半年間私を無視していた夫が記憶喪失になったので、元から仲良し夫婦だったことにして義務を果たしてもらおうと思います。
魔法の話はゆるふわ設定です。
「記憶喪失、ですか」
クララ・フレミングは、状況をあまり理解していない様子で、はぁ、と呟いた。自宅の応接室のソファには、彼女の夫であるイヴァン・フレミングの姿がある。
イヴァンは艶やかな黒い長髪に、切長な青い瞳をした美丈夫である。居心地悪そうに視線をそらし、時折クララに隠れて助けを求めるように、彼の親友のローレンス――少なくとも記憶を失う前は――を見る。
イヴァンの髪が長いのは、外見に無頓着な上、人に触られるのがいやだから。日常生活に邪魔なほど伸びると、魔法でザクッと雑に切るせいで、毛先は切りっぱなしだ。
(記憶があってもなくても、私への態度は変わらないみたいだけど)
クララは目が合わない夫を見つめて、心の中で呟いた。
クララが、イヴァンと結婚したのは半年ほど前のことである。
恋愛結婚ではなくて、事業家であるクララの父が、国立魔法研究所と関係を求めたからだ。
魔法研究所の所長は高齢で、妻帯者。そこでクララの父が狙いを定めたのが、十四歳で国立魔法学院を飛び級卒業し、その研究実績から次期所長と噂されているイヴァンであった。クララのひとつ上の二十一歳で、当時独身恋人なし。
研究費を求めていた研究所と、政治的な立場の強化及び優先的な共同研究開発権を求めていた父の思惑によって結ばれた縁だ。
「それで、その……記憶喪失というのは」
クララが口を開くと、イヴァンの顔が険しくなる。いつも不機嫌そうで近寄りがたい夫だが、今日は不安で怯えている小犬に見えた。
――持てるものこそ与えなくては。
クララは父の教えに沿って、イヴァンに微笑みかけた。柔らかく結われたベージュの髪が揺れる。
「失礼いたしました。わたしは、あなたの妻のクララと申します。もちろん今は妻と言われても信じられないでしょうけれど、書類上はそうなっておりますわ。突然記憶を失ったなんてどれだけ不安なのかしら。わたしには想像もつきません。なにかできることがあれば教えてくださいね」
クララの言葉に、イヴァンではなく、彼の隣に座っていたローレンスが安心したような息を吐いた。
「ほら、クララ様もこうおっしゃってるし、しばらく家でゆっくりしてくれ。気分が落ち着いたら研究所に戻ってくればいい」
「あら、記憶を失っても研究はできるものなのですか?」
クララの疑問に対し、イヴァンではなくローレンスが口を開いた。
「ええ。自分の名前も僕の名前も忘れていましたが、魔法粒子は発見順どおりに空で言えるし、自分で書いた論文の理論も覚えていましたよ」
「まぁ、そうなんですね。それはよかったわ! よりどころになるものが残っているんですね」
「ほんとに。イヴァンから魔法の研究をとったら、でかい身体しか残りませんから」
イヴァンは隣に座るローレンスを睨んだ。ローレンスはその視線を無視して立ち上がる。
「じゃ、僕は実験があるから戻るよ。クララ様、イヴァンをよろしくお願いします」
軽く挨拶すると、ローレンスはすぐに部屋を出ていった。
二人きりの部屋は静かだ。クララは向かいに座るイヴァンに目を向けた。
いつもはすぐ逸らされてしまうが、今日は居心地は悪そうでありつつも、視線は合っている。会話することはできそうだ。
「それで、その、イヴァン様、記憶喪失のことをもう少しお伺いしても?」
イヴァンは頷いた。
「ありがとうございます。ご自身のお名前が分からなかったということは、ある時点からの記憶がないというわけではなくて、丸ごとお忘れなんですよね」
「ああ」
「わたしはどんな手助けをしたらよろしいでしょうか」
イヴァンが普段付き合いがあるのはローレンスと所長くらいで、妻のクララともほとんど顔を合わせない。実家の家族とは疎遠らしい。使用人の名前も呼んでいるのを見たことがない。
魔法の研究が継続可能ならば、ほかのことは忘れても困ることはなさそうだ。
「必要ない」
でしょうね、と思いながらクララは頷いた。
「そうですか。なにかあればお声がけくださいね。それで、原因はなにか思い当たるんですか?」
「実験の結果だと聞いている」
「まぁ」
イヴァンといえば、次々に魔法の新理論を発表して世間を驚かせている男だ。
「あなたでも実験に失敗なさるのね」
イヴァンは眉を顰めた。
「実験で想定と違うことが起きるのは失敗ではない。その過程で得た知見にも価値がある」
「確かにそうですね! 失礼しました」
クララは大きく頷いたが、納得できないこともある。
過程で得た知見に価値があるというならば、初夜に一度失敗したくらいで、全力でクララを避けることはないじゃないかと思ってしまう。
結婚式当日の夜、クララは痛みでイヴァンを受け入れられず拒否してしまった。唇は合わせたが愛撫もなく、クララは心も身体も準備する時間がなかったのだ。彼はそのあと険しい顔をして行為の中止を宣言し、以降、寝室をともにしたことはない。
父からは手紙で毎月のように孫はできたかと催促されるし、屋敷のメイドには同情の目を向けられ、友人には愛人を勧められる日々だ。
(そうだわ! 記憶がないってことは、初夜のことも忘れてるのよね? 記憶が戻る前に関係を作りなおせばうまくいくかも)
クララは、イヴァンが自分のことをじっと見つめていることに気づいて、考え事をしていたことを誤魔化すように笑った。
まずはどれくらい時間に猶予があるのか確認することにする。
「それで、実験というのは、何をなさっていたんです? 原因がわかれば、記憶を取り戻す方法も分かるものなのでしょうか」
イヴァンは不機嫌そうに目を細めた。
「知らん」
「まぁ、そうですよね。記憶がないわけですし」
彼の人を寄せ付けない態度を見ていれば、なにを計画していたのか誰にも話していないであろうことは容易に想像できた。唯一の手がかりであるイヴァン本人が分からないというなら、原因も分からないのだろう。
本人が悲観的な顔をしていないので、クララが心配することもない。クララはクララで、自分の快適な生活を守るために行動することにした。
(よーし、この機会になんとか普通の夫婦になるわよ!)
膝の上で拳を握ると、イヴァンがそれを怪訝そうに見た。クララは慌てて膝の上で指先を揃えて自分の両手を重ねると、にこりと愛想笑いしておいた。
*
ローレンスは、イヴァンにしばらく家でゆっくり過ごすようにと言っていたが、イヴァンはゆっくり過ごしているとは言い難い。記憶喪失になった翌日から落ち着きがない様子で庭をうろうろ歩き回るようになった。
(一日中庭を歩き回っているけれど、突っ込んだほうがいいのかしら? いつもこうなの? 歩いてるといいアイディアが浮かぶとか?)
今までは、イヴァンは基本的に朝早くに研究棟に出かけ、夜遅くに戻ってきた。夕飯を別々に食べるし、寝室も別なので全く顔を合わせない日も珍しくないのだ。
クララには、イヴァンの奇行が普段どおりなのか、記憶喪失のせいなのか見当もつかない。
室内から彼を眺めていると、庭を一周して戻ってきたイヴァンが、クララのほうを見ていた。目が合うと、すぐに視線をふいっと逸らしてしまう。
(ここでなにもしなかったら、これまでと一緒だわ。一度話しかけてみましょう)
結婚当初は、クララもイヴァンに話しかけようと努力をしていたが、あまりに徹底して逃げるので、最近ではもう打ち手が思いつかなくなってしまった。
記憶を失った今なら、また最初から試してもいいはずである。
クララはメイドにホットレモネードと日傘を頼むと、春の庭に飛び出した。
イヴァンの後ろ姿を追いかける。
「イヴァン様!」
イヴァンはすぐに足を止め、ゆっくり振り返った。周囲の音が聞こえないほど考えに耽っていたわけではなさそうだ。
「今日は少し風が肌寒いでしょう? 一緒に温かいレモネードを飲みませんか」
クララが笑顔を見せると、イヴァンが小さく頷いた。
(やった!)
