第二章「ジャンルの分岐点」
「本郷、こっちこっち!」
高塚の声に導かれ、本郷直樹は部室のソファに座った。入部から一週間、彼はすでにSF・マンガ研究会のペースに少しずつ馴染みつつあった。今日は水曜日、定例の部会の日だ。
「今日は春アニメ感想会だぞ!」高塚は嬉しそうに言った。「みんな何か見てる?」
「『機動戦士Zガンダム』はチェックしてるわ」村上が手に持っていたスケッチブックから顔を上げた。「あと『プロポーズ大作戦』も」
「またロマンティックなの?」高塚は少し呆れた顔をした。
「だって面白いんだもの」村上は舌を出した。「高塚くんこそ、またロボットアニメでしょ?」
「当然だろ!」高塚は胸を張った。「Zガンダムは革命だ。従来のロボットアニメの概念を根底から覆す作品になるぞ」
「革命か」北見が微笑んだ。「確かにガンダムは大きな転換点だった。でも、その評価は早急かもしれないね」
「でも北見先輩」高塚が食い下がる。「一話でのカミーユの描写、あれはこれまでの主人公像を壊してますよ。暴力的だし、反抗的だし……」
「その通りだ」橋本が眼鏡を光らせながら割り込んできた。「これは文化的パラダイムシフトと言っていい。旧来の英雄主義的ナラティブに対するアンチテーゼとして機能している」
「あ、橋本先輩」本郷が恐る恐る発言した。「僕もZガンダム見ました。でも、何だか話についていくのが大変で……」
「初めてなら仕方ないよ」北見が優しく言った。「元々のガンダムを知らないと、設定や状況が分かりにくいからね」
「そうそう!」高塚が立ち上がった。「本郷、そんなお前に朗報だ。来週末、うちでガンダムマラソン上映会をやるぞ!」
「マラソン?」
「全話一気見のことよ」村上が説明した。「高塚くんの下宿で、みんなでビデオ見るの」
「全43話よ」橋本が付け加えた。「単純計算で約16時間。睡眠を除いて2日間かかる大事業だ」
「えっ、そんなに長時間……」本郷は驚いた。
「大丈夫、途中で休憩するし、全部見なくてもいいんだ」北見が笑った。「ただのオタクの集いさ」
「オタク……」本郷はまだその言葉に慣れていなかった。
その時、部室のドアが開いた。
「やあ、みんな」
入ってきたのは初対面の男性だった。がっしりとした体格の青年で、髪は短く刈り上げ、爽やかな印象を与える。彼は手に大きなボストンバッグを提げていた。
「あ、村松!」高塚が嬉しそうに叫んだ。「久しぶり!教育実習、終わったのか?」
「ああ、なんとかね」村松と呼ばれた青年は笑った。「本郷くんだよね?初めまして、村松和彦。教育学部の3年生だよ」
「あ、同じ学部ですね!」本郷は立ち上がって挨拶した。「よろしくお願いします」
「こっちこそ。教育実習で忙しくてごめんね」村松はボストンバッグを床に置いた。「ほら、今日はお土産よ」
村松はバッグを開け、中から数本のビデオテープを取り出した。
「じゃじゃん!『聖戦士ダンバイン』全話録画!」
「おお!」高塚の目が輝いた。「すげえ!どうやって録ったんだ?」
「実習先の先生がマニアでね。全話持ってたんだ」村松はにやりと笑った。「『スペース・コブラ』も全部あるって言ってたよ」
「マジで?」高塚は興奮していた。「その先生に会わせてくれよ!」
「高塚くん、落ち着いて」村上は呆れ顔だ。「ところで村松くん、『うる星やつら』は録れた?」
「ごめん、それはまだ。今度また行くときに頼んでみるよ」
「村松先輩はビデオにお詳しいんですか?」本郷が興味深そうに尋ねた。
「ああ、家にはベータマックスがあるんだ」村松は少し誇らしげに言った。「両親が買ってくれてね。結構高かったらしいけど」
「ベータって、もう時代遅れじゃないの?」村上が言った。「今はVHSの時代よ」
「いやいや、画質はベータのほうが上だぞ」村松は真面目な顔で反論した。「VHSは録画時間が長いだけだ」
「でも、ビデオレンタル店はほとんどVHSしか置いてないじゃん」高塚が言った。
「それは確かに……」村松は少し悔しそうに認めた。
