第一章「エディアカラの夜明け」
1984年4月、昭和59年の春風が新学期の始まりを告げていた。県立東陽大学の古びた理工学部棟の最上階、かつては化学標本室だったという狭い一室。その扉の前で本郷直樹は深呼吸をした。
「SF・マンガ研究会……」
ドアに貼られた紙には、その名と共に宇宙戦艦の絵、ロボットのシルエット、そして「オタクでもイイじゃない!」というややきまりの悪いキャッチフレーズが書かれていた。本郷は再び深呼吸し、軽く頭を下げてから恐る恐るドアをノックした。
「入ってるよー!」
明るい声に促されて、本郷はドアを開けた。
それは彼が想像していた以上にカオティックな空間だった。四畳半ほどの狭い部屋に、本棚、机、ソファ、そして山のように積まれた雑誌や漫画単行本。壁にはアニメのポスターが所狭しと貼られ、古い一畳敷きの畳の上には、組み立て途中のプラモデルが散乱していた。とあるロボットアニメの主題歌がカセットデッキから流れている。
部屋には三人の先輩らしき人物がいた。
「あの、SF・マンガ研究会ですか?」
「おう、そうだよ。新入生か?」
ソファから立ち上がったのは中肉中背の青年だった。髪はやや長めで、黒縁のメガネをかけている。肩からかけた白衣が彼に妙な威厳を与えていた。
「は、はい。本郷直樹と申します。教育学部一年です。あの、入部希望なんですが……」
「おお!新入部員か!」白衣の青年が勢いよく言った。「俺は高塚修、経済学部四年で部長やってる。よろしく!」
「よろしくお願いします」本郷は丁寧に頭を下げた。
「珍しいな、一年の男子が教育学部なんて」
テーブルで分厚い本を読んでいた痩せた青年が顔を上げた。彼は黒縁の眼鏡をかけているが、高塚より太いフレームで、なにか学者じみた雰囲気を漂わせていた。
「ええと、はい……」本郷は少し戸惑った。
「気にするな」高塚がにやりと笑う。「あいつは橋本和也、哲学科の三年生。難しいこと言うのが好きなだけだから」
「言葉の記号論的解釈と文化的コードの相関性は、単純な好悪の問題ではない」橋本は眼鏡を直しながら言った。「本郷君、教育学部ならプロセリアック・アプローチに興味はあるかな?」
「はあ……」
「橋本、新入生相手にマウント取るのやめろよ」
部屋の隅から女性の声がした。そこにはショートヘアの女性が、小さなデスクでなにかを描いていた。彼女は振り返ると、明るい笑顔で本郷に手を振った。
「村上雪よ。文学部三年生。唯一の女子会員だから、なにかあったら頼ってね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
本郷は再び頭を下げた。彼は鞄から一冊の雑誌を取り出した。『鉄道ファン』という雑誌だ。
「あの、僕はもともと鉄道が好きで……でも最近SFにも興味があって……」
「鉄っちゃんか!」高塚は目を輝かせた。「うちにも鉄道好きはいるぞ。北見先輩とか……って、北見先輩まだ来てないか」
「ほら、大学院生はまだ授業も始まってないし」村上が言った。
「あ、そうそう!本郷、お前模型作れる?」高塚がにわかに食いついてきた。
「模型ですか?」
「そう、プラモデルとか。鉄道模型作ってる人は手先が器用なんだよな」
「まあ、一応……」
「よし、決まり!」高塚は拳を握った。「うちは毎年大学祭で模型展示するんだ。今年はお前にも手伝ってもらう!」
本郷が困惑していると、部室のドアが再び開いた。
「おや、新入部員かな?」
入ってきたのは少し年上に見える男性だった。髪に白いものが交じり始め、しかし表情は若々しい。白いターバン帽と、風合いの良い古いジーンズというなにか時代錯誤な出で立ちだ。
「あ、北見先輩!」高塚が嬉しそうに声をあげた。「いらっしゃい。新入部員が来たよ」