クララは大袈裟に喜びたくなる気持ちを抑え、上品に微笑んだまま、メイドが準備してくれたテーブルの方向を手で示した。
「あちらに用意してもらっていますから」
そちらに歩いて行くと、イヴァンが無言でついてくる。
(大型犬みたいね)
しかし大型犬であればもっと愛嬌があるはず。そう考えると笑いそうになってしまい、クララは真面目な顔を作り直して椅子に腰掛けた。
「歩き回るといいアイディアが浮かぶんですか?」
「そういうときもある」
「今はどんなことを考えていらっしゃるの?」
「……」
「ああ、ごめんなさい。論文にまとめるまでは機密事項ですわね」
「いや」
クララは父から頼まれてイヴァンのアイディアを聞こうとしているわけではないのだが、イヴァンは結婚初日から険しい顔をしていて、クララのことを警戒している様子だった。
見合いもせず、クララの父と魔法研究所の所長、二人の間で進めた結婚だ。イヴァンにとって不本意で、警戒すべき結婚相手だとしても仕方ないと思っていた。
(でも今は記憶はないのよね……?)
クララが様子を探るためにイヴァンを見つめると、イヴァンは軽く息を詰まらせた。
「まだ、その、考えがまとまっていない。魔法の可逆性について、研究室にメモ書きがあったから、その理論を検証している」
「可逆性というのは?」
クララは首をかしげた。
イヴァンは自分の人差し指を一本差し出すと、それを腕に向けて、横にピッと動かした。その瞬間に腕にはじわりと鮮血が滲む。
「なんてことを!」
クララは叫んでハンカチを取り出して、イヴァンの腕に当てようとしたが、イヴァンはそれを拒んだ。
「大丈夫だ。もう治った」
イヴァンの言うとおり、腕にはなにも残っていない。
「この回復術を“元の状態に戻った”と表現する人もいるが、ただ人体の回復機能を活性させて皮膚を再構築したにすぎない。一度魔法をかけた場合、もう一度魔法をかけて以前と同じように見える状態にすることは可能だが、本当の意味で魔法をかける前に戻すことは現状不可能だ。可逆性の魔法はそれとは全く別の理論で動くはずで、その方法を考えていた」
「つまり時間を戻す魔法ということかしら?」
イヴァンは頷いた。
「そんなことができたら世紀の大発見だわ! えーと、あなたの大発見は何個目になるのかしら。広域展開理論と、媒体なしの飛行魔法でしょう……」
「覚えていない」
クララが指折り数える様子を見て、イヴァンは関心がなさそうに呟いた。あまりにもどうでもよさそうなので、笑いたくなってしまう。
「そうですね。あなたは自分がどれだけすごい魔法使いかは忘れていらっしゃるんだわ。世紀の大発見だっていう論文を何本も発表していますし、学生時代からすごかったんですよ」
「学生時代?」
「ええ。実はわたしたち、ひと月だけ魔法学院の在学期間がかぶっているんです。あなたはすぐ飛び級で卒業してしまって、お話ししたこともありませんけれど、同じ学校を卒業できたのは少しだけ誇らしいです」
イヴァンがゆっくり瞬きをする。クララは自分が喋りすぎてしまったことに気づいて、熱くなった頬を手であおいだ。
「君も、魔法が好きなのか」
今度はクララが瞬きを繰り返した。
(君”も”なのね)
記憶を失っても、イヴァンの中には当然のように、魔法への興味がある。彼の研究は、学術的な探究心だけではなくて、好きで行っていることらしい。
現在国一番と言われるほどの魔法使いと並ぶように「魔法が好きなのか」と問われたことはクララの心をくすぐったい気分にした。
この国の人は大抵魔力を持って生まれるが、仕事にできるほど使える人間は限られる。勉強しても、魔法使いを堂々と名乗れるほど習熟するわけではない。
クララが使える魔法は、指先で軽く風を発生させる魔法と、元気がなくなった花をもう一度綺麗に咲かせる魔法など、自分自身の手の届く範囲を、ほんの少しだけ変える魔法。それでも、父に頼み込んで魔法を専門とするアカデミーに進学するほど夢中になっていた。
初めて制服に腕を通して、魔導書を抱えてくるくる回った日を思い出して、クララは表情を綻ばせた。
「ええ、そうですね。大好きです」
*
一週間後、クララはイヴァンの寝室の前を行ったり来たりしていた。
「ここで寝るのがさも当然という顔をして入るのよ……夫婦なんだから、そういうものだっていう顔をしていれば……」
ここ数日一緒に過ごしている間、イヴァンは今までのようにクララを避けずに、きちんと目を合わせて会話をしてくれている。向かい合って食事をするのも当たり前になった。
記憶を失ってからの会話量は、ここ半年での会話の総量を超えている。しかしクララは今までも二人はこうして一緒に過ごしてきたし、特別なことはしていないという態度を装っている。
過去何度無視されようと、夫を観察し、集めた情報を駆使して、自分たちはずっと仲の良い夫婦だったと思い込ませようと試みているところだ。
彼は随分気を許してくれているように見える。
今こそ、父の期待に応え、屋敷内での地位を回復するために動くときだと思えた。
「仲良し夫婦でも、さすがにノックくらいはするわよね」
クララの両親も寝室が別なので、クララは夫婦がどのようにして同じベッドで眠り、責任を果たすのか分からない。
(大丈夫、大丈夫。半年間ずっと無視されてきたんだから、今より悪くなりようがないわよ)
クララが意を決して扉に手を伸ばすと、ノックの音がする前に扉が開いた。
「きゃっ! こ、こんばんは、イヴァン様」
「君か……何か?」
イヴァンの顔には戸惑いが滲んでいる。
――用事がないと夫の寝室を訪れたらいけませんか。
クララの口からは言葉が出なかった。それよりも真っ暗な部屋の向こうに広がる星空のような風景に釘付けになる。
「これはなんですか?!」
「暇つぶしだ」
「暇つぶし?」
「空気中の魔法粒子を分離させて、別のものとくっつけると、発光する組み合わせがあるんだ。分離させて、くっつけることを繰り返して暇を潰してる」
「そんなことできるんですか? 中に入って見てもいいですか?」
「……ああ」
クララが足を踏み入れると、浮遊する魔法粒子がクララの魔力で揺れ、近づいてきたり離れたりする。クララはイヴァンの様子を見ながら、彼のベッドに腰掛けた。顔はよく見えないが拒否する雰囲気はない。
「綺麗です」
手を伸ばして光に触れると、分散して消えてしまった。
「あら」
イヴァンが指先を動かすと、クララの周りに、また光の粒が集まった。
「よく見ると色が違うのね」
「そうだな。組み合わせる魔法粒子によってわずかに色が変わる。人間が識別できるほどの色の違いが発生するのは魔法粒子のaa1からb32まで。それ以降は色としては白に見える。色は光の通しやすさを反映するが、それが魔力の影響度と相関しているのがa0からc2までで、この関連は魔法の視認しやすさにも影響している」
「それは学校で習ったかもしれません」
「アカデミーでは魔法の視認性について魔法陣展開時の魔法粒子の集合密度として説明しているが、最近の発見では少し違う」
「そうなんですか?」
「ああ、密度ではなく……」
クララが相槌を打つと、イヴァンの講義が続く。
暗がりで淡々とした低い声を聞いていると、ここへ入るときの緊張していた気持ちが和らいでくる。
イヴァンの講義の声が止んだ。
彼が静かな青い瞳をクララに向けると、ベッドサイドに近づいた。
「……!」
思わずクララが身構えると、イヴァンはそのままクララの横を通り過ぎて、ベッドサイドの魔導ランプをつけた。
そして部屋の反対側にある本棚から数冊の本を取ってきて、サイドテーブルに置いた。
「魔法粒子学に興味があるならまずこの三冊を読むといい。もう少し詳しく知りたければ、分野を教えてくれれば書籍や論文を用意する」
「……ありがとうございます。勉強させていただきますわ。でも、わたしには少し難しすぎるのでは」
「読んでみて不明な点があれば、私に聞けばいい」
「イヴァン様の講義を独り占めできるなんて贅沢していいのかしら! ありがとうございます」
クララは作り笑いを浮かべてベッドから立ち上がり、本を手に取った。
(ネグリジェで寝室に来たのに、勉強って……! 失礼だわ!)
むすっとした顔をイヴァンに見せないよう、目を合わせずにそのまま部屋を出ることにした。
扉を出た先にいるメイド2名と目が合った。夫の寝室から、本を手にしてすぐ出てきたクララを見て、気の毒そうな顔をして立ち去る。
(またお父様に報告が入りそうね)
クララの口からは思わずため息が漏れた。
イヴァンとの結婚は研究所との関係作りも目的だが、父は本気でクララの”幸せ”を願ってこの結婚を実現させてくれたことを知っている。社会的な地位のある男性と結婚し、子供を産んで、クララの母のようにいい母親になることを願っている。
手元にある本を開いて、パラパラとめくる。分厚くはないが、専門用語が並んだとっつきにくい本だ。
「もう! どうせ暇だし、読んでやるわよ」
クララは本を閉じて、自分の部屋に早足で戻った。
*
翌朝から、クララは本を読んで勉強しては、次の日の朝イヴァンに質問するということを繰り返した。
そして夜には彼の部屋を訪問し、魔法についての質問を理由に隣に座る。少しずつ座る距離を縮めたり、彼の膝に触れてみたり、魔法以外の話題も振ろうと試みるがことごとく失敗に終わっている。
そのうちイヴァンは再び出勤して、ほぼ毎日、新しい本や資料を渡してくるようになった。
(わたしが妻だってことを忘れてるのかしら? アカデミーの生徒じゃないんですけど!)
