第五章「祖先返り現象」
「全然…売れなかったね」
真夏の太陽が照りつける晴海の会場の出口前。高塚の言葉には深い落胆が滲んでいた。本郷と北見、橋本、村上、村松の全員が憔悴した表情で立ち尽くしていた。手には売れ残った同人誌『おたぴぽっ☆彡 特別号:メディア横断的SF考察』の束。
「50部刷って売れたのは7部だけか…」北見が溜息をついた。
「しかも3部は知り合いだし」村松が肩を落とした。
「どうして?」本郷は自分の初めての同人誌デビューが散々な結果に終わり、茫然としていた。「内容が悪かったのでしょうか」
「そうじゃないよ」村上が慰めた。「今回は場所が悪かったのよ。SFのテーブルなのに、周りはアニメやアイドルの同人誌ばかりで…」
「ジャンルの生態学的ニッチが急速に変化してるんだ」橋本が眼鏡を直した。「SFという種の生存空間が狭まっている」
「橋本、難しいこと言ってる場合じゃない」高塚はイライラした様子だった。「部費からの持ち出しが大きくて、今後の活動資金がヤバいんだよ」
「それに大学祭の企画も控えてるしね…」北見が心配そうに言った。
夏コミでの惨敗。これが彼らにとっての最初の挫折だった。
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九月初め、新学期が始まって最初の部会。SF・マンガ研究会の部室には重苦しい雰囲気が漂っていた。
「大学祭まであと二ヶ月だけど、正直なところどうする?」高塚が全員を見回した。「コミケの反省を踏まえて、規模を縮小するか?」
「そういう選択肢もあるわね」村上もあまり元気がなかった。
「僕は…」本郷が控えめに手を上げた。「せっかく大学から認められた企画だし、このまま進めるべきだと思います」
「気持ちはわかるが」北見が優しく言った。「現実的に考えると、人手とお金の問題がある。あんまり無理はできないんだよ」
「確かに…」本郷は肩を落とした。
そのとき、部室のドアがノックされた。
「失礼します」
ドアを開けたのは、痩せ型の青年だった。黒縁眼鏡をかけ、カメラをぶら下げている。
「あ、安藤くん」村松が立ち上がった。「映画研究会の人だよ」と他のメンバーに説明した。
「こんにちは」安藤は軽く会釈した。「実は大学祭の件で提案があって来ました」
「大学祭?」高塚が眉を上げた。
「はい。SF・マンガ研究会さんと児童文学研究会さんの合同企画『想像力の冒険』に、私たち映画研究会も参加させてもらえないかと」
「映画研究会?」橋本が興味を示した。「どんな形での参加を考えてるんだ?」
「映像作品の上映です」安藤は真剣な表情で言った。「私たち映画研究会は、本格的なフィルム上映の機会を探していました」
「フィルム上映?」北見が尋ねた。「それってビデオテープじゃなくて?」
「そうです」安藤の目が輝いた。「35mmフィルムによる本格的な映画上映です。機材のレンタル、上映許可の取得など、すべて私たちが責任を持ちます」
「でも、どんな映画を?」村上が疑問を投げかけた。
「それが」安藤はためらいつつも続けた。「上映作品については、SF・マンガ研究会さんの意向に従いたいと思っています。私たちが希望するのは、上映の経験そのものなんです」
「なるほど…」高塚が少し表情を明るくした。
「要するに、私たちの映画上映の技術と皆さんのSF・アニメの知識を組み合わせた企画ということですね」北見が理解を示した。
「まさにそうです!」安藤は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、例えばどんな映画が上映できるの?」村上が興味深げに尋ねた。
「そうですね…」安藤は考え込んだ。「『銀河鉄道999』とか、『機動戦士ガンダム』の劇場版とか、可能性はあります。ただ、上映権の問題もあるので調査が必要です」
