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物語の特性上、間接的に暴力表現や性描写があります。閲覧の際はご注意ください。
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不夜城、新宿。
雑多な店が建ち並び、人がひしめき合う。
ここに来ると、やはり日本もアジアの国であるのだなと肌で感ずることができる。
銀座よりも渋谷よりも、一番おれになじんだ街。
哲平はひさびさに帰国してすぐ、いつもの店に顔を出した。
十坪程度のこぢんまりとしたそれは、彼が根城にしている一つだった。
情報と人脈がすべての、この仕事。しかし哲平がここで客や筋者と会うことはない。
一人で飲みたいときにだけ、ふらりと寄る彼なりのオアシスだった。
「いらっしゃ…」
髪を品よく高く結い上げた和装で、つねに穏やかで落ち着いているはずのママが言葉を失う。店の何人かは何ごとかとドアを見やる。
「よお、ひさしぶり」
哲平はにやりと笑って、ママとなじみの店員らに手を挙げて見せた。
「哲平さん!!やだあ、生きてたんですかあ?」
「ばーか、人を勝手に殺すんじゃねえ」
若い梓が茶々を入れるのに、横目でぎろりと睨み付ける。こわあい、と肩をすくめる彼女のドレスがひらりと揺れた。
「あたし今日は、てっぺーさんの隣に座ろっと」
ややぽっちゃりとした愛華が、場の空気も読まずにさっと横にすべり込む。
それを、そっとママの若菜が制した。
「ほら、愛華ちゃん。向こうで小金沢さんがお待ちかねよ」
はーい。ふてくされて彼女は渋々立ち上がった。よく笑う愛嬌のある娘だが、どこか小さな棘をいつでも隠し持っている。
「てっぺーさんはママのいい人だもんねー」
他人には聞こえない程度の、かすかな嫌み。若菜と哲平にしか聞こえぬように。
「はん、こんなババア誰が相手にするかってんだよ」
お返しにと、低く小さな声で唸る。哲平の声は変幻自在で、同じ人間とも思えぬトーンで話されると判別すら難しい。それは同時に、彼の多面性を表しているのかも知れなかった。
「おれのボトル、まだ…。あるわけねえな」
この前にここへ立ち寄ったのはいつのことだったか。さすがの哲平にも記憶はなかった。めまぐるしく変わる己の立ち位置に、一番とまどっていたのは彼自身。
「もうとっくに発酵してるわよ。酢にでもなるのかしらね」
そう言いながらも若菜は、新しいバーボンを開けるとマジックを手に取った。哲平の名を書き入れるキュッキュという音だけが響く。
「よしてくれ。グラスでいいよ。次来られるかどうかなんて、おれにだってわかりゃしねえ」
苦笑いで視線をそらす哲平に、若菜は優しげな目を向けた。
「ばかねぇ。いつでも来ていいのよ。あんたの席は空けておくから。たとえあんたが覚えてなくたって、あたしがいつまでも覚えててあげるから」
その言葉に、哲平は彼女をまっすぐに見つめた。思わず相手が頬を染め、たじろぐほどに。
「なあ、おれのダチによ、いったん覚えた記憶を忘れられないヤツがいるんだ。一度めくった本の中身まで忘れられねえと来たもんだ」
まさか…。そっと若菜が微笑む。場を和ませる戯れ言だと思ったのだろう。
だか哲平は真剣に話を続けた。
「嘘だったらどんなにいいか。何度もおれは願ったよ。似合いもしねえくせに祈りさえしたよ。それでもヤツは、消し去りたい過去の記憶も何もかも」
いつもなら軽口をたたき、店の女の子のみならず他の客まで盛り上げることすらある哲平が、やりきれないという表情でうつむく。
「象は…忘れない、ね」
さすがだな。イギリスの古い格言をさりげなく口にする若菜の相づちに、思わずため息をつく。
「象は一度自分をひどいめに合わせた人間を一生忘れない。恩人も一生忘れない。いいことばかりならそれでもいいさ」
「あんたはきっと、恩人の方ね。だったらたくさんのいい思い出で、埋め尽くしてあげればいいのよ」
あんたが…ね。聞き取れないほどのささやき。若菜のあずかり知らぬ彼の友人に思いをはせる。
おそらく哲平の心を大半占めているのは、彼への憂慮なのだろう。そう察した若菜は、それ以上言葉を発することもせずに、黙ってグラスを彼の前に差し出した。
あおるように流し込む哲平の手を軽く抑える。二人の間に言葉は要らなかった。
ただの無言。それは時に何よりも気持ちを伝えあえるのだろう。
それなりににぎわう店内で、カウンターの一角だけが静寂に包まれていた。
と、そのとき。
騒々しくドアが開けられ、外の喧噪が持ち込まれた。
ああ、ここは新宿だったな。哲平はちらりと視線を一度向けると、ふいと自分のグラスに目を戻した。
酔った男は会社員か。大声を出して笑っている。絡みつくようにもたれかかる女。嬌声の主はこいつか。
哲平は自らの感覚器官を切り離し、彼らを無視するかのように飲み続けた。これくらいできなきゃ、ここでは飲んでなぞいられない。
若菜が気を利かせて、一番奥まったボックス席に二人を案内しようとした。
しかし、哲平よりも十は年上かと思われる赤ら顔の男は、何だよお兄さん暗いねえ、と無理やりカウンターに座り込んだ。
「酒は楽しく飲まなきゃな」
がははと笑う自分の声に、さらに可笑しくなったのか。声はどんどん大きくなる。
「あら、どっこのいい男かと思ったら津雲さんじゃない。みすずネエさん、銀座辞めたってホント?」
アイラインで目の周りをすべて黒く塗りつぶしたかのような派手な女は、自身も相当飲んでいるのか、挑発的に台詞を投げつけた。
若菜が必死に止めに入る。
哲平はため息をつくと、仕方なさ気に二人の方へと向き直った。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved
この小説の本編はアメブロ「圭の仮想世界へ」で連載した
長編SFライトノベル<fire bird>です。
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