ついに読書だけではなくレポートの課題まで出されたことには開いた口が塞がらなくなってしまった。しかしせっかく距離が縮んだのに、レポートを白紙で出して関係性も白紙に戻っては困る。結局一生懸命仕上げることになった。
陽が落ちた頃に馬車の音が聞こえて、クララは窓の外に目を向けた。
イヴァンが研究所から戻ってきたようだ。
夕飯ではいつも講義が始まるので、クララは今日読んだ本の目次を見直してから彼を迎えに行った。
夕飯のテーブルに着くと、毎晩イヴァンはクララに本の感想を聞く。
しかし今日は口を開かず、クララに一瞬目を向けただけだった。
「どうしたんです?」
「なんでもない」
「考え事ですか」
「いや」
「いつもみたいに本の感想は聞かないんですか?」
「ああ……」
イヴァンは肯定とも否定とも取れるような曖昧な返事をしてから食事に手をつけた。
「あとで部屋にきてほしい。渡したいものがある」
「分かりました。でもわたし、まだ一昨日の『魔法工学入門』を読み終えてませんわ」
「本じゃない」
「もしかして先日おっしゃっていた実験用の魔導具ですか? 購入許可が降りたんですか?」
「いや、それはまだだ。来週になる」
「そうですか」
先週、イヴァンは、理論ばかりではなくて実験もしたほうがいいから屋敷内に環境を整えると言い出した。
大型の機械は購入と管理に研究所の許可が必要らしく、クララが知らない間に手続きを進めはじめたと事後報告を受けたのだ。屋敷の裏になにやら見知らぬ施設が建設されていくことにも気づいた。
「とにかく、その……見れば分かる。いや分からないかもしれないが、とにかくこの話はあとだ」
「はぁ」
何やらはっきりしない態度だ。
クララは首を傾げたが、これ以上追及しても返事がなさそうだったので、大人しく食事を進めることにした。
食事のあと、いつものようにネグリジェに着替えた。
イヴァンはクララがこの格好で部屋に入ることになんの意味も見出していなさそうだ。もはや意地でしかなく、形骸化した色仕掛けの準備をして、イヴァンの部屋を訪れた。
ノックをすると、居心地の悪そうな顔をしたイヴァンが出迎えてくれた。扉を開いた先に、彼の身体越しに大小様々な箱があるのが見えた。
「これは?」
「分からない」
「記憶を失う前にご購入されたものですか?」
「そうだと思う。研究棟の中に保管されていて、ローレンスが、これは君のものだと言うんだ」
クララは首をかしげた。見覚えがないものだ。
「いえ? わたしのものではないと思いますよ」
「正しくは、君のものになる予定のものだ」
「はぁ……」
「とにかくまず開けてみてほしい。私が中身を確認したのはこれだけだ」
イヴァンの手元には小さな化粧箱がある。クララはその箱を開けて、中に入っているのがブレスレットであることを確認した。青い宝石が蝶の形になるように配置されている。
「これはエルメ・ミスラーのデザインですね。蝶は彼の一番のお気に入りモチーフですし、この深いブルー、父が彼のために探していた石だと思います。ルースを見せてもらったことがあります」
クララはイヴァンと目を合わせた。
「なぜこれがあなたの手元に? もしかして、宝石に魔力を込めて商品化したいのかしら。わたしから父に意図を聞いてみましょうか」
「いや……これは、君の父親には関係なく、私が自分で希望して購入したのだと思う」
「自主的な実験ですか。失礼しました」
「……違う。多分だが、君に贈りたくて購入したんだ」
クララは榛色の瞳を瞬かせた。
「あなたが、贈り物を……えーと、わたしにですか」
クララは改めて部屋を見渡し、床を埋め尽くすほどたくさんの、色とりどりの箱に目を向けた。外から見てブランドの分かるものばかりだ。全てがクララの好みに合うものではないが、自分と同じ年代の女性に人気がある店を選んでいるのは分かる。
「ああ。おそらく。今日ローレンスに、君のような女性が好みそうな贈り物を教えてほしいと伝えたら、まずは研究室の倉庫に隠してあった……」
イヴァンの目が箱に向く。
「これらを、渡したらどうかと言われたんだ。なにか君に似合うものを渡したいと、記憶を失う前にも思ったのだろう」
イヴァンがじっと自分を見つめている。その真剣さに、クララの心臓が大きく跳ねた。とくとくと脈打つ心臓の動きを強く感じる。
自分を無視していた夫が実はプレゼントをたくさん用意していたという事実にときめくよりも、彼が記憶を失ってから、自分がついていた嘘がばれた可能性に気づいて、言葉が出なくなってしまう。
クララがなにか話す前に、イヴァンが口を開いた。
「この量を、妻に直接渡さず職場に隠しておくのは常識的な行動ではない。私は……記憶を失う前に、君にひどいことをして、謝罪もできないままでいたのではないか?」
イヴァンの表情は固かった。
緊張が伝わる彼の様子に、クララは少し自分が冷静になるのを感じる。
ゆっくり首を振った。
「そんなことはないです」
「本当か」
「ええ。でも、お察しのとおり、わたしたちはあまり仲のいい夫婦ではありませんでしたね」
「理由を聞いても?」
クララは頷いた。
「イヴァン様は最初からあまりこの結婚に乗り気ではないように見えました。わたしの父が無理矢理結婚させたから嫌だったのかもしれないです。資本が入ることで、純粋に研究できなくなるかもと思っていたのかも」
「ルング家の援助は助けにはなっても邪魔になることはない」
「ならよかったです。だとしたらわたし個人が原因になりますが、そうですね……」
初夜の失敗をどう話そうか。
クララが言葉に迷っていると、イヴァンが先に口を開いた。
「それも、可能性は低い」
「そうなんですか?」
「ああ」
イヴァンはそれっきり黙ってしまった。しばらく間を置いてから、また口をひらく。
「記憶を失う前も、私であることには変わりない。過去の行動を聞けば納得できることが多いし、考えに予測もつく。私個人としては、君に好意を抱いていた可能性が高い」
イヴァンの表情は気まずそうだが、どこかむず痒くなるような雰囲気がある。
「それは、つまり……」
すっと逸らされた視線は、不機嫌や不快な気持ちを示すわけではないのはさすがに分かる。クララは自分の頬が少しずつ熱を帯びていくのを感じて、つい彼から目を逸らして、部屋の中に並んだ大小様々な箱を見た。
部屋の中にある箱からは、イヴァンがクララと繋がりを持とうとしてくれていたことが伝わってくる。
「イヴァン様は、何を考えていたのかしら」
目も合わせてくれなかったのだから、聞いたところで教えてくれるのか分からないけれど。
半年クララがイヴァンに話しかけようと努力していた裏で、彼の返事はクララの知らないところにずっと溜まっていたようだ。
クララは、イヴァンに呆れたような笑みを向けた。
「こんなにたくさん、どんな顔で選んでくださったんでしょうね」
「……分からない。記憶を取り戻す方法を本格的に調べてみようと思っている」
「そうなんですか」
(そしたらまた、前みたいに戻るのかしら)
内容は魔法の理論の話ばかりだが、毎日イヴァンと会話するようになって、関係性は大きく変わった。
完全に前の関係に戻ることはなくても、記憶が戻れば、影響がないことはないだろう。
寂しいという気持ちもあるし、それと同時に、この半年で分からなかったイヴァンの考えを聞けるかもしれないという期待もある。
それに、クララの考えはどうであれ、イヴァンは自分の記憶を取り戻したいと思っているのだ。それを妨害しようという考えにはならなかった。
「わたしに協力できることがあれば、なんでもおっしゃってくださいね」
クララが微笑みかけると、イヴァンは無言で頷いた。
*
イヴァンは、クララが立ち去ったあと、部屋に置いたままになっている大量の贈り物を見て息を吐き、ベッドに座りこんだ。
イヴァンは、ある日突然記憶を失って、気づいたら自分の隣には親友を名乗る見知らぬ男がいた。親友を名乗るローレンスによれば、記憶喪失はイヴァンが自分で行ったという実験の結果らしい。
状況がよく分からないまま、自身の家という場所に連れてこられて、初めて顔を合わせた女性を妻だと紹介された。
ひとまず仕事はあって、家族と家がある。生活に困らなそうであることは理解した。