「北見透です。この大学の博士課程に在籍中」北見は穏やかな笑顔で本郷に向き直った。「大学院では電子工学を専攻しているけど、このサークルではただの古参オタクさ」
「お、おたく?」本郷は少し首をかしげた。
「ああ、まだあまり一般的じゃないか」北見は腕を組んだ。「まあ、マニアとか、ニュータイプとか、いろんな言い方があるけどね。同じ趣味を持った者同士、仲良くやろう」
北見は本郷の肩をポンと叩き、それから棚の方へ向かった。目当ての本を探している様子だ。本郷はやっと落ち着いて部屋を見回した。
そのとき、彼は奇妙なものに気がついた。部屋の隅、ちょうど古い本棚の横の暗がりに、誰かが立っていたのだ。薄暗くて、最初は気づかなかった。
「あの、そちらの方は……」
「ああ」高塚の声のトーンが少し変わった。「水沢先生だ。うちの創設メンバーの一人で、今は大学の研究員をやってる」
「研究員……」
薄暗い隅から一歩前に出た男性は、黒いジャケットに黒いジーンズという出で立ちで、まるで影のように見えた。やせ型で年齢は不詳、長い前髪が目元を隠している。彼が本郷を見て微かに頷いた。
「あの、よろしくお願いします」本郷は丁寧に頭を下げた。
水沢は小さく頷くだけで何も言わなかった。そして再び本棚の影に戻っていった。
「水沢先生はあまり話さない人なんだ」高塚が小声で説明した。「けど、すごい人なんだぜ。SF小説書いてるし、このサークルが始まった頃からのメンバーなんだ」
「へえ……」
「よし、早速部費を集めようか!」高塚が急に言い出した。「月300円、入会金は500円ね」
「あの、部費は何に使うんですか?」
「ビデオテープ代とか、模型の材料費とか」高塚は鼻を鳴らした。「一番大きいのはコミケ遠征費かな」
「コミケ?」
「コミックマーケット」橋本が説明した。「同人誌即売会の最大手だよ。晴海の東京国際見本市会場でやる。年三回から年に二回に減った。」
「同人誌?」
「自分たちで作る本だよ」村上が席を立ち、机の引き出しから一冊の小冊子を取り出した。『おたぴぽっ☆彡 SF評論特集号』と表紙に書かれている。「私たちも出してるの。私はイラスト担当」
「へえ、すごいですね」本郷は感心した様子で冊子を手に取った。「これって売るんですか?」
「そうだよ」高塚が胸を張った。「俺たちはサークルとして参加してるんだ。原稿書いて、印刷して、製本して、それを売るんだよ」
「そんなの買う人いるんですか?」
「いるさ!」高塚は自信満々だ。「前回は20部刷って、12部売れたんだ」
「しかし採算性を考えると赤字になっている」橋本が冷静に指摘した。「一冊あたりの製作コストを計算すると……」
「うるさいなあ」高塚が首を振る。「金儲けが目的じゃないだろ。俺たちは同志を見つけるために……」
「同志?」本郷は首をかしげた。
「ああ、同志だよ」北見が本棚から振り返った。「同じ志を持つ者という意味さ。それが『同人』の語源でね」
「文学史的に言えば、明治時代の文学結社にまで遡る概念だよ」橋本が顔を上げた。「樋口一葉なども交流した『馬場の宿』のような……」
「橋本、また難しい話をするなよ」高塚が制した。「本郷に伝えたいのは、俺たちが一緒に楽しめるってことだろ?」
橋本は少し不満そうに鼻を鳴らしたが、黙って本に戻った。
「大学祭でも出店するの」村上が言った。「模型展示とか、マンガの即売会とか。結構人気なのよ」
「へえ……」
「あと、毎週水曜日の放課後に部会があるよ」高塚が言った。「来週は春アニメの感想会をやる予定。来られる?」
「はい、大丈夫です」
「よかった」高塚はにこりと笑った。「じゃあ、本郷、正式に入部おめでとう!これからよろしく」
高塚は本郷の手を力強く握った。
その時、何かが部屋の隅で動いた。水沢が本棚から一冊の本を取り出していた。彼は静かに本のページをめくっている。
「あの……」本郷は恐る恐る水沢に近づいた。「水沢先生は何を読んでいるんですか?」
