#2
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顔の広いのもときには考えものだな。
自分で言うのも何だがな、と哲平は苦い思いをかみ殺した。人脈の広さと情報収集能力の高さ、それが彼の武器だ。しかし同時に彼自身にとっては己の身を縛るものでもある。
味方も多いがそれ以上に敵も作ってきた。自嘲の歪んだ笑いをどう捉えたのか、女が気色ばむ。
「何よ、津雲さんってまだみすずネエさんに未練たらたらなんじゃないの?」
「いい加減にしておいて、サオリちゃん。ここはあんたの店じゃないわ」
若菜が短く言葉を投げつける。しかし、それで引き下がるサオリではなかった。
「あーあ、アタシも華恋に入ろうかしら。余分なしがらみもなくなったし、ネエさんがいないんだったらナンバーワンくらいアタシだって…」
余分なしがらみ、か。哲平はこれまでの事件を知らずと振り返っていた。青龍会という後ろ盾を失った今、あの店もどうするつもりなのか。別の組とのつながりを求めて動くのか。あそこの経営者もやり手だからな。いくつかの情報は得てはいたが、おれには関係のないことだと敢えて目をつぶっていた。
華恋にもみすずにも、おれはもう縁もゆかりもない人間なのだから。
珍しく何も言い返さない哲平を見て、サオリはわざとひどく酔った振りでしなだれかかってみせた。連れの男はむっとした表情を隠そうともしない。
哲平は肩に頭を乗せるサオリを手で払いのけようとしたが、それでも何も言わずに、いや言えずにいた。
あまりにも重い、彼にしても重い真実の数々。こいつらには一生わかりもしないだろう。
調子に乗ってさらに近寄ろうとした彼女に、だが若菜はらしくもない厳しい口調で言い放った。
「馬鹿なこと言うんじゃないよ、サオリ!アンタがトップ取れるはずもない。だいたい新宿まで流れてきた女が、今さら銀座に戻れるわけがないでしょうが」
まるで自分に言い聞かすかのような若菜の言葉に、サオリは唇をかんだ。
気分わる!!出ましょうよ!吐き捨てる彼女の体を抱き止めるようにして、連れの男はにやついた。
「おいおい、こんなところで女のメンツ掛けた喧嘩かい?お兄さんよ、色男はつらいねえ」
場をうまくまとめたつもりでいるのだろう、男は悦に入った表情で哲平の顔をのぞき込んだ。
てめえとは一言だって話したくねえ。哲平が漂わせているオーラをものともせず、男は無遠慮に話し続ける。
「何かねえ、この不況でこうやって寂しく飲んでるお兄さんを見るとさあ、人生の先輩としては放っては置けないんだよねえ。お兄さん、仕事は何だい?」
哲平は黙っているつもりだったが、若菜をこれ以上困らせるのもと考え直した。彼女を目で追いやろうとする。若菜も首を振りつつ必死に抵抗していたが、仕方なく新しい客に向かって行きその場を離れた。
「…別に、自由業ってヤツですよ」
「ほお、すごいねえ。業界の人かい?それとも自称業界人?ちゃんと言いなよ、ホントは何やってんのさ」
そこでまた品のない笑い。馬鹿にするつもりはないのだろう。酒が入って自制が外れただけ。それがこいつの持っている本心。こんなヤツなどいくらでも見てきた。
いつもなら如才なくあしらう。そう、いつもならな。
哲平が海外で得てきた情報の一つ一つが、やりきれなさを生む。知らなければよかったのだろう。関わらなければ。
己の力のなさを多分に思い知らされて、彼らしくもなく参っていたのかも知れない。滅多にないことに。
「何でもやりますよ。雑誌の記事を書くのに取材へと行く。危ない橋をいくらでも渡り、裏の世界に潜り込んで汚い世界を見聞きしてくる。そして、てめえは安全な場所から高みの見物をしたいという、下衆な一般市民の皆様の好奇心を満たして差し上げることなんぞをね」
嫌みたっぷりな哲平の言葉に、男は少々鼻白んだようだったが、無理やり大声で笑った。
「お兄さんはさ、若いから自分に自信があるんだろうけどね。それじゃあ駄目だ。フリーの記者って奴だろう?そういう不安定な身分は今はいい、今は何とかなるかも知れないけどね、将来のことを考えてごらんよ。」
そこで男は、目の前の水割りをただぐいっと飲み込んだ。味わうこともせずに。
哲平の頭の一部分が、次第に白く変色してゆく。凍り付くような嫌な感覚。それはそのうち彼全体を覆い尽くして固めてゆくだろう。感情そのものを閉じこめたまま。
知らなければ、目の前の男のようにこうやって生きてゆける。何が幸せなどどうやって誰が決めるのだろうか。
おれには…おれには、できそうもねえのか。こんな生き方ってヤツは。
「私はね、これでも一部上場の会社なんだけどね。まあ確かに今みたいな就職難ではなかった。それは認めるよ。だが一見、他人からは楽に入れたように思えるのも、それまでの努力があったからだ。組織の中でそれなりの地位を守り抜き、上にのし上がってゆくってのは簡単なことじゃない。わかるかい?どうだい、今からでも真面目にどこかの出版社なんかに入るってわけにはいかないのかい?知人に聞いたんだが、経験者は優遇されると言うじゃないか。それでね……」