イヴァンは自分の妻が、夫が突然記憶を失ったというのに非常に冷静であることに驚きつつも感謝した。自分を励まして、これまでと変わらず過ごそうとしてくれているのだと思っていた。クララと新たに関係を築いていくうちに、彼女のそばにいることをとても居心地よく感じて、過去の自分も同じように、妻と大切な時間を歩んでいたのだと疑わなかった。
それが自分の勘違いだと気づいたのは、研究室の奥に大量の贈り物の存在を知ったからだ。
もしかしたら、自分には妻に言えないような愛人がいて、愛人への贈り物を隠すような男だったのだろうかと怖くなった。しかしローレンスに確認すると、それは絶対にないと言う。
職場に大量の贈り物を、妻に渡せないまま蓄えている理由。
それはそれで不可解だった。
イヴァンにはよく分からないし、ローレンスも、「渡せなかったんだからしょうがない」と言う。
つい先ほどクララ自身に理由を聞いてみたが、はっきりとした理由は分からなかった。
結婚した理由が不本意だったとしても、クララの実家はイヴァンと研究所の意思を尊重した援助をしてくれていることが資料から分かっていた。だからそれで彼女を恨むことはない。
クララとは記憶を失って短い時間を一緒に過ごしただけだが、自分が彼女に惹かれていくことになんの疑問も抱かなかった。
彼女が「難しい」と言いながら一生懸命魔導書を読んで、少し自信なさげに、だけど興味を隠さずに、魔法について話す表情を好きになった。続けるうちに楽しそうな顔をする時間が増えていくことを毎日楽しみにしていた。
彼女のことを愛しく思う気持ちが芽生えて、自分の中で育っていくのは自然なことに思えた。
――イヴァン様は、何を考えていたのかしら。
贈り物を見るクララの目は、今ここにいる”イヴァン”には向いていなかった。
彼女の関心は記憶を失う前の自分にある。いい思い出ばかりではないはずなのに、一緒に過ごした時間が少し長いだけの過去の自分が、彼女の心の中を占めている。
胸には鈍い痛みが走ったが、クララが知りたいというのなら、記憶を取り戻すために全力を尽くすつもりだ。
なぜ仲がいい夫婦とはいえなかったのか、なぜ贈り物を渡せなかったのか。理由を知って向き合って、その上でクララに自分の気持ちを伝えたいと思う。
(……しかし肝心の実験の記録が残っていないとは、どこから手をつけていいか分からん)
本来実験する前には理論的な仮説を残すし、実験の計画も詳細に記しておく。今回はなぜか資料が全く残されておらず、真相は全てイヴァンの頭の中にしかない。
(一度思いついたものなのだから、必ずまた辿り着けるはずだ)
今の自分であれば、計画も記録も書面で残さず実験を行うことは絶対にない。過去の自分は自分ではあるが、これについては理解できない行動だ。
記憶が戻れば、全ての行動は筋が通っていると分かるのか、それとも筋の通らない行動をする男なのか。
知りたくもない気もするが、知らずにいるのも怖い。
イヴァンの口からはため息が漏れた。
*
「これはどうですか?」
「うまいと思う」
「なにか思い出したことは?」
イヴァンがティーカップをソーサーに戻し、首を横に振った。
「そうですか。りんごみたいな香りで、わたしも好きです」
イヴァンは記憶を取り戻すために連日自分の実験の内容を調べているが、進捗はない。クララも父に連絡をとり、記憶障害にまつわる様々な書籍を取り寄せて読んでみた。
はっきりとした解決の道はなく、なにか過去と紐付くものを見て、それをきっかけに思い出すという事例がいくつか見つかった。
しかしイヴァンの過去を探るのは簡単ではない。彼の実家は名門の子爵家だが、家族とは縁を切っていて結婚式にも呼んでいなかった。爵位は弟が継いでいる。返事がくることは期待できないが、クララはイヴァンに許可を取って彼の弟に宛てて手紙を書いてみた。
実家の家族以外でいうと、今の唯一の家族であるクララは過去のイヴァンをほとんど知らず、手がかりになるのはローレンスくらいだ。
十四歳で学院を飛び級卒業して研究所に入ったイヴァンにとって、十歳年上のローレンスは歳の離れた兄のようなもの。
彼らは親友らしいので、ローレンスに過去の話をしてもらったが、イヴァンには全くピンとくるものがないようだった。
――話を聞くより、実際にその場に行くのがいいんじゃないか。色々試してみるとかさ。やっぱり理論だけじゃ限界があるだろう?
――ああ、でも、僕は査定前で忙しいから、悪いけど二人で頼むよ。
親友を名乗るわりには少々薄情な言葉を残して、ローレンスはイヴァンとクララに”やることリスト”の宿題を渡した。
そのうちの一つ、イヴァンが比較的気に入っていたという香りつきの紅茶を二人で飲みながら、予定を立てて話し合う日々が続いている。
「もう関連性の高いところはほとんど行ってしまいましたものね……残りの場所は、”一度行った気がする”レベルのものみたいです」
ローレンスのリストはあまり長くなくて、ほぼ王都の中心部に留まっている。図書館やちょっとした丘などの近場で、人が多すぎず、静かで見どころもないような場所だ。たまに観劇施設や、動物園など、息抜きに訪れたのだろうかと思えるような施設もある。
(こうして見ると、イヴァン様は本当に卒業してから研究室にこもりっきりみたいね。少しでも連れ出してくれるローレンス様がそばにいてくださってよかったわ)
クララ自身には、イヴァンとの思い出はない。結婚前に唯一顔を見たことがあるのはアカデミーの廊下ですれ違って、あれが噂の……と話を聞いたときくらいだ。
クララは椅子から立ち上がった。
「そうだわ! アカデミー!」
「国立魔法学院か?」
「はい。学長に見学依頼の手紙を書いてみます。たった一年とひと月ですけれど、毎日過ごした場所ですもの。きっと思い出がありますよ」
国立魔法学院は全寮制で、十三歳から十八歳までの子女が通う。
特待生でなければ学費が一般的な学校よりも高額なため、生徒はよっぽど才能がある学費免除の市民か、貴族、もしくはクララのような資産家の子女だ。とにかく才能がものをいう世界で、魔法の実技が不得意なクララはそういう意味では異端だったが友人に恵まれ、五年間楽しく通うことができた。
学院に手紙を出すと、翌日には早速返事が来てすぐに見学させてもらうことになった。訪問ついでにイヴァンが生徒に対する講義を頼まれたので、生徒のレベルに合わせて二人で準備をしたところだ。
クララは約一年半ぶりに校舎を訪れた。
古い城を改築した学院の建物は石造り。日差しの柔らかな春の日でも、建物の中はひんやりとした空気で満ちている。
長い回廊を通って、教室から聞こえてくる教師の声や、魔法を実践する音を聞いていると、クララは学生時代に戻ったように気分が高揚して、思わずその場をくるくると回りたくなった。
「はぁ、この魔法薬学の教室から漂ってくるにおい……本当に懐かしいです」
植物由来の甘ったるさと、薬品の刺激的なにおいが合わさった、ここでしか嗅ぐことのない香りを思い切り吸い込んだ。クララは深く息を吐いた。
そして隣にイヴァンがいることを思い出して、慌てて本来の目的について話した。
「いかがですか? どこか見覚えのあるものは?」
「ない」
「そうですか。講義のあと、少しウィリアムズ先生にお時間をいただいているんです。話を聞いてみましょう」
イヴァンとクララは教室に移動して、頼まれている講義を行った。魔法の基礎研究を専門としているウィリアムズに食堂を案内してもらう。
そこで聞いた話も、イヴァンが自分の過去を思い出すきっかけにはならず、二人はそのまま校舎裏にある森を散策することにした。
しばらく道を抜けると、草原があり、今の季節は色とりどりの花が咲いている。
クララは風の心地よさに目を閉じた。深呼吸して、目を開けて、少し離れたところにいるイヴァンの横顔を見つめる。
学院で聞いた話を思い出していた。
――一番の思い出は、入学前に僕の研究室に来て、『時間を巻き戻す魔法はあるのか』と聞いてきたことだね。『存在しないから、君が発見するしかないな』と答えた。理由はあまり詳しくは知らないけれども、責任を取らなければならないのだと、そんなことを言っていたね。
以前、クララはイヴァンと”時を戻す魔法”について話をしたことがある。
(イヴァン様はそこに近づいていたの? 今回の記憶喪失は、過去の状態に戻ってしまったわけではないけれど、その魔法の実験をしていた結果?)
