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#3

#3



裏通りを抜けて、いつしか哲平はコマ劇の前まで来ていた。


新宿コマ劇場は永く親しまれてきたが、建物の老朽化によって閉館となり近隣のビルと併せて再開発を待つ身である。多くの興行、公演が開かれたその聖地は、今や灯りも消え、廃墟のごとくうっそうと建ちつくしている。いくらリニューアルされようが手が加えられようが、あの独特な熱気と爛熟した文化の匂いは蘇ることはないだろう。

歌舞伎町自体が「浄化作戦」の名の下、大きく変貌してゆこうとしている。都知事も警察庁からわざわざ出向させた元副知事も、この街に原始の頃の秩序を取り戻させようと躍起であった。




ああ、確かにこの街自体は綺麗になるだろう。薄汚れた連中は…さらに深く地に潜るだけだ。




コマ劇のはす向かいは、目にも眩しいネオンに彩られたミラノ座が見える。若者の騒ぎ立てる声。あの年代特有の甲高く、気の触れたような笑い方。何がそんなに可笑しいのか。





…河岸を変えるか。


哲平は敢えて裏通りを通らず、駅の方へと向かっていった。ゲーセン、カラオケ、映画館。はん、健全すぎて涙が出らあ。

小綺麗な格好の若い男たちと、肩やら足やらをあけすけに露出した娘たちがはしゃぎ回る。


その足元には、堅いアスファルトに直に横たわる黒い物体がいくつもあるというのに。それは生命を持ち、ときどき寝返りを打ってはもぞもぞとまた自分の寝床に入ってゆくのに。


路上生活者は静かだ。何の言葉を発することもなく眠っている。いや…眠りと死の区別はひどく曖昧で、彼らにもおそらくわかってはいないだろう。


死んでいないと生きているの差は、これだけ歴然としているくせにな。


騒ぐ若者を苦々しげに見つめる、客引きの商売人たち。あいつらは飲み屋なんぞには金を落とさない。大声を出すだけ出し、動くオブジェとなってこの街を彩る。





哲平は、思わず自らの若い頃の記憶をたどっていた。おれもあんなふうに酔っぱらって騒いだことがあっただろうか、と。


学費と生活費は奨学金ではとても足りず、手っ取り早く稼ぐためにこの街に潜り込んだ。昼間は眠い目をこすりながら必死に授業を取り、ゼミが終わるか早いか、バーテンとしてシェイカーを振る。

おれはいつ眠っていたんだろうな。思い出し笑いすら彼にとっては苦いもの。


酒は飲むものではなく、飲ませるものだった。相手の出方を見ていかに効率よく高い酒を勧めるか。


おれにとってはただの金の出どころにしか過ぎなかった。情報を集める方法は厭と言うほど勉強させてもらえたがな。





賑やかに楽しむ彼らを遠目で見ていた哲平の脇を、何かがふわりと通り過ぎる。

あまりに不意すぎて、さすがの彼でさえもびくっと身体を弾いた。




こ…ども?




それはまだあどけない、髪を肩辺りまで無造作に垂らした女の子だった。必死に走る。

何かあったのかと焦って辺りを見回すが、特に誰がいるわけでもない。彼女は形ばかりの広場にあるポールに触ると、踵を返して再び哲平の突っ立っている場所まで走ってきた。

そしてまた、同じルートをたどって走り抜ける。無表情に、何度も。


あとからやってきた、その子よりやや年が上の少年も、彼女の動きに合わせて走り始める。二人は鬼ごっこをするでもなしに、競走をするでもなしに、ただただ二人で動き回る。そのうち見た目にも頬が紅潮して、ようやく彼女らにほんの少しばかり笑顔が浮かんだ。


こんな夜遅くに親はどこにいやがるんだ?

最初は迷子かと思ったが、あまりにも二人が平然としていたので哲平は声を掛けるのをためらった。


おそらく親が放置しているのだろう。その辺で遊んでおいでとでも。行き先など考えたくもねえ。どこだっていい。子どもの連れて行けないところなのだろうから。




おれだったらこんな可愛いガキを、ほったらかしになんぞしねえぞ。


そう憤ってから、哲平は軽い目眩を感じてその辺の柱に寄りかかった。酔った訳じゃない。あの日のみすずの涙を、泣き顔を思い出したから。





籍を入れる前、そして一緒に住み始めてから。二度の悲しみに彼女は泣いた。男のおれにそのとき何ができた?みすずの涙が辛くて、部屋を飛び出した。側についてもやらず飲み歩いた。家に帰れば、暗い目をしたあいつにぶん殴られた。最低男となじられながら。