男の説教は続く。持論だと思いこんでいるどこかの受け売り。自分の頭で考えたこともない凡庸な台詞。上から押しつける正論。
だから何だ。この街では、平和ぼけしたこの国でさえも、日々を生きることに必死な人間がどれほどいるのか。おまえにわかるとでも言うのか。
それらの言葉をすべて飲み込んで、哲平は男を一瞥した。陽気な彼が稀にしか見せぬ、心底相手を憎みきった鋭い視線。ちゃらけた仮面の下に隠し続ける激しい怒り。
さすがに男が、彼は堅気ではないのではと一瞬焦りを見せる。
すると突然サオリが、場にそぐわないほどの媚びた笑い声を上げた。
「ちょっとお、やだあ。なあに津雲さん今日は変に真面目すぎなーい?わかったあ、若菜ママの前でいいカッコしたいんだあ。みすずネエさんとより戻すのかと思ったのに。ママとならアタシ、勝てる自信あるかもなあ。どう?今度うちの店にも来てよ。それとも若菜さんああ言ってるけど、年増の嫉妬なんか放っておいて、やっぱりアタシも銀座に帰ろうかしら。華恋に入ったら指名してくれる?」
とろんとした目であからさまに哲平を誘うサオリに、男があわてて彼女を引き寄せる。
「おい、約束が違うじゃないか。こんな組員風情にだまされるつもりなのかい?私は本気でサオリちゃんのことを…」
哲平には聞こえないと思ったのだろう。怯えたような微かな囁き。
そのうろたえぶりが逆に哲平を冷静にさせた。目の前のアイスピックを手に取り、もてあそぶ。口元をゆがめる。そしてとどめに下から睨め付けるような視線を送ってやる。
びびってやがるよ、おっさん。はん、ジュクで飲むにゃあまだ早いようだな。
サオリを気にする風で、男は完全に腰が引けていた。何とかその場をうまく乗り切り、無事に帰ろうと彼女を促す。
哲平は、一枚板のカウンターを傷つけないようにとコルク製のコースターを置いた。
わざと二人の目の前に。
そしておもむろにアイスピックを振りかざすと、ダンッと大きな音を立ててコースターに突き立てた。
「すいませんねえ、こういう性分なもんで」
ひいっ。言葉にもならぬ呼吸音。男が身体を硬直させる。店中が静まりかえる。
哲平はすっと立ち上がると、万札をレジスター脇に放り投げ、そのままドアを開けて出て行った。
何に苛ついてんだ、おれは。
この程度の説教で参るはずがない。ましてみすずのことを口にされて、今さらどうもこうもあるわけがなかった。あいつは新しい生活を送っている。おれとは無関係に、ただただ静かに。それが彼女の選んだ幸せなのだから。
抑えきれない自分に腹が立った。飲み直すか。どこで…。どこだっていい。
雑居ビルの階段をゆっくりと降りる。慌てたような足音。
まさかサオリがしつこくつきまとう気じゃねえだろうな。ふざけんな、あのアマ。
怒りの本心が隠せないまま、哲平が振り向く。
そこには、息を切らせた若菜が立っていた。
「何やってんだ、おまえ。ママが大事な自分の店をほっぽり出してよ。それとも苦情でも言いに来たか?おれは出入り禁止か!?」
いつもの哲平の声。しかし若菜は厳しい表情のまま、黙って一万円札を差し出した。
「返すわ。今夜はとてもあんたからお金なんかいただけないもの」
「ばーか。釣りなんかいらねえよ。借金あんだろ?足りねえなら、今日さんざん迷惑掛けたわびに、もっと払うぜ」
若菜は一歩踏み出すと、何も言わずに彼の財布をつかみ出して丁寧に札を差し入れた。
「おい!!」
哲平のポケットにそっと財布を戻すと、彼女は毅然とした声で言い返した。
「あたしだってこの仕事には誇りを持ってやってるのよ。今夜はとてもあんたにサービスできたとは言えない。それで、このお金を受け取れると思う?」
思わず哲平は真顔で彼女を見返した。
「…ああ、そうだな。おれは何かをどっかに置き忘れて来ちまったようだ」
俯く彼に、若菜は優しく声を掛けた。
「待ってるから。明日だっていい。今晩だって。たとえそれが何年先でも、ただのお客のあんたをずっと待ってるから」
哲平はその言葉に顔をゆがめた。そしておもむろに彼女の後ろ髪に手を回すと、ぐいと引き寄せた。
そのまま若菜の身体を、階段の壁に押しつけながら哲平は唇を重ねた。
強く、ひどく乱暴に。
息苦しいほどの触れ合いに、彼女が顔を背けようとする。それすら引き戻してもう一度。
大きくため息をついて身体をようやく離すと、哲平はぽつりと言った。
「今夜の酒代だ。じゃあな」
何も言えずにその場に立ちすくむ若菜を残して、彼は一人階段を降りていった。
雑踏の中へと……。
夜は長く暗く、哲平は闇にとらわれたまま歩き続けた。
(つづく)
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