本郷はこのやり取りを興味深く聞いていた。彼の実家にはまだビデオデッキがなかった。アニメは放送時間に合わせて見るしかなく、見逃せば二度と見られないものだと思っていた。録画の存在は彼にとって革命的だった。
「ところで、水沢先生は?」村松が部屋を見回した。
「今日はまだ見てないね」北見が答えた。「最近、忙しいのかな」
「水沢先生って、いつも何をしてるんですか?」本郷が尋ねた。
「さあ?」高塚は肩をすくめた。「誰も知らないよ。たまに部室に現れては、ぼそっと謎めいたことを言って、また消える」
「サークルの幽霊会員だね」北見が笑った。「でも創設メンバーの一人だから、一目置かれてるんだ」
「創設メンバー?このサークルって何年前からあるんですか?」
「10年くらい前かな」北見は懐かしそうに言った。「最初は『SF研究会』って名前だったんだ。当時はSFブームで、小松左京とか筒井康隆とか、そういう作家の小説を読むサークルだった」
「それが今やこんな感じ」高塚は部室を見回した。壁にはアニメのポスターが所狭しと貼られ、『アニメック』や『ニュータイプ』といった雑誌が積まれている。「時代は変わるよな」
「10年前といえば……」本郷は計算した。「1974年ごろですか」
「そうだね」北見が頷いた。「ちょうど『宇宙戦艦ヤマト』が放送された頃だよ」
「『ヤマト』!」本郷の目が輝いた。「僕、劇場版見ました!」
「『さらば宇宙戦艦ヤマト』か」北見は懐かしそうに笑った。「あれは青春だったなあ」
「ところで」橋本が話題を変えた。「村上の話だけど、『プロポーズ大作戦』って、あれは少女向けアニメだよね?」
「そうよ」村上はスケッチブックに何かを描きながら答えた。「面白いわよ。少女の恋愛がテーマなんだけど、キャラクターの掘り下げが素晴らしいの」
「俺、少女アニメって見たことないな」高塚が首をかしげた。
「もったいないわよ」村上は顔を上げた。「『魔法の天使クリィミーマミ』とかすごいのに」
「変身ものかあ」高塚は興味なさそうだ。「俺はやっぱりロボットだな」
「ジャンル偏重主義者」橋本が高塚を批判した。「文化的視野の狭窄は創造性の枯渇を招くぞ」
「なんだよ、お前だって評論しか書かないじゃないか」高塚が反論した。
「批評と創作は表裏一体だ」橋本は眼鏡を直した。「私は批評を通じて創造的対話に参加しているのだ」
「はいはい」高塚は諦めたように手を振った。「で、本郷は何が好きなの?」
「え?」本郷は突然振られて戸惑った。「鉄道と……SFが……」
「いやいや、アニメジャンルの話だよ」高塚が笑った。「ロボットアニメ?SF?それとも少女アニメ?」
「あの……」本郷は考え込んだ。「僕、実はSFなら何でも好きで……『宇宙戦艦ヤマト』も好きだし、『銀河鉄道999』も」
「おお、松本零士ファンか」北見が興味を示した。
「『999』は少女漫画雑誌に連載されてたのよ」村上が付け加えた。「ジャンルの境界って曖昧なのよね」
「そういえば、本郷くんって鉄道好きなんだよね?」村松が話に加わった。「最近、『銀河鉄道の夜』のアニメ映画やってるよ。宮沢賢治の」
「えっ、本当ですか?」本郷は目を輝かせた。「それ、見たいです!」
「よし、今度の日曜日に行こう」村松が提案した。「教育学部生同士、親睦を深めようじゃないか」
「ありがとうございます!」本郷は本当に嬉しそうだった。
「いいなあ」高塚は少し拗ねた様子で言った。「俺も行きたい」
「高塚くんも来る?」村松は少し驚いた顔をした。「お前、アニメ映画だったら『ゴジラ』しか見ないって言ってなかったか?」
「うるさいなあ」高塚は頬を膨らませた。「SFなら何でも見るさ」
「じゃあ、日曜日にみんなで行きましょう!」村上が嬉しそうに言った。「橋本くんも来る?」
「構わないが」橋本は本から顔を上げた。「映画の社会学的考察を行う良い機会だ」
「考察はいいから純粋に楽しめよ」高塚がツッコんだ。
「批評的視点を持つことと享受することは矛盾しない」橋本が反論した。