クララには、仮説を立てられるほどの情報がない。
記憶を失ってから、イヴァンと過ごす時間は格段に増えたけれど、彼のことはほとんど知らないのだ。
(イヴァン様は、どんな責任を抱えて過ごしてきたのかしら)
イヴァンが学院に通う前からその話があったということは、イヴァンが責任を感じるようなことが起きたのは、彼が十三歳になる前ということだ。
(もし記憶を取り戻したとして、わたしにはその話を分かち合ってくれるかしら)
今のイヴァンは、自分の過去に関わる話をクララに惜しみなく共有してくれる。ただそれはイヴァン自身の話でありながら、彼にとってはどこか他人事だからだろう。記憶を失う前のイヴァンであれば、今日のウィリアムズの話だって、クララに聞かれたいとは思わなかったはずだ。
関係ないのに勝手に人の過去を嗅ぎ回っていたと思われるかもしれない。
(でも、そうでもないかもしれない)
目も合わせてくれず、無視されてきた身としては、彼がクララと過去を分かち合いたいと思ってくれるとは到底想像できない。しかし、イヴァンはクララに渡せもしないプレゼントを大量に買っていて、クララを嫌っていたわけではなさそうだ。
今のクララにできることは、少ない情報からイヴァンの気持ちを想像することだけ。とても無駄なことに思えた。
しゃがみ込んで、綿毛のついた茎を一本手折る。それを唇で吹く代わりに、指先で風を発生させると、風に乗って種が飛んだ。
もう一度、今度は風が軽く螺旋を描くようにしてみる。
(いい感じだわ)
久しぶりに魔法を使ってみると、楽しさと、同級生のように上手く魔法を使えなかった苦い思い出が両方蘇ってきた。
幼い頃、絵本の世界で魔法に憧れて興味を持って、そのときの幼い憧れを抱えたままわずかな才能を抱えて入った世界だ。学院での生活は、夢みたいに一瞬で終わってしまった。
全ての種が飛んでいったところで、イヴァンが自分のことを見つめていることに気づいた。下手な魔法を見られたことが急に恥ずかしく感じてさっと手をおろす。
「実技はすごく下手なんです」
「利用できる魔法粒子の種類が限定されているんだな」
「そうみたいですね」
魔法は、空気中を漂っている魔法粒子を身体に取り込んで使用するが、人によって相性のいい粒子とそうでないものがあるらしい。クララは自分が使用できる種類がほかの人より圧倒的に少ないことが分かっている。
イヴァンは少しの間下を向いて考え込んでいた。それからクララの近くにきて、彼女の目の前で一回指を鳴らした。
「なんですか?」
「もう一度同じことをしてみてほしい。風を起こす魔法だ」
「はぁ、いいですけど……」
クララは状況をよく飲み込めないまま、言われたとおりに魔法を使うため人差し指を立てた。
軽く指を動かすと、わずかな風をおこすつもりが、目の前の花びらを全て散らしてしまうのではないかというほどの突風が、後ろから彼女の背を押した。
「きゃあっ」
予想もしなかった出来事にバランスを崩す。前のめりになった身体がイヴァンの胸板にぶつかった。クララはイヴァンの顔を呆然と見上げた。
「嵐だわ……」
「すまない。ここまでとは予想していなかった」
「何をしたんです?」
「君と相性のよさそうな魔法粒子を君の周りに集めてみた。王都中から集めてこれくらいだ」
イヴァンはなんでもないことのように淡々と説明した。
「ええっ、それは大丈夫なんですか?! ほかの方が魔法を使えなくなって事故になったりは!」
「e27一種類なら問題ない」
クララはイヴァンの顔を不安げに見つめた。
「クララ、本当に大丈夫だ」
「本当の本当に?」
「ああ、……一応、あとで王都の警備隊に事故がなかったか聞きにいくから、そんな顔をしないでくれ。その……信じてほしい。私は、……君は、私を誰だと思っているんだ。国立魔法研究所の魔法粒子学の権威だぞ」
言葉は傲慢なのに、表情は不安そうだ。理論は記憶にあるのに実績は全部忘れている彼の口から”権威”などという言葉が出てくるのがおかしい。
クララは思わず軽く吹き出して笑った。
「じゃあ、今の素晴らしい魔法を喜んでいいですか」
「ああ」
「嬉しい! あんなに大規模な魔法を使えたのは初めてですよ! 目の前が花びらで埋め尽くされるかと思ったわ」
夢のような一瞬の出来事だった。
魔法使いに憧れた一番最初は、できると信じていた大魔法。
イヴァンがクララの髪に触れた。
「花びらがついている」
「ありがとうございます」
青い瞳と視線が混じる。花びらを取ったイヴァンの手が、そのままクララの顔を固定するように耳の方まで降りてきて、二人の唇が重なった。
軽く触れたところが、押し付けられた唇の圧がなくなると元の形に戻る。柔らかなその感触よりも、イヴァンが自分に向ける視線の優しさに、クララの意識が釘付けになった。
クララは榛色の瞳をぱちぱち何度か瞬きさせた。
イヴァンの青い瞳に満ちていた柔らかな瞳がふと消えた。彼は自分のしたことに驚いているように見えた。
「クララ、すまない、今のは……!」
次に、クララは頬がくすぐったいことに気づいて、そこに触れると指が濡れた。涙が流れていた。イヴァンが息を呑んで、クララから距離を置いた。
「本当に悪かった。二度としない」
「違うんです! これは、口付けが嫌だったとかではなくて……」
嫌だなんて全く思わなかった。ただ驚いただけだ。
きっと嬉し涙なのだと思う。
イヴァンと夫婦として関係を築こうとした努力が実ったことや、今まで使えなかった大規模な魔法が使えたこと。これまでのクララの人生で味わったことのない驚くべきことが二つもいっぺんに起きたから、受け止めきれなかっただけ。
クララはイヴァンに上手く説明できなくて、涙も止まらなくて、途方にくれてしまった。
*
クララは涙を拭いながら馬車に乗った。イヴァンが青い顔をして何度も自分に話しかけようとして躊躇っていることに気づいて申し訳なくなり、「すごくロマンチックだったから、感動して泣いちゃったんですよ」と笑った。
屋敷に着いて顔を洗って、夕飯の前に一度着替える。夕飯の間も二人の間には微妙な沈黙が流れることが多かった。
白いネグリジェに袖を通して、髪もおろし、いつもであればこのままイヴァンの部屋を訪れるのだが、クララは二の足を踏んでいる。
悪い理由ではないとイヴァンに伝えたけれど、口付けしたあと涙を見せて、イヴァンを困惑させてしまった。
クララには、自分が泣いた理由がよく分からない。
イヴァンとキスすることが嫌だと思わなかったのは事実だけれど、それにうっとりしなかったことも事実だ。
彼が自分を見つめる視線の甘さが今までにみたことないほどで、きっと自分のことを好きになってくれたのだと思った。
でもそれは、記憶がないからだとも思う。
イヴァンの元の性格は人との付き合いを怖がる人ではなさそうだ。そんな彼が人を避けて生活していた理由も、クララが彼を拒否した初夜も、なにも覚えていないから、イヴァンはクララを好きになった。
彼を騙して信頼を勝ち取ったような罪悪感を覚えているし、記憶を失う前の夫を裏切ったような気持ちになる。
きっとこのままでいれば、普通の夫婦のように愛し合えるのだろう。しかし拗れた関係を紐解きもしないまま見えないように蓋をして誤魔化しているような、そんな気分だ。今のイヴァンとの関係がこの先に進んでしまったら、あとで記憶が戻ったときに、取り返しがつかなくなるんじゃないかという、漠然とした不安が胸の中に残っている。
(一度イヴァン様と正直に話をしたいわ。多分わたしは……次に口付けをするなら、記憶が戻ってからがいい)
クララとイヴァンの年齢はたった一つしか違わない。クララが学院に入学する頃にはイヴァンは飛び級卒業して国立魔法研究所に入職することが決まっていた。
魔法が下手でも、魔法が大好きだったクララにとって憧れの存在だ。
父から結婚の話をされたときも、自分なんかでいいのかとは思ったけれど嬉しくて、胸をときめかせて嫁入りした。
イヴァンが人付き合いが好きではないし、人見知りなのは噂で知っていたから、そっけないのは気にならなかった。初夜はお互い緊張していて、クララも上手く立ち回れず、イヴァンを拒否してしまったことをずっと後悔していたのだ。
