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#6



荒い呼吸の中、哲平が口を開く。


「わ…かるか。刃物で刺されれば人は…傷つく。血が流れる。痛む…んだ…よ、身体も心も…な…」


周りの誰もが、手を出すことさえためらわれた。


「何で、何で避けなかったんだよ!!あんた強いんだろ!オレなんかよりずっと!!」


震えながら叫ぶ順一は、それまで力をこめていた両腕をだらんと下げた。微かな金属音が響いてダガーナイフが道路へと落ちる。

返り血を浴びて真っ赤な手のひらを、じっと見つめる。この手が、この手が人を…。





「人を傷つけるってのが…どんなことか。知らなければおまえはいつか、歯止めもなく人を殺す。それで…いい…のか?」


「だからってこんな…。あんたバカか!?何だってこんなことすんだよ!!平気なのかよ!?」


目の前で大声を出すこいつは、泣いている大きな子ども。あの夜駆け回っていた、無表情な二人の幼子を思い出す。あの子たちは泣くのだろうか。

哲平の意識がふと途切れかかる。思ったより出血が多いのか。

そっと近づく年かさの女が、自分の巻いていたスカーフを手に取る。


「小張姐すまねえ」


黙ってな。すぐ医者行く、いいね。傷のすぐ上を彼女が縛り上げる。みるみるうちに赤く染まる布。





「おまえもここにいて、こんなことが当たり前の生活に慣れたいか?揉め事や争いごとが絶えず、命の危険にさらされて。ジュクで暮らす限り、避けては通れねえ。悪いことは言わねえから地元へ帰れ」


「あんなクソ親父のいるとこになんか、帰れるかよ!!」


誰かが知らせたのだろう、兄貴分の吉田が飛んできた。状況を見て取ると思わず順一に殴りかかろうとした。


「てめえこの野郎!!なんて真似を!?」


吉田…、こいつに手を出すな。静かな哲平の声に、吉田が固まる。


「でも津雲さん、こいつはあんたを。俺らのシマでやられたことですから、俺らがきっちりこのガキに落とし前をつけさしてください」


はん、こんなかすり傷。哲平は無理にでも笑った。腕はしびれ、痛みよりもじりじりと焼けるように熱かった。しかし縛られた分、流れ出る血の量は減ったのだろう。確かに先ほどよりは楽になった気がした。


「こいつに指一本でも傷つけたらな、この津雲哲平が黙っちゃいねえぜ」


凄みの利いた薄笑い。本物の筋モノである吉田が思わずビビるほどに。





哲平は自由の利く左手でまとまった札を取り出すと、突っ立ったままの順一の胸ポケットにそれをねじ込んだ。


「……!?」


「これで地元帰って部屋借りろ。まっとうな仕事を探せ。保証人はこの吉田が、堅気さんを紹介してくれるから安心しな。吉田!くれぐれも組の名前なんぞ出すんじゃねえぞ」


へ、へえ。幹部から言われているかのように吉田が頭を下げる。






「イヤだ!オレは帰らない!!あんな街はキライだ!!あのクソ親父はどこまでもオレを!おれを追っかけてくるんだよ!!」


「そしたら逃げろ、逃げまくれ。ただし逃げ込む先はここじゃねえ。ジュクじゃなく、お天道様の当たるまっとうなところだ」


順一の肩に手を置き、哲平は息を切らせながらそう告げた。




「イヤだ、イヤだ!またオレに説教するのか!?あんたに何がわかるんだよ!!」




ばーか、説教するほどおれがそんなに親切なわけねえだろうが。見りゃわかるだろ?思わず苦笑い。

哲平の思いのほか澄んだ瞳は、優しげに順一をのぞき込んだ。





「おれも…とんでもねえクソ親父を刺したからだよ」


順一が驚いたように顔を上げる。その言葉に吉田も、周りの連中も押し黙る。


「おれも逃げればよかったんだ、おまえみたいにな。三十六計逃げるにしかず…思いもよらなかったよ。おまえの方がよほどマシだ。院にぶち込まれて一年半、ちょっと前まで勤めて二年。どんなにあがいてもおれはここから抜け出せねえ。おまえはまだ…やれる。いくらでもこれから、な」