どうしちまったんだ、今夜のおれは。




過去に足を絡め取られる。飲み過ぎたのか、ばかばかしい。たったあれっぽっちの酒。

この街がすべてを思い出させるからだ。早くここから離れなければ。





足早に西武新宿駅の前を通り過ぎ、乗り慣れた方のJRに向かう。全く違う方向へと逃げ出したかった。どこだっていい。渋谷か?新橋か?それとも有楽町まで足を伸ばすか。


人混みでごった返す歩道を、下を向きながらひたすら歩く。先ほどの集団も路上の物体も駆け回る子どもも、どこかに消え失せろ。


この街が好きだ。だが、おれはこの街が大嫌いだ。二律背反の命題。


哲平は大きくため息をついた。何もかにも苛つく。すべてぶち壊してやりたい。銃で撃ちまくるのは性に合わねえ。壊したいのはこの世界。一億の人間とおれと、どちらを消せばそれは消えるんだ?自明の理だな。我思う故に我あり。この世界はおれの主観の中にだけ存在する。おれが消えれば世界も消える。

なら一億人を滅ぼして歩くより、おれ自体を滅ぼしてしまえばいい。





一番自分らしくもない考えだと、彼は十分わかってはいた。誰よりも何よりも生き抜くことこそ大切だと思ってきた。と同時に、いつ終わっていいとさえ思っていた。


ほら、ここにも現れる二律背反。おれには白か黒かしかねえのか。





だめだ、手っ取り早く缶ビールでも何でもいいからアルコールを足しておこう。自我を麻痺させ、何も考えなくてすむように。


自販かコンビニを探そうと顔を上げると、いかにも地方から出てきたという若者三人組が、一人の男に声を掛けられているのが目に入った。


「…でね、ほら東京初めてでしょう?やっぱり。出身どこ?ああオレと同じじゃん。なっつかしいなあ。だから声掛けたんだろうなあ、匂いでわかるもん。この辺はさ、けっこう高い店あるから気をつけなよ。オレが案内してやるよ。大丈夫大丈夫、若く見えるでしょ?これでも東京長いから。詳しいんだよオレ。よく知ってる先輩がやってる店、紹介してあげるよ。同じ地元じゃん、絶対悪いようにしないって。一時間で一人三千円。追加なんてないよ?ふつう、有名な歌舞伎町でちょっと飲んだら万札飛ぶよ。それにさ、ちゃんといい女の子もつくんだし。ほらほら、こっち。ちょっと歩くけどいいよね」


立て板に水とはこのことか。哲平とて口から先にとはよく言われるが、この男のセリフには独特のきな臭さがあった。多分に素人じみた、な。


哲平は自販機の前で、内心ニヤニヤしながらこの会話を聞いていた。どうするつもりだ、こいつ。ほら、若い田舎の青年たちはとまどい顔で相談を始めた。決断させるのに時間がかかればかかるほど、魚は釣れないぜ?


「一生に一度かも知れないよ?新宿で遊べるなんてさ。いい思い出作っていこうよ」


いい思い出ねえ。さんざん脅され身ぐるみはがされて、確かにいい経験にはなるだろうな。


「じゃ、じゃあお願いしますう。俺だち来年は就職だからって思いぎって東京観光さ来たです。親切な人でよがった」


今どきいねえよ、こんな絵に描いたようなお上りさんは。哲平は身を震わせて笑いをこらえた。参ったねえ、この辺が潮時かな。彼はそっと案内役の男に近づくと肩を軽く叩いた。





「なあ、そのあたりで勘弁してやって貰えませんかねえ。こんな純朴な青年たちなんか、どこの田舎探してもいませんやね。今や希少価値ですよ、大事にしてやりましょうや。唯一の東京の思い出がぼったくりじゃ可哀想でしょうが」


「何だよおっさん、邪魔する気か?」


背の低い哲平を見下ろすような形で男が睨みをきかす。悪いがビビりたくともビビれねえよ、そんなチンケなガンのつけ方じゃよ。


哲平が掛けていた薄いサングラスをゆっくりと外す。思いのほか知的な瞳がギラリと光る。




…これで相手が吹っ飛んでくれれば、楽なのになあ。




年若い友人を思い出し、つい苦笑い。それを挑発と捉えたのか、男はムキになった。


「おっさんには関係ネエだろ!?ケガしたくなきゃ引っ込んでろ!!」


「おまえどこの組のもんだ?墨田会系の日向じゃなかったか、この辺のシマは」


ふん。若い男は鼻を鳴らした。組だの何だのってのはな、流行らねえんだよこのご時世には。オレたちは実力でここらをテリトリーにしてんだ。いつの時代の話をしてるんだよ、このジジイはよ!!