本郷はこのやり取りを見ながら、なんだか嬉しくなった。一週間前までは知らなかった先輩たちとこうして話せること。趣味について熱く語れること。これが大学生活なのか、と彼は思った。
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日曜日、本郷は約束の映画館前で待っていた。少し早めに来たせいか、まだ誰も来ていない。彼は映画館の前に貼られたポスターを見ていた。「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」と書かれ、星空を走る幻想的な列車の絵が描かれている。
「お、本郷。早いな」
振り返ると、村松が手を振っていた。彼の隣には見覚えのない女性がいた。
「あ、村松先輩。おはようございます」
「おはよう。あ、紹介するよ。こちらは山下里奈さん、教育学部の3年で、俺の幼馴染なんだ」
「はじめまして、山下です」女性は丁寧に挨拶した。長い黒髪に大きな瞳、控えめな印象の美人だった。
「あ、本郷直樹です。教育学部1年です。よろしくお願いします」本郷は少し緊張した様子で頭を下げた。
「里奈は児童文学研究会の会員でね」村松が説明した。「賢治は彼女の研究テーマなんだ」
「へえ、すごいですね」本郷は感心した。
「大したことじゃないわ」山下は控えめに笑った。「村松くんから聞いたわ。鉄道が好きなんですって?」
「はい、特に蒸気機関車が」
「『銀河鉄道の夜』にも蒸気機関車が出てくるものね」山下は優しく言った。「きっと気に入ると思うわ」
その時、遠くから高塚の声が聞こえた。
「おーい!待たせたな!」
高塚、北見、橋本、村上の四人が歩いてきた。
「やあ、みんな来たね」村松が手を振った。「こちら山下里奈さん。俺の幼馴染で、今日一緒に映画を見るよ」
「はじめまして」山下は一同に挨拶した。
「おー、村松のお友達ね」村上は女性同士、親しげに手を握った。「よろしく!」
「村松、やるじゃないか」高塚が意味ありげに村松の肩を叩いた。
「何言ってんだよ」村松は苦笑した。「里奈とは幼稚園からの知り合いなんだから」
「まあまあ」北見が場を取り持った。「そろそろ映画が始まるよ。中に入ろうか」
映画館に入ると、思ったより客が多かった。SFファンだけでなく、文学ファンも多そうだった。本郷は村松と山下に挟まれる形で席に着いた。
「私、この映画すごく楽しみにしてたの」山下が小声で言った。「原作は何度も読んだけど、映像化されるのは初めてでしょ?」
「僕も楽しみです」本郷は頷いた。「あの、山下さんは宮沢賢治の他の作品も研究されてるんですか?」
「ええ。『注文の多い料理店』とか『風の又三郎』とか」山下は嬉しそうに答えた。「でも『銀河鉄道の夜』が一番好き。あの宇宙的なスケールと、心の内面への旅が同時に描かれる二重性が魅力的だと思うの」
「へえ」本郷は感心した。「僕は正直、蒸気機関車が出てくるからという理由で好きになったんですけど……」
「それもいいと思うわ」山下は微笑んだ。「作品との出会いに正しい理由なんてないもの」
映画が始まった。星空を走る幻想的な列車。主人公ジョバンニの孤独と友情。宇宙的なスケールの冒険。本郷は映像の美しさに魅了されていた。特に蒸気機関車が宇宙を走る描写は、彼の鉄道ファンとしての心を強く打った。
上映が終わり、場内が明るくなると、本郷はなんだか夢から覚めたような感覚だった。
「どうだった?」村松が隣で尋ねた。
「すごくよかったです」本郷は率直に答えた。「蒸気機関車と宇宙が組み合わさるなんて……まるでSFみたいでした」
「そうね」山下が言った。「賢治の世界観はSFに近いところがあるわ。宇宙的な視点と科学への関心が融合しているの」
劇場を出ると、高塚がみんなを集めた。
「よし、みんな!喫茶アルデバランで感想会だ!」
「その前に」橋本が言った。「山下さんは児童文学研究会とおっしゃいましたが、その研究会ではどのような活動を?」