記憶が戻らなかったら、クララが抱えていた思いも分かち合える日も、イヴァンの中にあった思いも聞ける日は来ない。今イヴァンと距離を縮めることは、自分たちの過去の苦い思い出や胸の痛み、感じたことも全てなかったことにして、綺麗な思い出だけ塗り重ねていくようなものだ。そこに対して、クララはなんと呼べばいいか分からないためらいを感じていた。
確かにそこにあったはずのものを無視してしまう寂しさのような。
今のイヴァンにとっては、クララが過去に対して抱えている気持ちは関係のないものだ。きっと話は聞いてくれるだろうけれど、どう話すべきかは決めかねる。
クララは迷いながらイヴァンの部屋に向かうことを決めた。
いつものように寝室をノックするが、返事はない。
後ろを通り過ぎようとしたメイドに声をかけられて、イヴァンは研究棟に向かったのだと聞いた。
*
次の日の朝、クララはあまり眠れないまま朝日を迎えた。
急にイヴァンが研究棟に行ってしまったのは、クララが自分の泣いた理由を彼に上手く説明できず、拒否したように感じられてしまったのかもしれないと思う。初夜と同じ失敗をした後悔が溢れてくる。
しかし朝食を食べ終えると、その後悔もだんだんイヴァンに対しての怒りに変わってきた。
(今まで全くそんなそぶりもなかったのに、いきなり口付けなんてされたらびっくりもするわよ。それで逃げるなんて、記憶を失っても結局あの人は同じじゃないの)
記憶があってもなくても同じような行動を取ると考えると、同じ人物だと言うことを強く意識することになる。記憶を失う前の彼との関係を尊重したいと思っていた自分の気持ちもくだらないものに思えてくる。
(いいじゃない、別に。前のイヴァン様に義理立てもいらないわよ。そもそも本人なわけでしょ? 今夜研究棟にでも乗り込んで押し倒してやろうかしら)
一人で朝食を食べながらヤケクソになって計画を立てていると、メイドが入ってきて来客を告げた。
「ローレンス様がいらっしゃっています」
「ローレンス様が?」
「はい。それと……」
メイドは一度言葉を切った。
「イヴァン様が、お戻りです」
クララは中途半端な位置に止まっていたカトラリーをテーブルに戻した。
「そうなの。お二人を応接室にお通しして」
*
記憶を失ったと告げられたときと同じ応接室で、クララはローレンスとイヴァンと向き合って座っている。
イヴァンはソファの端に腰掛け、ずっと扉の方を見ている。
「おかえりなさいませ、イヴァン様。昨日は随分お忙しかったのですね。いつものようにお部屋を訪れたらご不在で、驚きました」
「……」
「ほら、イヴァン」
「……」
「ちゃんと説明しないと。言わないなら僕から言っていい?」
「だめだ! 自分で言う」
イヴァンは部屋の広さに見合わない声量で叫ぶと、クララと向き合った。睨みつけるように彼女を見て、ゆっくり口を開いた。
「……記憶が戻った」
「なんですって!? それは、……ええと、おめでとうございます」
「ああ」
部屋に沈黙が落ちる。
イヴァンは「それで」「あー」「つまり」などの意味のない言葉を繰り返していた。そしてローレンスを睨んだ。
「お前は関係ないのだから出ていけ」
「君、夜中の2時に叩き起こしておいてそれ?」
「協力には感謝している。もう十分だ」
「お礼を言えるようになったのはえらいね。全く、じゃあ最初から一人で帰ってくればいいのに。移動時間が無駄になった」
「帰りは空間魔法で飛ばしてやる」
「結構だよ。そんな安定してない魔法で帰るより、馬車のほうが安全だ。まぁいいや、とにかく帰るから、ちゃんと全部話して仲直りするんだよ」
イヴァンは無言で、頷きも否定もせずローレンスに邪魔そうな目を向けていた。
「じゃあ、クララ様、僕はこれで」
ローレンスは立ち上がって、お辞儀をすると部屋を出て行った。
応接室にイヴァンと二人で残され、クララは夫の姿をよく観察した。
外見は変わっていない。毛先が切りっぱなしの長い黒髪に、美しい青い瞳。昨日のような甘さはそこになく、不安げである。
「クララ」
「はい」
低い声で名前を呼ばれて、クララは姿勢を正した。
「記憶を失っている間、手助けをしてくれたことに感謝している」
「何もしておりませんわ。無事に記憶が戻ってよかったですね」
クララにはそれが自分の本音なのか分からなかった。
記憶を戻してイヴァンと話をしたいという気持ちはあった。ちゃんと戻ったことには安堵している。
しかし彼の親しみのこもった視線が消えて、また不機嫌そうで気まずい空気が満ちていることに対しては、残念な思いと、やっぱりそうかという思いを抱いてしまう。
ここしばらく過ごした時間には意味がなかったような気がする。虚無感もあり、心の底から嬉しいかと言われると分からない。
記憶がないまま関係を深めるのは躊躇っていたのに、今は記憶が戻ったことに複雑な感情を抱えている。クララは自分が結局何を望んでいたのか分からなくなってしまった。
「しっかり元に戻ったのですから、さすがですね」
「いや……記憶はいずれにしろ三週間程度で戻るようになっていた」
「えっ、そうなんですか?」
それならいよいよ、過去を思い出そうとして奔走した時間は無駄ということだ。
(まぁ、結果、戻ったならよかったわ。また新しく関係を作ればいいのよ)
一度できると分かったから、多少の気まずさならまた乗り越えられるはずだ。クララは気を取り直して笑顔を作った。
半年間が無駄になっても頑張れたのだから、たった三週間が無駄になったことなんて、なんでもない。
イヴァンが顔をこわばらせた。
「本当に、すまなかったと思っている」
「実験に予想外の結果が出るのは当たり前のことでしょう。失敗はないとおっしゃっていたじゃないですか」
「実験の話はそうだが、人間関係はそうはいかない」
クララは目を見開いた。
「あなたは、わたしとの関係を、失敗だと思っているんですね」
つい声が低くなる。イヴァンは一瞬だけ迷子の子供のように不安げになったが、すぐ落ち着いた表情に戻った。
「私は、君との、その……関係を、築きたいとは思っていたが……」
イヴァンの声はだんだん小さくなっていき、最後は聞き取れないほどになってしまった。クララは耳を澄ませて前のめりになった。
イヴァンは咳払いして、聞き取れる声でもう一度話した。
「君が、君が……本来、しないような、作り笑いをさせてしまうことが、申し訳なくて、関わりを持つことが怖かった」
「え?」
クララは首をかしげた。イヴァンの話の筋が見えないのだ。
「どういうことですか? 最初の夜にわたしがあなたを拒んだから、距離ができたのではなくて?」
クララの記憶では、行為中の痛みにクララが耐えられずに思わず彼の身体を思いきり押してしまって、そのせいで彼との関係が拗れることになった。作り笑いの話はなんのことかよく分からない。
「最初の夜、作法を知らずに負担をかけたのは悪かった。君は痛みに耐えて、どのように続けるか話をしようとした。その後もずっと私といるときには無理をさせているのが分かっていた」
「ちょっと待ってください。わたしはイヴァン様との結婚を嫌だと思ったことなどありませんし、きっかけは父の意見ですけれど、自分で望んで結婚いたしました。無理なんてしていません」
イヴァンはクララの言葉を信じていないように見えた。
クララは立ち上がって、イヴァンの様子を見ながら彼の横に座った。
「イヴァン様が、わたしと関係を築きたいと思ってくださっていたことが嬉しいです。これからは、普通の夫婦として、わたしとやり直していただけますか」
イヴァンの手に自分の手を重ねた。拒否はされないが、イヴァンの顔は晴れない。
「そういう顔だ。学院にいたときは、そんな顔はしなかった」
「学院ですって? わたしのことをご存知でしたの?」
「ああ」
クララは学生時代のことを頭に思い描いた。
魔法学院にいる間は、友人に囲まれてずっと楽しかった。
だが、父に頼み込んで、本来両親が望む道を逸れた反面、卒業したらちゃんと両親が望む娘として振る舞うと決めていた。
頑張っても実を結ばなかった魔法の勉強は捨てて、父の望んだ人と結婚して、子供を産んで、幸せな母になるところを見せるつもりでいた。
だからこそイヴァンとの夫婦仲を改善することは必須であり急務だった。
責任もなく、ただ好きなことをしていたときと、全く同じ表情で過ごすなんて、そんなことはできるわけがない。
「ウィリアムズ先生から、私が”時間を巻き戻す魔法”を求めている話を聞いただろう」
「ええ」
クララは大きく頷いた。
