お礼なんていらない
遠くから聞こえてた音楽隊の演奏が鳴り止んだ。間もなく終業の時間らしい。
昨日と同じように旧図書室に来たフランシーナとエドゥアルドは、話をすることも無く各々の時間を終えた。
フランシーナが帰り支度をする隣で、エドゥアルドも荷物をまとめ始めた。今日は特に寝ることもなく、仕事も捗ったようである。
「……実は最近、あまり睡眠時間が取れていなかったんだ。昨日は心配をかけたよね。こんな所で寝てしまうなんてどうかしてる」
「い、いえ」
(わざわざ弁解されてしまったわ……)
こちらからは特に何も言っていないのに。
もしかして、「今日は寝ませんでしたね?」なんていうあからさまな顔をしていたのだろうか。そんなつもりは無いのだけれど、意図せず彼の弱みを握ってしまったようで少し悩ましい。
「あの……私、誰にも言いませんから。あまり気にしないでくださいね。お疲れなら、ここで仮眠を取ったって構わないのですし……」
「僕が? また君の前で寝るというの?」
「あっ、すみません。そう何度も寝たりしませんよね」
少々バツが悪そうなエドゥアルドに、フランシーナは慌てて謝った。
ここで寝てしまった事実には、こちらから触れないほうが良いかもしれない。彼としても、寝てしまったのは不覚であったのだし。
なんとなく気まずくなった空気に耐えきれず、フランシーナは急いで書類の束を取り出した。
「あの……こちら、記念品の納品書から配分をまとめた指示書です。エドゥアルド様のメモ書き通り、予備分を足しています。一応、友人と読み合わせて確認しましたけど……念のためもう一度だけチェックして下さいね」
「あ、ああ。ありがとう」
昨夜は結局ヴィヴィアナに頼り、読み合わせながらチェックを終わらせた。二人でやると予想以上に早く済ませられたし、見落としも防げた。持つべきものは友だ。
『へえ~、エドゥアルド様ってこんな地味なことまでやってるんだ』
ヴィヴィアナはというと、書類をパラパラとめくりながら思わず感嘆の声を上げていた。
その言い方はなんとなく失礼な気もするが、彼女が驚いた気持ちは分かる。いつも表舞台で華々しく活躍しているエドゥアルドが、まさかこんな事務作業までこなしていたなんて思いもしなかったのだ。
フランシーナ達が知らないだけで、彼はこれまでも地味と言われる仕事までこなしてきたのだろう。爽やかな笑顔の裏側で。
「ほかにも、私が出来そうなことはありますか? 無ければ、もう帰ってしまいますが」
「構わないよ。これだけでも充分助かったから」
「そうですか。では」
フランシーナはさっそく席を立つと、制服の上にコートをはおる。
隣のエドゥアルドはというと、まだどこか呆然としたままで手渡された書類を見つめていた。
「君って人は、本当に……」
「何でしょう?」
「……なんでもない。また落ち着いたら、手伝ってくれたお礼をするよ。何がいいかな」
「え?」
貸しを作りたくないからだろうか……こんな些細なことで、彼はまたお礼をするなどと言い始めた。
けれど、もうお礼なんかこりごりだ。あの仕事量を見過ごせなかったフランシーナが勝手に手を貸しただけなのだから、お礼なんかせず放っておいてくれたらいいのに。
「そんな、もうお礼なんて要りませんよ。私がやりたくてやったことなんですから」
「……フランシーナは、やりたくて人助けをしている、っていうの?」
「普通、そうじゃないのですか?」
そう言ってフランシーナが首を傾げると、エドゥアルドは未知との遭遇を果たしたかのような顔をした。
「僕なんかのために時間を割いて――面倒だとは思わないの?」
「そうですね……基本的にそういった気持ちにはなりませんね。面倒だと思うほど頼られることもありませんし、誰かの役に立つことは嬉しいです」
「嬉しいとか……変わってる。変わってるよ、君は」
「そうでしょうか。きっと、エドゥアルド様のお手伝いをしたい人ってたくさんいると思いますけど」
未知の存在を前にしたエドゥアルドは、その眉を更にひそめる。
でも、フランシーナは事務仕事をしながら思ったのだ。このような事務仕事や、もっと細々とした雑務だって、エドゥアルドのためになるのであれば手伝いたい人は多いだろうと。
それこそ、この間絡まれたご令嬢三人組なんかは、嬉々として名乗りをあげるのではなかろうか。男子寮にいる寮生達だって、エドゥアルドのしていることには興味津々のようであるし。
「エドゥアルド様は毎日こんなに頑張っていらっしゃるんですもの。そんな姿を見せられて、なにか役に立ちたいと思うのは自然な感情ではないですか?」
「……そういうものなのかな」
「少なくとも、私はそうです」
「君にはこんなに迷惑をかけているのに?」
自分がなにかちょっと手伝うおかげで他の誰かが救われるのなら、フランシーナは満更でもない気持ちになるのだ。たとえエドゥアルドから「変わっている」と言われても。それに――
「誰かの役に立てたなら、それもまた夢へ近付ける気がするから」
「夢……君の夢は事務官になること、でしょ?」
「そうです。そうですけど……私には憧れの姿みたいなものがあって」
フランシーナは当時のことを思い出す。
とある事務官に助けられたあの日のことを。
「うち――アントン伯爵家は昔、ある事務官の方に助けていただいたのです」
その人はお日様のように笑って、フランシーナの頭を撫でた。
『お礼なんかいらないよ。今度は君が、困っている人を助ければいい』
ペンだこのある大きな手は優しく、頼もしかった。淡々と事実を述べていくボルドーのガウン姿が、幼心にしっかりと焼きついて。
きっと、その記憶は色褪せることがない。
それは十八歳となった今でも。