水沢は顔を上げ、わずかに目元を見せた。彼が手にしているのは『スペース・オペラ全史』という分厚い洋書だった。
「古生代」
水沢の声は驚くほど小さかった。
「すみません?」
「オタク文化の古生代だ」水沢はもう少し声を大きくして言った。「だが今、エディアカラの時代が始まりつつある」
「えでぃあから?」
「地質時代の区分だよ」北見が説明してくれた。「カンブリア紀の前、生命が多様化し始めた時代さ。複雑な生物の祖先が現れた頃だ」
水沢はわずかに頷き、再び本に戻った。本郷には彼が何を言いたかったのか、よく理解できなかった。
「気にしないで」村上が本郷の横に来て小声で言った。「水沢先生はときどきそういう謎めいたことを言うの。でも、実はすごく鋭い人なのよ」
本郷が頷くと、高塚が大きな声を出した。
「よし、せっかく本郷が入部したことだし、今日は歓迎会だ!北見先輩、橋本、行くぞ!」
「どこに行くんですか?」本郷が尋ねた。
「部の公式たまり場『喫茶アルデバラン』だ!」高塚の目が輝いていた。「マスターがSFファンでな、店内にコレクションが飾ってあるんだ」
「私も行くわ」村上が鞄を持った。「村松も呼ばなきゃ。最近忙しくて来てないけど」
「村松?」
「ああ、うちのもう一人の男子部員」高塚が説明した。「今、教育実習中でちょっと忙しいんだ」
そうして本郷は先輩たちに囲まれながら部室を出た。北見、高塚、橋本、村上。そして彼ら全員分を合わせたよりも濃い影のような存在感を持つ水沢。本郷はなんとなく振り返った。
水沢は部室の窓際に立ち、外を見ていた。夕陽に照らされて、彼の姿がはっきりと浮かび上がっている。本郷には、水沢の口元が小さく微笑んでいるように見えた。
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喫茶アルデバランは大学から徒歩15分ほど、古い商店街の一角にある喫茶店だった。
店内に入ると、そこは本郷の想像を超える空間だった。テーブルや椅子は普通の喫茶店のものだが、壁一面に模型やフィギュアの棚が並び、宇宙船やロボットの模型が無数に飾られていた。BGMはアニメの主題歌のインストゥルメンタルバージョン。数人の客がいたが、皆一様にマンガや分厚い本を読んでいた。
「いらっしゃい」
カウンターからマスターが声をかけた。40代くらいの男性で、口ひげを蓄えている。
「おう、山岡さん」高塚が明るく返した。「新入部員連れてきたよ。本郷っていうんだ」
「へえ、いらっしゃい」マスターこと山岡は微笑んだ。「最近の若い子はあんまりSFに興味ないからね。うれしいよ」
「あの、私はSFというより……」
本郷が言いかけると、北見が肩をポンと叩いた。
「大丈夫、広い意味でのSFさ。この店はお前みたいな若い子を待ってたんだよ」
一同はテーブルに着いた。水沢だけは来なかった。本郷は店内の模型を見回していた。
「すごいコレクションですね」
「山岡さんは最初から集めてるからねえ」高塚が言った。「プラモデルが初めて売り出されたときからの筋金入りのマニアなんだ」
「1960年代、宇宙ブームの頃からだっけ?」北見が言った。
「そうそう」山岡はコーヒーを運びながら答えた。「『鉄腕アトム』が放送された頃からだよ。あれから20年か……早いもんだねえ」
本郷は目を見開いた。「そんなに前から……」
「俺たちみたいなのは最近までは『マニア』って呼ばれてたんだ」高塚がコーヒーに砂糖を入れながら言った。「『オタク』なんて言葉が出てきたのはこの2、3年のことなんだぜ」
「でも最近じゃ、雑誌で『オタク』なんて言葉使われるようになったよね」村上が言った。「あれ、誰が言い始めたんだっけ?」
「中森明夫だ」橋本が言った。「『漫画ブリッコ』の記事で。1983年だったかな」