津雲…さん。順一は言葉を失ってただ見つめるばかり。


「おれはジュクが嫌いじゃねえ。だが、おまえにはこの街に染まって欲しくない。おれの勝手なわがままだな。悪いね、お節介はデフォルトなもんで」


そのまま哲平は、彼の肩をもう一度叩くと歩き出した。縛り上げた腕からの出血は、もう目立たなくなってきてはいた。しかし、それでも残る彼の瘢痕。


「ダガーが見つかるとやばいからな。吉田、後始末を頼むぜ!」


そう声を上げる哲平は、もうすでにいつもの朗らかな彼だった。


順一は道路にそのままぺたりと座り込むと、辺りをはばからず泣き出した。




「バカだよ、津雲さん!何でオレなんかのために!!バ…カ…にもほどがあるよ」




泣きじゃくり、地面をこぶしで叩く。その背中をしゃがみ込んだ吉田はいつまでもさすっていた。





ドアがきしむ。


「ずいぶん早かったわね愛華ちゃん。買い出し全部済んだの?」


振り向く若菜は、その姿を見て息を飲んだ。


「哲平…ちゃん、どうしたの?そのケガ。酷く血が出てるじゃない!!まさか刺されでもしたって言うんじゃないでしょうね!?」


哲平は店に黙って入り込むと、開店の準備を進めていた若菜に近寄っていった。


手当をしなきゃ、ねえ病院に、哲平ちゃんたら聞いてるの!?





彼女の声を全く無視するかのように、片手で着物姿の若菜を抱き寄せた。そのままカウンターに身体を預けるように押しつける。


「もう、すぐ…店を開かな…きゃ」


言いかけた若菜の髪をぐいと掴むと、荒い息のまま哲平は唇を重ねた。ねえ、愛華だってじきに戻ってくるわ。お願いだから今は…。


「うるせえぞ、ババア。減らず口なぞ利けなくしてやる」


うめくように耳元で囁く。


火照った身体ごと押し当てる。左手だけで若菜の着物の裾をさばくと、露わになる腿へと手を這わす。


「傷に障るわ。止めてお願い、今ここじゃ…だ…め…。誰か…来たら…気づ…かれ」


「だったらおれを感じるな。かけらほども、これっぽっちもだ」





本当に泣きたいのは誰だったんだろう。辛さも悔しさも…どこにも出せずに来たのはどこのどいつだ。順一の泣きじゃくる声が耳に残る。おれもそうすればよかったのか。いつ、誰に、どうやって!?


若菜の薄いシルクを無理やり引き下ろす。優しさも愛撫も何一つなく、まるで初めての男を迎えるかのような狭い彼女の中に、哲平は分け入っていった。


痛みをわけ合いたいのか。それとも一見、残虐に見える深い愛情なんて寝言を信じているのか。ただただ、力でねじ伏せたいのか。


苦痛に歪む若菜の表情を、ぼんやりとした視界で捉える。それはやがてゆっくりと恍惚に変わる。脚を上げ、絡ませる。彼女の方から。




二人は黙ったまま、律動を繰り返した。




英文学専攻の女子大生。留学資金を貯めるまでと割り切って銀座へと来た女。清楚な風貌と頭の回転の速さ、そして見た目よりずっと勝ち気なその性格で、どんどん指名客を増やしていったことは今でも語り草になっている。


留学どころか家でも建つのではというほど貯め込んだ金を、男にトチ狂った実の母親に根こそぎかっさらわれて、気づけばこの世界から抜け出せなくなっていた…可哀想な女。





若菜の綺麗に結い上げた髪は乱れ、豪華な刺繍のほどこされた着物は哲平の血にまみれた。

それでも、彼は若菜を抱きしめ続けた。心の中の涙が、すっかり果てるまで。


「…てっぺい…」


なぜおまえまで泣くんだ。涙を唇ですくい取る。


…おれはおまえのことなんぞ、これっぽっちも思っちゃいねえ。


「知ってるわよ、そんなこと」


…万が一は、可能性だってねえからな。


「男になんか、はなから期待してないわ」


…じゃあ、何で抱かれた?