自分よりかなり年若とはいえ、ジジイ呼ばわりされて哲平は思わずムッとした。あったま来るガキだな、おい。こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって。


「こんなおかしいジジイは相手にしちゃダメだよ。よく居るんだ、ここにはさ。ほら早く店に行こうよ。飲む時間なくなっちゃうよ?」


若干焦りの表情を見せて、男は青年らへと必死に声を掛ける。しかし彼らもすでに腰が引けていた。


「組って言わねがったが?」


「アブねえところか?」


ぼそぼそと不審そうな言葉がささやかれる。


「すいません、せっかく親切にしてぐれてんのに。俺だち悪いけんど…」


一番しっかりしていそうな青年が思い切って口を開く。


ここに来てそりゃないでしょう!!男がつい大声を出すのに、彼らは顔を見合わせて蒼くなった。足がすくんでいる。





「いいから帰りな。そっちの駅の反対側には、もっと普通の居酒屋があるぜ?」


哲平が精一杯にこやかに話しかける。しかし彼の目は、早く逃げろと明確なサインを出している。幾分ほっとしたように青年らは頭を下げてそこを離れようとした。


「ふざけやがって!!オレの客に手を出すんじゃネエよ!!」


突然叫ぶと、男はポケットからバタフライナイフを取り出した。ためらう間も見せず哲平に向かってくる。





彼は全く動じない。


最小限の動きだけで一撃目をかわすと、手刀であっさりナイフをはたき落とした。そのままそいつの手首を掴んで地面に押しつける。


あごで青年らに、行けと合図を送る。彼らは大荷物を手に走ってその場を逃げ出した。


「ちきしょう!!ちきしょうてめえ、何の権利があってオレの仕事の邪魔すんだよ!?手え放せよ!暴力行為で訴えてやる!!」


「バカかおまえ。その前にな、銃刀法違反と傷害未遂で捕まるのはおまえさんだぜ?話し合いも探り合いも駆け引きさえなしで、いきなりナイフは道義に反するんじゃねえの?」


まるで世間話のように気楽な声で、しかし哲平はのしかかる力をさらに強めた。ねじ伏せられた腕の痛みで、男がギャアギャアわめく。


「組もへったくれもねえと言ったな。それが健全かも知れねえさ。だがな、ナイフで刺されれば相手は痛いと知ってるか?下手すりゃ死ぬんだぞ?そういう飛び道具は最後に出すもんだ。そういうことを上から教わらずにジュクで稼げると思うなよ?」


この若い男がまともにケンカ慣れしているとは思えなかった。ふらつく身体はおそらく鍛えてもいないだろう。


それなのにためらいもせずに殺傷能力の高い武器を手にする。

やりきれなさに哲平は奥歯を噛みしめた。





この街も変わる。この国も…変わる。昔がよかったとはとても言えない。けれど何かが違って何かがおかしい。そのことが彼の心に陰を落としていった。


彼ら二人を遠慮がちな人垣が隠していた。新宿では見慣れた光景なのだろうか。警察が飛んでくる気配もない。皆、関わりを持ちたくないのだ。





「順一!!」


その人垣をかき分けるように、おそらく兄貴分であろう男が声を掛ける。順一と呼ばれた若い男は、吉田さん…と気弱そうにつぶやいた。


この野郎、うちの若いもんに。順一の上ににやついたままでいる男を睨み付けた吉田は、言いかけた言葉を飲み込むと慌てて頭を下げた。


「すんません!!うちのが何かしでかしたんすか!?あのこのことはどうかあの…」


「吉田、久しぶりだな。そのあわてっぷりを見ると組に黙って内職か。いい度胸してんじゃねえの?」


兄貴分の豹変ぶりに順一が目を見開く。哲平はナイフだけを確保すると、彼を立たせ、吉田へと押しやった。


「これは駅の東口交番にでも届けておくかな」


勘弁してくださいよ、吉田が泣きを入れる。哲平はにやりと笑うとしっかり畳んだそれを彼に手渡した。


「こいつはこのガキに持たせるにゃ十年早ええんじゃねえの?しっかりおまえが、『ご指導』しとけよ」


直立不動で哲平の言葉を聞く吉田は、すんませんでした!と頭を下げ、ほらおまえもと順一の首根っこを掴んで無理やり謝らせた。


「何すんだよ、吉田さん!オレは組で働いてるわけでも何でもないっすよ!!何でこんなおっさんに、わび入れなきゃなんないんすか!?納得いかねえっす!!」


いいから黙って頭下げろ!!吉田に一喝されて順一はむすっとしたまま口を閉じた。


「津雲さん、お詫びといっちゃ何ですがうちの店で一杯…」


吉田のその言葉に哲平はとうとう笑い声を上げた。


「おいおい、おれはぼったくられる気はねえぜ?じゃあな」


いつものように後ろ姿で片手を振る。哲平のそう大きくもない背中が混雑した駅構内に消えていった。





「あのジジイ、何なんすか?この仕事に組のしがらみなんてない、吉田さんオレにそう言いましたよね!?」


悔しさから吐き捨てるように順一は言った。


「バカ。あの人は組とは何にも関係ない。ある意味それよりも怖え」


吉田の静かな口調に、逆に順一はぞくりとした。どういうことっすか…。





「関わるなってことだよ。あの人の見てる世界は俺たちよりもずっと、深くて暗い闇ん中なんだからな」


二人は呆然と立ちすくみながら、とうに姿の見えなくなった哲平の残像だけを見つめていた。



(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved

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