
「あの、そろそろご退出いただけますか?」映画研究会の女子スタッフが水沢に声をかけた。「機材の片付けをしないといけないので…」
水沢はやっと顔を上げ、静かな声で言った。「今少し、感慨に浸りたい」
「では、五分ほどしたら、また声をかけます」スタッフは理解を示し、その場を離れた。
本郷は後ろの席で待っていることにした。水沢の背中には、何か特別なものを見ている人特有の緊張感があった。
「本郷くん、片付け手伝ってよ」村松が入り口から呼んだ。
「あ、はい!」本郷はもう一度水沢を見てから、仲間たちの元へ向かった。
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「これで最後の段ボールね」村上が汗を拭きながら言った。展示品の片付けも終わり、日が落ち始めていた。
「お疲れ様」北見が全員にお茶を配った。「三日間、本当によく頑張ったね」
「でも本当に成功だったな」高塚はため息をついた。「コミケでの失敗が嘘みたいだよ」
「失敗があったからこそ、新しい方向が見えたんだと思う」山下が児童文学研究会のメンバーと合流しながら言った。
「人生、時に回り道が必要なんだね」村松が哲学的に言った。
「それも進化のプロセスさ」橋本が付け加えた。「試行錯誤を繰り返しながら、環境に適応していく」
「そういえば」安藤が走ってきた。「水沢さんを知りませんか?視聴覚室で探しているんですが」
「えっ?」本郷は驚いた。「まだいらっしゃるんですか?」
「いえ、それが…」安藤は困った表情で言った。「女子スタッフが声をかけに行ったら、もういなかったそうです。でも彼の荷物か何かが残されていて…」
本郷は即座に立ち上がった。「見せてください」
安藤についていくと、視聴覚室は既に空っぽになっていた。片付けも進み、映写機も撤去されている。
「ここです」安藤は水沢が座っていた席を指した。そこには一枚の紙切れが置かれていた。
本郷は慎重にそれを手に取った。紙には一言だけが記されていた。
<カンブリア>
「カンブリア…」本郷はその言葉を繰り返した。
「何か意味があるの?」安藤が尋ねた。
本郷は大きく頷いた。「はい。カンブリア紀は、約5億4000万年前に始まる地質時代です。生命の爆発的多様化が起きた時代としても知られています」
「水沢さんは地質学者なの?」安藤は首をかしげた。
「いいえ…」本郷は言葉を選びながら言った。「彼は…私たちの文化の進化を見つめる人なんです」
後から入ってきた北見がその紙切れを見て、穏やかに微笑んだ。「水沢らしいね。最後まで謎めいたメッセージを残すなんて」
「でも今回は理解できます」本郷は確信に満ちた様子で言った。「水沢先生は、私たちがエディアカラ紀からカンブリア紀へ移行する瞬間に立ち会っているというんだと思います」
「そうか…」北見はゆっくりと頷いた。「彼が最初の日に言っていたこと、覚えてる?『エディアカラ紀の生命のように、形を変え始めている』って」
「それが今、カンブリア爆発を迎えようとしている」本郷は興奮気味に言った。「オタク文化が爆発的に多様化する時代の始まりを、彼は予見しているんです」
「本郷くん、詳しく説明してよ」安藤も興味を示した。
他のメンバーたちも集まってきて、本郷を囲んだ。
「エディアカラ紀は、単純な生物しかいなかった時代から複雑な生物が現れ始めた過渡期です」本郷は熱心に説明した。「そして続くカンブリア紀には、生命の基本的な形態がほとんど出揃うほど、爆発的な多様化が起きました」
「なるほど」橋本が眼鏡を直した。「我々のオタク文化も、単純な形態から複雑化し、今まさに爆発的多様化の瞬間を迎えようとしている」
「そういうことです!」本郷は目を輝かせた。「コミケの変化、アニメ雑誌の創刊ラッシュ、ビデオの普及…全部繋がっているんです」
「確かに一年前と比べても、随分変わった気がするわ」村上が思い返すように言った。「私たちが感じていた行き詰まりも、実は変化の前兆だったのかも」
「水沢先生は、最初からそれを見ていたんですね」本郷は紙切れを大切そうにポケットにしまった。
「彼は常に俯瞰的な視点を持っている」北見がしみじみと言った。「私たちが気づかないうちに、時代の大きな流れを見ていたんだ」
「でも彼はどこに行ったんだろう?」高塚が首をかしげた。
「それは…」本郷は微笑んだ。「多分、次の観測点に向かったんじゃないでしょうか」
視聴覚室の窓から、夕焼けが差し込んでいた。大学祭の最終日、キャンパスには後片付けの喧騒が響いている。
「さあ、私たちも次の段階に進もう」北見が全員に声をかけた。「カンブリア爆発の時代、何が生まれるか楽しみだね」
「新しい部室も見つかったことだし」村松が付け加えた。「来年は更に大きな企画ができるよ」
「映画研究会も、ぜひ協力させてください」安藤も嬉しそうに言った。
「児童文学研究会も、これからもよろしくね」山下も笑顔で言った。
彼らはキャンパスを後にし、喫茶アルデバランへと向かった。本郷は最後に振り返り、静かに呟いた。
「ありがとう、水沢先生」
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1984年11月の終わり、SF・マンガ研究会の新しい部室での初めての部会。壁にはまだポスターも貼られていないが、本棚には大切に運ばれた蔵書が並んでいた。
「さて、今日は来年の活動計画だ」高塚が黒板に大きく書いた。「春は新入生歓迎会、そして夏はコミケ、秋は大学祭」
「コミケは、もっと戦略的に参加しましょう」村上が提案した。「私たちのニッチを見つけないと」
「児童文学研究会との共同誌も企画しているしね」村松も言った。
議論が白熱する中、本郷は窓辺に立ち、キャンパスを見下ろしていた。冬の冷たい風が木々を揺らし、古い落ち葉が舞い上がる。そこに、一瞬、黒いコートの人影を見たような気がした。
「水沢先生…?」
しかしそれは錯覚だったようだ。本郷は再び部屋の中の話し合いに戻っていった。
「それじゃあ、新年度の同人誌のテーマは『メディア融合時代の創作論』で決まりだね」北見がまとめた。
「賛成!」全員が声を上げた。
本郷はポケットから一枚の紙を取り出した。<カンブリア>という文字が記された水沢の置き手紙だ。彼はそれを新しい部室の本棚の上に、小さな化石標本のように置いた。
それは彼らの冒険の始まりを示す標識だった。エディアカラからカンブリアへ。文化の深海で、新たな進化が始まろうとしていた。
(おわり)