「そうそう」高塚が熱くなってきた。「『おたく』って、お互いを呼び合うときの敬語表現から来てるらしいんだ。『あなた』みたいな」
「なるほど」本郷は頷いた。「じゃあ、僕も『オタク』なんですね」
「いやいや、まだ入りたてだろ」高塚は笑った。「オタクへの道はまだ始まったばかりさ」
「そういえば本郷くん、鉄道が好きって言ってたけど」村上が話題を変えた。「どんな鉄道が好きなの?」
「ああ、特に蒸気機関車に興味があって」本郷は少し照れながらも嬉しそうに言った。「ドイツのBR01とか、日本のC62とか……」
「へえ、詳しいんだね」村上は感心したように言った。
「あの、本当は……」本郷はためらいながらも続けた。「模型だけじゃなくて、SFにも興味があるんです。宇宙船とか、未来の乗り物とか……鉄道技術が宇宙開発にどう応用されるかとか……」
「おお!」北見が目を輝かせた。「それはいいね。『銀河鉄道999』とか好きかな?」
「はい、大好きです!」本郷の顔が輝いた。「あと、『超時空要塞マクロス』とか」
「マクロス!」高塚が叫んだ。「お前、いいセンスしてるじゃないか!」
「マクロスと言えば」橋本が眼鏡を直した。「変形メカの力学的整合性について、僕は前から疑問を持っているんだ。質量保存の法則から考えると……」
「橋本、また始まった」村上は呆れたように言った。「いつもこうなのよ」
「だって科学的に考察することは重要じゃないか」橋本は真面目な顔で反論した。
「アニメだよ、アニメ」高塚は肩をすくめた。「現実じゃないんだから」
「芸術表現としての科学的齟齬の許容範囲についても、議論の余地があるだろう」橋本は諦めない。
北見が静かに笑いながら本郷に言った。「うちのサークルはこんな感じだけど、大丈夫かな?」
「はい!」本郷は目を輝かせた。「むしろ、こんな風に話せる場所を探してたんです」
「それじゃあ」高塚がコーヒーカップを持ち上げた。「本郷の入部を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
カップの触れ合う音が、夕暮れの喫茶店に響いた。
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その日の夜、本郷は自分の下宿で日記を書いていた。
「4月12日。今日、SF・マンガ研究会に入部した。先輩たちはみんな個性的だけど、優しい人たちだった。北見先輩は博士課程の大学院生で、高塚先輩は部長で経済学部の四年生。橋本先輩は哲学科で難しいことをよく言う。村上先輩は女子で、イラストが上手らしい。あと、水沢さんという謎の研究員もいた。」
本郷は少し考えてから、続けて書いた。
「水沢先生は『エディアカラ』という言葉を使っていた。調べてみると、約6億年前、カンブリア紀の前の時代で、最初の複雑な生物が現れ始めた時代らしい。それが何を意味するのかはよくわからなかったけど、なんだか彼はオタク文化の未来を予言しているようだった。」
「明日から授業が始まる。でも今は、来週の部会が楽しみで仕方ない。鉄道趣味だけじゃなく、もっといろんなことに興味を持ってみようと思う。ここで、新しい世界が開けるような気がする。」
本郷は日記を閉じ、枕元に置いてあった『超時空要塞マクロス メカニック・マニュアル』という本を開いた。VF-1Sの変形メカニズムの図面を見ながら、彼は考えた。蒸気機関車の動力伝達と宇宙船の推進システムの間には、何か共通点があるのではないか。
カーテン越しに春の月明かりが部屋に差し込んでいた。本郷の新しい大学生活と、新しいオタクとしての旅が始まったのだ。
部室の片隅で水沢が言った「エディアカラの時代」という言葉が、本郷の耳に残っていた。それはまるで、これから始まる彼自身の変化と、彼を取り巻く文化の変容を予言しているかのようだった。
(つづく)