「ああ、主に作品読解会と、時々創作ワークショップをしてるわ」山下が答えた。「あと、年に一回、創作集も出してるの」
「創作集?」村上が興味を示した。「それって、同人誌みたいなもの?」
「そうね、近いかも」山下は頷いた。「みんなの創作や研究をまとめて印刷して、大学祭で配ってるの」
「うちも同人誌出してるのよ!」村上は嬉しそうに言った。「次はコミケに出る予定なの」
「コミケ?」
「コミックマーケット」橋本が説明した。「日本最大の同人誌即売会だよ」
「へえ、すごいわね」山下は感心した様子だった。「どんな内容なの?」
「SFやアニメの評論と、村上のイラストが中心だ」北見が言った。「橋本が書いた『ガンダムにおける戦争表象の文化的意義』とか」
「それって、アニメの本なの?」山下は少し首をかしげた。
「そうよ。アニメや漫画は真面目な批評対象になるのよ」村上が熱く言った。「大衆文化だからって、軽視されるべきじゃないわ」
「わかるわ」山下は頷いた。「私も児童文学は軽視されがちだと感じてるもの。でも、そこには豊かな世界があるのに」
「そうそう!」村上は嬉しそうに山下と意気投合した。「そういう既成概念を壊していきたいのよね」
「喫茶店で続きを話そう」北見が提案した。「里奈さんもよかったら」
「ええ、ぜひ」
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喫茶アルデバランでは、いつものテーブルに加え、もう一つテーブルを接続して大きく囲んだ。
「山下さん、何か注文する?」村松が訊いた。
「ホットチョコレートをいただくわ」
「マスター、ホットチョコレート一つと、あとは皆いつもの」高塚が大きな声で注文した。
「はいよ」山岡マスターが頷いた。「お、新しい顔だね」
「こちらは山下里奈さん、村松の幼馴染みです」北見が紹介した。
「いらっしゃい」山岡は微笑んだ。「児童文学研究会の子だっけ?山下先生の研究室の」
「ええ、そうです」山下は少し驚いたようだった。「マスターはご存知なんですね」
「ここは大学近くだからね。いろんな学生が来るよ」山岡は楽しそうに言った。「山下先生自身もたまに来るしね」
「ところで、映画の感想を聞かせてよ」村上が話題を戻した。「私はあのカムパネルラの存在が気になったわ。あれって死者の象徴よね?」
「そうなのよ」山下が嬉しそうに話に乗った。「カムパネルラは川で溺れて死んでいて、あの列車は実は死者を運ぶ乗り物なの。ジョバンニだけが生きている」
「まじか」高塚は驚いた様子だった。「俺、気づかなかった」
「賢治の作品には死と再生のテーマが多いのよ」山下は熱心に説明した。「生と死の境界線が曖昧で、現実と異界が交錯する」
「それって『聖戦士ダンバイン』のバイストン・ウェルみたいだな」高塚が言った。
「え?」山下は聞き返した。
「『聖戦士ダンバイン』っていうアニメの異世界だよ」高塚は説明した。「生と死の境界線が曖昧で、現実世界と行き来できる」
「なるほど」山下は興味深そうだった。「アニメでもそういうテーマを扱うのね」
「そうなんですよ」本郷が勇気を出して話に加わった。「実は、僕は宮沢賢治と手塚治虫に共通点があると思ってて……。両方とも科学と空想を融合させていて……」
「それは面白い視点ね」山下は本郷に優しく微笑んだ。「確かに賢治は科学者でもあったし、空想と科学の融合が特徴だわ」
「俺も『火の鳥』とか読んだけど、確かに通じるものがあるな」村松も頷いた。「ジャンルを超えた普遍的なテーマってことか」
「まさにそうよ」山下の目が輝いた。「私たちが研究や創作で扱っているものは、形式は違っても根本的には同じなのかもしれないわ」
「しかし」橋本が眼鏡を直した。「ジャンル間の差異も無視できない。アニメという媒体特有の表現技法は、文学とは本質的に異なる部分があるだろう」