「私には異母兄弟の弟がいる。昔、私が彼の顔に魔法で火傷を負わせてしまったことがあるんだ。それを消すために、時間を巻き戻す魔法がほしいと思っていた」
「そうなんですか」
「ああ。私は、弟を傷つけた罪悪感から逃げるために、魔法にのめり込んでいたところがある。だがそれは言い訳で、……私は、魔法が好きなんだ。君と同じだ」
強く注がれていたイヴァンの視線が、少しだけ和らいだ。
「君が、そんな話を、いつか友人たちとしていた。魔法を学ぶ理由は、好きだからだと言っていた」
クララは友人たちとの会話を思い出そうとしたが、いつそんな話をしたのかは覚えていない。
「とにかく、君のことはその言葉で印象に残って、在学期間が被っていたひと月はよく目で追っていた。名前は知らなかったから、結婚式で顔を合わせたときは本当に驚いた」
噂を聞くばかりだった遠い存在のイヴァンが、学生時代から自分のことを知っていたことに驚いて、クララの口からは言葉が出ない。
その間にイヴァンの話は続いた。
「私と結婚することが全く嬉しそうではないのは分かった。その上、夜には泣かせてしまうし、どうしたらいいか分からず……そうしているうちにひと月近く経って、さすがにこのままでは関係の修復も難しくなってしまうと思った。そこで、心理的な障害になっている思い出にまつわる負の感情を抑制できないかと考えた」
「なるほど……?」
「自分の行動が、過去の思い出を振り返って、君の笑顔を比較したり、また泣かせてしまうことを想像したりして、制限されていることに気づいた。そこで、この過去の出来事に紐づく感情を抑制することで、関係性を再構築する行動が取れるのではないかと仮説を立てた」
「はぁ」
「実践できるレベルの魔法にするにはそこから半年近く時間がかかることになり……ついに完成した」
「なるほど、それで失敗して記憶を丸ごと失ったということなんですね」
イヴァンは固まった。
「ごめんなさい……実験に失敗はないですよね」
「いや、君の言うとおり、失敗した。そもそも、ひと月の間何もできずに悩んだ挙句、訳のわからない手段に逃げた時点で決断にも失敗している。君に居心地の悪い思いをさせたはずだ。悪かった」
イヴァンは深く頭を下げた。
「訳のわからない手段って……」
クララはイヴァンの言葉を繰り返した。
なんとなく事情は把握したつもりだ。
イヴァンもクララと同じように、相手が自分との結婚を望んでいないのではないかと心配していて、初夜をきっかけにますます話しかけづらくなってしまった。
半年間、悩んでいたのは一緒だった。
クララの考えた解決策は、力技でひたすらイヴァンに話しかけようとすること。
イヴァンの解決策は、全く新しい魔法を編み出すこと。しかも人の認知や記憶に関する非常に高度な魔法だ。そんなことより、一言「一緒にお茶でもどうだ」とでも言ってくれれば、解決したのに。
悩んでいたことがとてもくだらなく思えてきて、笑うしかない気がしてきた。
「ふふ……」
クララの笑い声で、イヴァンが顔を上げた。
「ごめんなさい、新しい魔法は大発見なのに、きっかけがくだらない夫婦喧嘩みたいなものだなんて、おかしくって」
「重要な問題だ」
「そうですね。わたしたちにとっては……イヴァン様、先ほどの話ですと、三週間経ったら元に戻るということは、可逆式の魔法が成功したということですか?」
イヴァンは首を横に振った。
「いや、これは常に情報を切断するような魔法をかけ続けて、三週間でそれが消えるようにと仕組んだだけだ。記憶を失った状態と、保っている状態を行き来したわけではない」
「そうなんですか。難しいですね」
「結果が同じなら、できるだけ結果が安定して実績も多く、簡単な方法のほうがいい。時間を戻したいのは私の贖罪としての自己満足だ。時間を戻す魔法で治せば、弟を火傷させた事実ごとなかったことになるような気がして……愚かな考えだと思う」
少しの間、部屋に沈黙が落ちる。
励ましの言葉がすぐ出てこなくて、クララはイヴァンの手を握ることしかできない。
「君のことも、新しい魔法を作るより、向き合う努力をするべきだった」
彼が顔を上げたとき、ちょうどノックの音が聞こえた。
「どうした」
イヴァンが声をかけると、扉が開いてメイドが入ってきた。
「その、……フレミング子爵がいらっしゃいました。イヴァン様のご家族だとおっしゃっていますが」
*
ルーカス・フレミング子爵は十代中頃を過ぎたくらいの年齢の美しい青年だった。イヴァンとは全く違うブロンドの髪に、晴れた日の湖のように明るい青い瞳をしている。口角をあげて微笑む様子は、どこか神聖ささえ感じさせる。
彼の顔の左側、目の上から額にかけては火傷のあとがある。そこだけ作り物のように、彼の美しい顔の上では目立って見えた。
応接室のソファに座り、向いに立ったままのイヴァンとクララに目を向ける。
「どうぞ、座って。兄さん、久しぶり」
「お久しぶりです。フレミング子爵」
イヴァンが挨拶すると、ルーカスは拗ねたような顔をした。
「ちょっと! 爵位で呼ぶのをやめてよ。というか、記憶喪失はもう治ったの? それか、僕が子爵になったことを覚えているくらい新しい記憶を失ったというだけなのかな」
「ちょうど昨日思い出したところだ」
「えーっ、それは残念だよ」
ルーカスは身を乗り出した。面白くなさそうな顔をする。
「兄さんが色々思い出す前に、僕たちが実はすごく仲良しの兄弟だって思い込ませようと思ってまとめて休暇をとってきたのに、間に合わなかったかぁ」
クララは二人の兄弟の顔を見比べた。ルーカスがどうやら自分と同じような作戦を立てていたらしいことに、少し苦い気持ちになる。
ルーカスがパッと顔をあげる。
「手紙をありがとう、クララ夫人。おかげで住所が分かって助かったよ。兄さんって本当に薄情で、引っ越しても家族に住所も教えてくれないんだよ。結婚したことすら新聞で知ったくらいなんだ。ひどいよね。お祝いの品も持ってきたから、あとで二人で確認してね」
「恐縮です」
クララは、ちら、とイヴァンに目を向けた。
イヴァンの話ではルーカスの顔に残る火傷はイヴァンのせい。家族との仲も疎遠のはずだが、今のルーカスの態度を見ていると、ルーカスは仲良くしたがっているように見える。
「ルーカス、悪いが、まだ治癒魔法が完成していないんだ」
ルーカスは大きくため息をついた。
「もうそれはいいよ! こんなの、あってもなくてもどっちでもいいし、僕の顔は美しすぎるから、これがあるくらいでちょうどいいんだよ」
ルーカスは自分の前髪を上げた。
「兄さんも母様も、二人して十年も前のことをぐだぐだ悩み続けるのはやめてほしいんだ。母様もいちいち兄さんの部屋を通るたびにため息をついてくるから嫌なんだよ。家が辛気臭くなる」
「しかし……」
「僕の気持ちより自己満足で悩み続けるほうが大事なの?」
イヴァンは息を詰まらせた。
「それは、違う」
「じゃあ、今度家に帰ってきて。ちゃんと母様と話をしなよ」
イヴァンは頷くことなく黙っていた。
「約束だよ。もし僕の火傷に対して本当に責任を感じているなら、僕の言葉を尊重すべきだ」
「……分かった」
イヴァンが頷くと、ルーカスはデスクの上に小さな魔導具を置いた。
「言質は取ったよ。最新の音声保存用の魔導具だ」
「なっ……」
「じゃあ、待ってるから。よろしく兄さん。ちなみに僕はまだチェリーパイが大好きだから、土産はそれでいいよ」
ルーカスは機嫌良さそうに笑顔を見せると、用は終わったと言わんばかりに立ち去ってしまった。
イヴァンとクララは部屋に残されて、軽やかな足取りで彼が去っていくのを見送ることになった。
「火傷のことは、気にしなくてよさそうですね……?」
「弟は昔からあの態度だ」
「そうなんですか」
どうやら鍵になるのは母との関係のようだ。
「母に手紙を書かないと」
「お義母様はどんな方なんですか?」
「……優しい人だ。血の繋がらない私が、大事な子供に怪我を負わせても怒らなかった」
火傷を負ったルーカスも、その母も、彼を責めないのなら、なぜイヴァンがこの出来事を引きずっているのか。クララはイヴァンの言葉の先を待った。
「私を責めることはなかったが、魔法で治癒しようとした手を振り払われたことを覚えている。それを母はずっと後悔している様子で、私の前ではいつも無理して笑顔を見せるようになった」
イヴァンは深く息を吐いた。