若菜は艶めいた瞳で、呆れ混じりの小さな笑い声を立てた。


「バカねえ。あんたが勝手に店に飛び込んできて、自分で押し倒したくせに」


哲平がバツの悪そうな顔で黙り込む。はん、かなわねえな。女にはよ。





洋装に着替えた若菜は、慣れた手つきで哲平の手当をしていた。包帯をきつめに巻くが、どうしてもすぐに血が滲む。悪いこと言わないから病院で。その言葉を哲平は無視した。


「あーあ、二百万の訪問着が台無しだわ」


「おれが誂えてやるよ。もっといいヤツをな」


クスリと笑うと、若菜はいたずらめいて哲平を睨んだ。


「なあに?この店のツケを全部払ってくれて、その上で出世払いって話なの?」


ったく、このババアはかわいげがねえ。とたんに哲平はふてくされた。

ころころと笑う仕草に、どこかみすずを見たような気がして、慌てて彼は目を背けた。





ドアが乱暴にドダンと開いた。このがさつさは愛華に違いない。


「いやん、重かったあ。あれえ?ママ、ドレスに着替えちゃったのぉ?珍しいわねえ、あたし初めてかも、ママのドレ…」


そこまで言って初めて哲平に気づくと、愛華は意味ありげににやついた。


「ごめんなさあい、お邪魔だったかしら。そうよねえ、もう一回着付けるのって大変だもんねえ」


嫌みったらしい含み笑い。むかついた哲平は、椅子を蹴って立ち上がった。


「うるせえ、このブス。はっ倒すぞ!誰がこんなババア相手にするかっつっただろうが。全くもてる男は辛いやねえ。まあ、顔を見ないで済むんだったら、愛華でも何でも、しょうがねえから可愛がってやってもいいぜ?」


ここぞとばかりに、皮肉げに言い返す。いつもの哲平の声だ。


「もー、アッタマ来るんだから!!これでもあたしのこの、色白でもちもちっとした肌が好き、って言ってくれる人は、たくさんいるんですからねー」


思い切り舌を出す。ぽっちゃりとした愛華がやると、かわいらしいと言えなくもない。


「まあねえ、どこの世界にもマニアってのがいらっしゃいますからねえ」


チャラけたからかい声に、てっぺーさんたらっ!と愛華は手を振り回した。それがちょうど哲平の右腕に当たり、思わずうめき声を上げてしゃがみ込んだ。





「ちょ、ちょっと大丈夫!?てっぺーさん?」


哲平は床にへたり込んだまま動けない。若菜が慌てて走り寄る。彼は息を荒げて青い顔を上げた。


「…ダメだ…いくらこのおれでも、さすがに目が回る。力が入らねえ…」


もう年だ…。へこむ哲平にバカねえと呆れると、若菜は救急車を呼ぶように愛華へ告げた。


「よしてくれ!みっともねえ」


そんなこと言ってる場合じゃないでしょうが!!そう言う若菜に「マズいんだよ、いろいろと」とささやく。


「わかった。ごめん愛華ちゃん、車呼んで。あと石丸医院に連絡しておいて」


放っておいてくれ!誰が行くか、あんなヤブ医者!!





子どものように駄々をこねる哲平に、若菜は母親が叱るように顔を近づけた。


「こんな訳ありの刺し傷、黙って縫ってくれるところが他にあると思う?」


す、すみません。哲平はシュンとなって身を小さくした。





…これだから女ってヤツは…深く深くため息をつきながら。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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