「そうね」山下は考えながら言った。「媒体による表現の違いはあるわ。でも、根底にある人間の創造性や表現衝動は共通しているんじゃないかしら」
「なるほど……」橋本は珍しく感心したように頷いた。
「それにしても」北見が話題を変えた。「最近、趣味の細分化が進んでるね。昔は『SF好き』といえば、小説もアニメも漫画も映画も、全部ひっくるめてだった。今は違う」
「ねえねえ、皆は自分のこと何オタクって思ってる?」村上が突然聞いた。
「はあ?」高塚は首をかしげた。
「だから、アニメオタク?漫画オタク?それとも別の?」
「俺はガンプラオタクだな」高塚が即答した。「ロボットアニメは好きだけど、プラモデル作るのが一番好きだし」
「私はマンガ・イラストかな」村上が考えながら言った。「特に少女マンガとその周辺」
「僕は……」橋本は少し考えた。「批評オタクと言うべきかな。媒体よりも分析することが好きだ」
「俺は総合オタクだな」北見が笑った。「年代的に古いタイプだから、何でも広く浅く」
「村松くんは?」村上が尋ねた。
「俺はビデオオタクかな」村松は少し照れながら言った。「録画して保存するのが好きなんだよね」
「本郷くんは?」
「僕は……」本郷は考え込んだ。「鉄道オタクであり、SFオタクでもあり……うーん、まだ自分でもよくわからないです」
「それでいいのよ」村上は優しく言った。「オタクのジャンルなんて、これからどんどん増えていくし、変わっていくものだもの」
「山下さんは?」高塚が訊いた。「自分をオタクだと思う?」
「私?」山下は少し驚いた様子だった。「そうね……児童文学や宮沢賢治に対する愛は、確かに普通じゃないかも。そういう意味では、児童文学オタクかもしれないわね」
「まさにそれが興味深い現象だ」
突然、静かな声が聞こえた。振り返ると、水沢が店の入り口に立っていた。
「水沢先生!」高塚が驚いた声を上げた。「珍しいですね、アルデバランに来るなんて」
水沢は静かに頷き、ゆっくりと彼らのテーブルに近づいてきた。いつものように黒いジャケットを着て、長い前髪が目元を隠している。
「山下さん、こちらは水沢先生」北見が紹介した。「SF・マンガ研究会の創設メンバーの一人で、現在は大学の研究員をされています」
「はじめまして」山下は丁寧に挨拶した。
水沢は小さく頷き、静かに言った。「ジャンルの分岐点に立っている」
「え?」山下は少し戸惑った様子だった。
「水沢先生はよく謎めいたことをおっしゃるんです」村上が笑いながら説明した。「気にしないで」
「なるほど……」山下はまだ少し困惑していた。
水沢はカウンターに向かい、山岡と短く言葉を交わした。山岡はコーヒーを一杯用意し始めた。
「水沢先生が言ってたこと、わかる気がする」本郷が小声で言った。「僕たちは今、趣味のジャンルが分かれ始めている時代にいるんですよね」
「そうだな」北見が頷いた。「かつてはSFファンと言えば、小説から映画までひとくくりだった。それが今や、アニメファン、特撮ファン、ロボットファン、宇宙モノファンと細分化されている」
「エディアカラからカンブリアへ」
水沢が突然、カウンターから声をかけてきた。
「先生、また難しいこと言ってますね」高塚が笑った。
「いや、わかるぞ」橋本が真面目な顔で言った。「エディアカラ紀は生物の形が多様化し始めた時代、カンブリア紀はさらに爆発的に種が増えた時代だ。オタク文化が今、エディアカラからカンブリアへの移行期にあるという比喩だろう」
水沢はコーヒーを受け取り、わずかに頷いた。
「すごい」山下は感心した様子だった。「そういう視点で文化を見るなんて」
「水沢先生はね」北見が説明した。「物事を大きな歴史的視点で捉える人なんだ。彼にとっては、私たちの活動も進化の一部分なんだよ」
「でも進化って言うと、前より良くなるってことでしょ?」高塚が言った。「オタク文化は進化してるのかな?」
「進化は必ずしも『より良く』ではなく、『環境に適応する』ということだ」橋本が説明した。「多様性が増すことで、さまざまな環境に適応できる可能性が広がる」