「私がいないほうが、家に笑顔が戻ると思ったのだが……昔からどうも、向き合わずに逃げる悪癖がある」
「確かにそうですね。傷つけないようにする方法が、離れるしかないなんて寂しいですよ」
「悪かった」
クララは、イヴァンが反射のように謝ることに苦笑いした。責めたわけではないのにそう受け取ってしまう性格のようだから、毎回訂正する必要がありそうだ。
「イヴァン様、わたしのことは、諦めないで話そうと思ってくれていたんですよね。実験は、……少し予想と違うことになりましたが」
「ああ。失敗した。全く予想と違う動きをした」
「その過程で得たものもありましたよ。あなたが優しい人だということがよく分かりました」
クララがイヴァンの手を取ると、イヴァンは苦い顔をした。
「複雑だ。君が心を寄せてくれたのは、私であって私ではないようなものだし」
「もう! どちらもあなたじゃないですか。それに……」
クララは、記憶を失ったあとのイヴァンと距離を縮める前に、ちゃんと彼と向き合いたいと決めたのだ。
それを今更話すのは、取ってつけたように聞こえるような気がして躊躇う。
イヴァンが身をかがめて、クララの頬に口付けた。
「記憶を失っている間に、過去の自分に妬いたことは覚えている。君の心に、私もいたのだと思いたい」
「いました……けど、あなたって本当に意気地なしですね! 花畑ではここにしてくれたでしょう?」
クララは自分の唇に人差し指をつけた。
軽く背伸びをして彼の手を引くと、優しく唇が重なった。
*
イヴァンは無事に母に手紙を書いて、一度実家の屋敷に戻ったらしい。
幼い頃に、ルーカスが好奇心でイヴァンの魔法に手を伸ばし、慌てて魔法で治癒しようとしたイヴァンの手を、義理の母が振り払った。
彼女自身は魔法が使えず、当時から魔法の力が強かったイヴァンをどこかで恐れていて、これ以上ルーカスに危害があったらと思うと反射的に振り払ってしまったらしい。
イヴァン本人にルーカスを傷つける意図がなかったことも、そんな性格ではないことも、彼女は分かっていた。イヴァンを信じられなかったことをずっと後悔しているのだと、顔を合わせてからずっと泣いていたという話を聞いた。
ルーカスはお互い謝罪を繰り返す二人にうんざりしたらしく、「次に謝ったほうの口にチェリーパイを一切れ丸ごと突っ込むからね」と話を無理矢理切って終わらせたらしい。
そんな話を聞いて、クララは自分も父に手紙を書くことに決めた。
国立魔法学院での勉強をさせてもらったお礼と、そこでの時間は本当に楽しかったこと。そしてイヴァンと結婚して、今も彼の隣で魔法の勉強を続けていること。
幸せに過ごしているのだと伝えた。
父の考える幸せと、クララが考える幸せは少しだけ違うかもしれない。違うことを伝えたいという自己満足もあり、でも父が幸せを願ってくれていることを理解していることも伝えたくて、文章はめちゃくちゃだが言いたいことは言えた気がする。
書き終えて封をしたら、心が随分晴れやかになった。
満足して息を吐き、そろそろ眠ろうかと思って椅子から立ち上がったところで、ノックの音が聞こえた。
扉に近づいて出迎えると、白いナイトシャツ姿のイヴァンが立っていた。彼のこの姿を見るのは久しぶりである。
以前のイヴァンは、クララがネグリジェで夜に部屋を訪れても講義をするだけだったから、あまり意識していなかった。
しかし彼と口付けて、熱っぽい視線を向けられるようになってからは、夜中に自分から部屋に行くことができなくなってしまった。
父の希望に沿った生活をするために彼を誘うのではなくて、自分の意思がそこにあるのかと意識するようになったら、過去の行動がとんでもなく恥ずかしいことだと感じたせいだ。
イヴァンもそれに気づいただろうが、彼はなにも言わない。
時間が経つとますます話題にしづらくて、お互い様子を見ながら過ごしていたところだ。
「イヴァン、様……」
彼は気まずそうに一度目を逸らした。
「中に入っても?」
「え、ええ。もちろんです」
クララはイヴァンを中に招き入れた。扉が閉まると、部屋が静かすぎる気がする。
「手紙を書いていたのか?」
「はい。あ、でも、もう書き終わりました。ちょうど封をしたところです」
「そうか」
「はい」
お互いその先の言葉がなくて、また沈黙になった。クララが先に耐えられなくなり、口を開いた。
「父に書きました。イヴァン様がお義母様とお話したことを聞いて、わたしも父と話をしてみようと思って」
「そうなのか」
「ええ。作り笑いをしていると言われて、思うところがあったんです。うちの両親は厳しくはないですけれど、わたしが求めていることと、二人が考える幸せが少しだけ違うところがあって、少し無理して合わせようとしていたなって」
イヴァンは話の続きを促すように頷いた。
「それでも幸せですし、いままでのことには感謝もしています。改めて言葉にしてみたかったんです」
「それで晴れやかな顔をしているのか」
「……ええ。そんなに顔に出ているかしら」
イヴァンは表情を和らげた。近寄りがたく感じていた夫だが、それは彼が緊張しているだけで、普段の表情は思ったより柔らかい。
「義父上が声をかけてくれなければ、私が君と結婚することもなかったはずだ。私は感謝している」
「わたしもしてます」
不本意な結婚などではないと伝えたはずだ。
まだ自分の言葉を信じてもらえていないのかと思うと少し不満だ。
クララがイヴァンのことを見上げると、イヴァンと目が合う。そのまま彼の手が、クララの手を包んだ。乾いた指先が、甘えるように手の甲を撫でる。
なにか言ってくれればいいのに、イヴァンは黙っていた。
指をつまんだり、軽く力を入れて抜いたり。遊んでいた指先が一度離れて、手が絡み、強く握られて腕を引かれる。
清潔な香りのナイトシャツの向こうに、彼の体温と心音が伝わってくる。クララはイヴァンの背に手を伸ばした。
少し身体が離れると、海のような青い瞳が熱っぽく揺れているのが分かって、クララの心臓がうるさくなった。同じくらいイヴァンの心音も速い。顔が熱くなってきて、思わず目を逸らそうとすると顔を押さえられる。
額が合わさって、体温が伝わってくる。指先が耳を撫でるくすぐったさに、クララは背中が震えるのを感じた。
顔が近づく動きに合わせて、クララはゆっくり瞳を閉じる。まだ忘れていない唇の感触はそのままで、ただ少し吐息が熱い気がする。
「言葉がなさすぎますよ。ローレンス様が甘やかすからだわ」
クララの呟きに対して、イヴァンは反論しなかった。
「何を言えばいい」
「思っていることを教えてください」
「……君と毎晩話すのを楽しみにしていた。会えないと寂しい」
予想外の言葉に、クララはなんだかずるいという感想を抱く。
「話すだけでいいんですか?」
イヴァンは首を横に振った。親指がクララの唇に触れる。
「君に触れたい。この先を許してほしい」
まっすぐな言葉と視線がくすぐったくて、クララの頬が少し熱くなる。どうぞ、と呟く音が口から漏れるか漏れないかのところで、もう一度強く抱きしめられた。
*
父からの手紙の返事は一週間もしないうちに届いた。
いつものように孫はまだかという文言と一緒に、今度国立魔法研究所と共同で魔導具の開発を考えているから、そこのチームに加わるかという話があった。
相性のいい魔法粒子が限られていても、魔法が使えるようになる補助魔導具の開発らしい。
――お前の優しい魔法が好きだけれど、それをもっと多くの人に知ってもらうのも悪くないと思っている。
父に魔法を見せたことなどあっただろうか。思い出そうとしたけれど、クララには覚えがない。せっかく学校に行かせてもらったのにまともに使えないことが恥ずかしくて、父にはとても見せられなかった。
後々実家を訪れたとき、母から、使用人がこっそりクララに小さな怪我を直してもらうのをずっと羨ましそうにしていたのだと聞かされた。
その日の夜、クララが父にどこか悪いところはないかと聞いたら「そんなところはない」と言うので少し残念な思いをしたところだ。
一週間後に、「最近腰が痛くなってきた」と父から手紙が届くことになる。今のところそれを知っているのは、手紙を書いた父本人と、その少し前に彼になにか耳打ちした、クララの母だけである。
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