「999!?」本郷の目が輝いた。「本当に上映できるんですか?」
「がんばってみます」安藤は微笑んだ。「詳細は映画配給会社に問い合わせないとわかりませんが」
部室内の空気が一変した。先ほどまでの重苦しさが消え、メンバーたちの目に再び光が戻ってきた。
「これは面白そうだ」高塚が立ち上がった。「みんなどう思う?」
「協力すべきだと思います!」本郷は即答した。
「私もすごくいいと思うわ」村上も賛成した。
「じゃあ、まずはどんな作品が上映可能か調査してみよう」北見が実務的な提案をした。「安藤くん、山下さんにも話は?」
「はい、児童文学研究会の山下さんにも先ほど話しました」安藤が答えた。「宮沢賢治原作『銀河鉄道の夜』アニメ版の上映についても興味を示されました」
「それいいな!」村松が言った。「SF映画と児童文学アニメの二本立てなんて」
「大学祭で『祖先返り現象』の実践だ」橋本がニヤリと笑った。
「また変なこと言い始めた」高塚は眉をひそめた。
「いや、今回は的確だと思います」本郷が珍しく橋本に同意した。「生物進化で、祖先の特徴が再び現れる現象を祖先返りと言いますよね。私たちの企画も、初期のSFやアニメ、つまり『祖先』に立ち返るわけですから」
「本郷、わかってるじゃないか」橋本は満足げに頷いた。
「それなら企画のサブタイトルも『想像力の系譜』とか『創造の源流』みたいにしてみたら?」村上がアイデアを出した。
「いいね!」高塚の目が輝いた。「『想像力の冒険 ―創造の源流を辿る―』」
「じゃあ」安藤は嬉しそうに言った。「上映作品の可能性を調査して、また報告に来ます」
安藤が帰った後、部室には再び活気が戻っていた。
「1979年公開の『銀河鉄道999』か…」村松が懐かしそうに言った。「マストアイテムの時代よね」
「マストアイテム?」本郷が首をかしげた。
「当時のオタクの三種の神器とも言われたんだ」北見が説明した。「『999』の映画と『ヤマト』の映画、そして『ガンダム』のTV放送。これを全部見ていないとオタクとして認められないみたいな」
「文化の空白地帯だな」橋本が言った。「若い世代は原点を知らない。だからこそ、『祖先返り』は意義がある」
「私たちのコミケでの失敗も、そういう意味では必然だったのかも」村上がしみじみと言った。「時代が変わりつつあることに気づけなかった」
「でも今度は違う」高塚が力強く言った。「むしろ時代の変化を利用して、新しい価値を作り出すんだ」
その時、静かな声が響いた。
「古典回帰」
振り向くと、水沢が入ってきていた。
「水沢先生」本郷が驚いた声を上げた。
「文化の進化において、祖先への回帰は重要な役割を担う」水沢は静かに言った。「新たな進化の糧となるのだ」
「まさにその通りですね」北見が頷いた。「原点に立ち返り、そこから新たな出発をする」
「古いフィルムでの上映という形式もまた、アナログ回帰の現れだ」水沢は本棚から一冊の本を取り出した。「進化は常に螺旋状に進む」
「螺旋」本郷はその言葉を噛みしめた。「同じところに戻るのではなく、少し高い場所に上がりながら回帰する…」
「本郷、またいいこと言うね」高塚が肩を叩いた。「おい皆、企画書を修正しよう。映画研究会との協力を含めた新しいプランだ」
全員が新たなビジョンに向けて動き始めた。コミケでの敗北感は消え、再び前を向く力を取り戻していた。
本郷は窓辺に立つ水沢を見つめた。彼はいつもどこか超然としているのに、今日は少し表情が柔らかいような気がした。
「古きを温ねて新しきを知る」水沢は静かに言った。「論語の言葉だ」
本郷は深く頷いた。彼らの大学祭企画は、単なるイベントではなく、文化の継承と革新の場になりつつあった。
(つづく)