「なるほど」村松が頷いた。「だから俺たちは、それぞれ違うジャンルに興味を持ちながらも、このサークルで一緒にいられるんだ」
水沢は黙ってコーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。
「私、ちょっと考えさせられたわ」山下が言った。「確かに私たちの研究会と皆さんのサークルは、表面上は違うように見えるけど、根本にある『表現への情熱』は同じなのかもしれない」
「そうですね」本郷も頷いた。「僕、今日の映画で思ったんですが、宮沢賢治も松本零士も、宇宙と鉄道を結びつけるイマジネーションがあって。ジャンルは違っても、想像力の根っこは繋がってるんじゃないかって」
「おっ、本郷、いいこと言うじゃん」高塚が感心した。
「それに」村上が付け加えた。「今までは別々だった趣味の交流が生まれることで、新しい創造が生まれるかもしれないわね」
北見はゆっくりと頷いた。「そうだね。実際、昔はSF小説好きだった人たちが、アニメやマンガに興味を持つようになって、このサークルも変わってきた。今後もどんどん変わっていくだろうね」
「個人的にはね」村松がカップを置いた。「趣味はどんどん細分化してもいいと思うんだ。それぞれが深く掘り下げることで、全体の文化も豊かになるんじゃないかな」
「橋本的に言えば『部分の深化と全体の調和』ですかね」高塚がからかうように言った。
「その表現は悪くない」橋本は珍しく素直に認めた。
「ねえ」山下が村上に向かって言った。「今度、うちの研究会の創作集、見せてあげるわ。そのかわり、SF・マンガ研究会の同人誌も見せてもらってもいい?」
「もちろん!」村上は目を輝かせた。「実は次号の企画考え中なの。児童文学と漫画の接点みたいなテーマとか、どう?」
「いいわね!」山下も嬉しそうだった。
「やれやれ」高塚は笑った。「また新しいジャンル誕生の瞬間か」
皆が笑うなか、水沢はコーヒーを飲み終えて立ち上がった。彼は黙って会計を済ませ、出口に向かった。
「あ、水沢先生、もう帰っちゃうんですか?」本郷が声をかけた。
水沢は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「枝分かれは始まったばかりだ」
そう言って、彼は静かに店を出ていった。
「相変わらず謎めいてるな」高塚が首をかしげた。
「でも何となくわかる気がするわ」山下が言った。「私たちは今、何か大きな変化の始まりに立ち会っているのかもしれない」
「山下さん、次も一緒に映画見に行きませんか?」本郷が勇気を出して提案した。「今度は『ナウシカ』が上映されるそうです」
「宮崎駿の新作よね」山下は微笑んだ。「ぜひ行きましょう。その世界も見てみたいわ」
「そうと決まれば」高塚は立ち上がった。「次の部会で上映会の計画を立てよう!」
「いつの間にか『上映会の計画』になってる」村松は笑った。
「いいじゃない」村上も嬉しそうだった。「山下さん、機会があればうちの部室にも遊びに来てね」
「ありがとう。ぜひ行ってみるわ」
彼らがアルデバランを出るとき、春の陽射しが街を明るく照らしていた。本郷は村上と山下が映画の話で盛り上がる様子を見ながら、なんだか胸がいっぱいになるのを感じた。一週間前とは違う景色が見えているような気がした。
SFと児童文学、アニメとマンガ、小説と映画。それらは確かに違うものだけど、どこかでつながっている。そして、それを愛する人たちも、互いに理解し合える。
本郷は水沢の言葉を思い出した。「枝分かれは始まったばかりだ」。
まさに今、文化は新たな枝を伸ばし始めている。そして彼らはその分岐点に立っているのだ。
(つづく)
作中における、アニメ作品などの年代は、現実を全く無視しています。
ま、アニメに限らず全部適当ですけど・・・ごめんなさい。
しゃれにならないパラレルワールドぶり、資料的価値は皆無でございます。
これに限らずですが・・・