君は憧れ
※後半、エドゥアルド視点になります
「――それ以来、事務官という職は私の憧れといいますか……ヒーローのような存在なのです」
「憧れとは、そういうこと……」
終業後の旧図書室を後にしたフランシーナは、エドゥアルドと並んで帰路に着く。誰もいない廊下は静かで、二人の足音だけがコツコツと響いた。
「あの方のようにいつか誰かを助けられたら、それが恩返しにもなる気もして」
歩きながらアントン伯爵家の過去をエドゥアルドに打ち明けると、彼は黙ったまま、真剣に話を聞いてくれた。
てっきりまた「君は変わってる」と呆れられるかと思っていたのに。なんとなく調子が狂う。
「……ずっと気にはなっていたんだ。君みたいな伯爵令嬢が、なぜわざわざ職に就こうとするのかって。ごめん、立ち入ったことを聞いてしまって」
「いえ、別に隠している訳でもないので大丈夫ですよ」
なぜか、エドゥアルドはこちらに向かって頭を下げる。その顔は、見るからに落ち込んでいた。
けれど別に、彼は何も悪くない。フランシーナが事務官を目指していると知った上で、エドゥアルドのように疑問に思う方が自然なのだ。
フランシーナは伯爵令嬢で、自ら働かなければならないくらい困窮しているわけではない。周りの令嬢達を見てみれば、学園卒業後は嫁ぎ先が決まっている……という者も多かった。実際、友人であるヴィヴィアナも、卒業後は花嫁修業が待ち構えているという。
どうして伯爵令嬢が仕事なんか……と思われても仕方がない。
「いいじゃないですか。エドゥアルド様は分かって下さったことですし」
「いや……良くない。フランシーナの努力する姿は、ずっと見ていたはずなのに」
「ずっと?」
歩みを止めたエドゥアルドがこちらを見つめる。
彼のこんな表情は初めてだった。いつも自信があって、嘘みたいに爽やかで、誰に対してもどこか壁があって――そんな学園の貴公子エドゥアルドが、こんなにも悔しげな顔を見せるなんて。
「入学してから、ずっと見ていたんだ。廊下でも、講堂でも、自習室でも、きっと他の誰よりもフランシーナのことを見ていた」
「え……」
「――僕にとっては、フランシーナこそが憧れの人だったのかもしれない」
エドゥアルドが、小さな声でぼそりと呟く。
フランシーナはその言葉を受け止めきれないまま、二人きりの廊下に立ち尽くした。
◇◇◇
フランシーナ・アントン。
唯一、エドゥアルドが敵わない相手。
入学式で、新入生代表の挨拶を辞退した有り得ない女。
三年前、当時の彼女は言った。
『私……どうも人前に立つのが苦手で……』
もう、今となっては覚えてもいないだろうけれど。
新入生代表挨拶は、本来なら首席の生徒が務めるものだった。
しかし彼女は首席で入学したにも関わらず、あっさりとその名誉を断った。しかも、心底どうでもいい理由で、だ。
信じられなかった。だってエドゥアルドが勉強する理由なんて、まさに名誉のためだけであったから。
お陰で、代表挨拶は二位に甘んじていたエドゥアルドへ回ってきた。
十五年間生きてきて、あのような屈辱を味わったのは初めてだった。これまで、エドゥアルドは一番で無かったことなんてなかったのに――
『そう。代表挨拶はエドゥアルドが……』
『つまりお前は、その女のおこぼれに預かったというわけか』
新入生として首位を取れなかったエドゥアルドに向かって、両親は冷えきった目でそう告げた。
ロブレス侯爵家の跡取りとして、ずっと自慢の息子であったはずだったのに。エドゥアルドは、たった一度の転落で両親の期待を失った。
これ以上の失態は許されない。
エドゥアルドは自信や期待を取り戻すべく必死になった。毎日がどれだけ多忙であったとしても決して手を抜いてはならないし、皆からの信頼を勝ち取らなければない。
完璧でなければならなかった。
誰よりも頼られる自分でなければ、誰よりも名声を得られる存在でなければ、跡取りとして許されない。なにより、自分自身が許せない。
その甲斐あって、エドゥアルドの学生生活は順風満帆なものとなった。
誰よりも一目置かれ、何をするにも注目を浴びる。その姿は、ロブレス侯爵家次期当主として期待されるに相応しいもの。
しかし依然として、試験でフランシーナを蹴落とすことは叶わなかった。
一位に君臨し続ける彼女は、ただただ夢と向かい合う。脇目も振らず、後ろに控えるエドゥアルドを振り向いたりすることもない。
悔しくて悔しくて、彼女への対抗心を燃やす日々は続いて――そのうち、エドゥアルドはフランシーナのことばかり目で追うようになってしまった。
きっと、世界中の誰よりも。
この感情の名前が、ようやく分かった。
これは憧れだったのだ。
話せば話すほど、彼女は努力家でまっすぐだった。ドロドロ欲深い自分とは違う、綺麗な世界を生きる人。
卑怯な手を使ってでも、振り向いて欲しかった。
フランシーナに恩を売りたくて、物を贈った。
振り向いて欲しくて、噂で彼女の逃げ場をなくした。
弱みにつけ込んで、強引な取引を持ちかけた。
すべて彼女に近付きたくて――
けれど、きっと何をしても、フランシーナに手が届くことはない。
エドゥアルドからの告白まがいな言葉に、彼女は目を丸くして立ち尽くした。
その混乱した頭で、精一杯言葉の意味を考えている。こんな一言すら冗談にしないその姿は、やっぱり真っ直ぐで誠実だ。
(綺麗だな……)
今は、琥珀色の瞳に自分だけを映してくれている。そんなことすら嬉しくてたまらない。
夕日の廊下は静か過ぎて、動悸が耳まで伝わって。
エドゥアルドの胸の疼きは、いつまでも治まってくれなかった。




