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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

帰り道

作者: 小城

 この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

まだにえない。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

もうにえた。



 これは、『あぶくたった』という、わらべ歌の歌詞の一部である。聞いたことのある方もおられるのではないだろうか。わらべ歌であるからには、その遊び方がある訳で、この『あぶくたった』も、同じわらべ歌の『かごめかごめ』のように、鬼になった子どもを、周りの子どもたちが囲み、遊ぶ。

 『あぶくたった』の歌詞は三部構成となっており、それは、食事、就寝、お化けの出現、という段階を踏み、最後は鬼ごっこという形式をとる。実際に遊んだ方もおられるかもしれない。初めて知った方で、興味のある方は、インターネット等で調べてみても良いだろう。

 たわいのない子ども遊びの一種類ではあるが、民俗学研究において、わらべ歌は上質な研究材料とも成り得るという点に関して、知的好奇心を広げてみよう。

 まず、『あぶくたった』の一部で、煮えさせられているのは、何かという疑問が現れる。想像としては、囲炉裏か何かで、鍋に入った物を煮ている場面が目に浮かぶ。それは、恐らく、夕餉の支度であり、芋、根、野菜、等を材料とした田舎料理で、まさに、ごった煮を想起させる。ぐつぐつぐつと、鍋が煮えるのを待つイメージは、唾液の分泌を促進する。そして、それは、穏やかな夕暮れ時にある、昔ながらの家庭での一場面なのであろう。

 しかし、ここで、ひとつ悪戯を試みてみよう。もし、『にえ』が『煮え』ではなく、『贄』であったとしたら、どうだろう。『贄』は、文字通り『生贄』である。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

まだにえない。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

もうにえた。


 わらべ歌を歌いながら、子どもたちが取り囲むのは、生贄となった子どもである。贄は神に捧げる供物を意味する。まさに、今、その贄が料理されていると考えてよい。生贄は煮えたのか、まだか、もういい頃合いだ。むしゃむしゃむしゃむしゃ……。それを食べたのは神であったのかもしれない。そして、最後には、生贄となった子どもは、お化け(鬼)となるのである。すなわち、それらは人身供犠の一場面なのである。

 実際には、この想像は何の根拠もない、ただの妄想である。日本語の『煮え』と『贄』との間に、何らかの因果関係があるという訳でもないし、遊びの最後に、お化けや鬼が出て来るというのも、単なる偶然に過ぎない。そういうことから、先の想像は、所謂ところ、わらべ歌に潜む不気味さを利用した言葉遊び、が生んだ物語の類なのである。

 それでも、そこから何かしらの教訓を得ようというのであれば、ひとつ、言えることはある。それは、認識であろう。夕暮れ時の一家団欒が、『にえ』という言葉から類推される認識ひとつで、人身供犠に変わるように、何でもない事柄が、認識ひとつで、恐怖に変わりうるのである。


 公園で輪を作り、遊んでいた子どもたちが、駆けて行く。恐らく、鬼ごっこであろう。子どもたちは、歓声とも、悲鳴とも聞こえる声を上げて、四方八方に散って行った。

「あー。俺、なにしてんだろうな……。」

 落葉樹の木陰にあるベンチに座り、景色を眺める。近くに、小学校でもあるのか、公園内は、子どもたちの楽園と化していた。不思議なのは、そこに、おとなたちの姿が見えなかったことだった。そう、ただ独りの俺を除いては、どこにも、おとなの姿はなかった。

 昼下がりの公園のベンチに、どうして、そんな大のおとなが、暇そうに腰掛けているのかというと、その然したる理由はない。そもそも、どうして、俺という存在が、今、ここにいるのか、という問題ほど、哲学的に難解な問題はなく、それに答えうる知識も才能も、生憎、俺は持ち合わせていない。

 ただ、ひとつ言えそうなことは、どこか、向かう先であったその存在と、どこか、帰る先であったその存在の両方ともを、俺は、漠然として思い出せず、忘れてしまっていたということだ。


「ねえ。おじさん。」

 突然、俺の目の前に、少女が現れた。今時、めずらしいのかどうか分からないが、彼女は、二つ結びのおさげ髪をしていた。

「遊ぼう。」

「え……。」

 その言葉に、心底、俺は驚愕した。今のご時世に、昼下がりの公園で、一人たたずむ中年男性に、声を掛けて来る子どもなど、いるのだろうか。ややもすれば、何もしていなくても、そこに座っているだけで、子どもたちの方から逃げていきかねない、というのは言い過ぎなのだろうか。

 少なくとも、俺の主観で、今の俺を客観的に見て、仮に自分が子どもだったとしても、一昔前であっても、俺は、今の自分に声を掛けることはしない。そのようなことは、声を掛ける子どもの側には、どんなメリットもないからだ。

「人が足りないの、早く来て。」

「ちょっと……、待って。」

 ぐいぐいと、少女は俺の服の裾を引っ張って行った。元々、ろくにアイロンも掛けたこともなく、しわだらけで、薄汚いシャツだった。それでも、数少ない外出着のひとつであるその服が破れたり、伸びたりすることに嫌悪感を抱いた俺は、少女に言われるがまま、ベンチに居座ることを放棄した。



あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

まだにえない。


 先ほどまで、俺が眺めていた輪の中に、俺はいた。真ん中に、独りの子どもが屈んで、俯いている。その周りを、三、四人の子どもと、一人の大人が手をつなぎ、輪を作り、回っていた。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

もうにえた。

 

 聞いたことも、見たこともない遊びだったが、俺は歌詞を知っていた。そして、遊び方も知っていた。そんな不思議なことが、世の中にあるはずがなかった。

 しかし、その理由は見当が付いた。恐らく、向かう先も、帰る先も、俺が思い出せず、忘れてしまっているのと、同じ理由で、この聞いたことも、見たこともない遊びの歌詞と遊び方を忘れ、知っているのだろうと思った。



戸棚にしまって鍵を掛けて がちゃがちゃがちゃ

お風呂に入って ごしごしごし

お布団引いて ねーましょ


「あ……。」

 既視感と言えばいいだろうか。俺は、この光景を見たことがあった。相変わらず、輪は真ん中の子どもを囲んでいる。その輪の中の一人が俺なのだが、この、上からおおぜいで、独りの子どもを見下ろす光景。その光景に俺は見覚えがある。

「やっば……これ……。」

 俺に、その記憶は罪悪感と自己嫌悪を連れて来た。フラッシュバックだった。

「どうしたの?」

 俺の傍らには、おさげ髪の少女がいた。その娘と、俺は手をつないでいるのである。それだからか、俺に訪れた異変に、少女も同調したのかと思った。

「いや、大丈夫。」

 俺はこの遊びが、もう少しで終わることを知っていた。思い出したのだ。



カタカタカタ 

何の音


 個人的に、この世の中と社会はシステムであると俺は思う。もしかしたら、同じことを考えている人間もいるのかもしれない。しかし、俺たちの生きる世の中と社会がシステムであるのだとしたら、そのシステムから外れた人間というのも、当然、そこにはいることになる。それはなぜかというと、完璧なシステムなどは、この世の中と社会には存在しないからである。


風の音 

あーよかった

 

 そして、そこに本人の意思があろうと、なかろうと、大抵、そのシステムから外れた人間というのは少数派なのである。


カタカタカタ

何の音


「化け物。」

 そう呼ばれていた子どもがいた。俺が子どもの時の話である。なぜ、その子が、そう呼ばれていたのか、そのはっきりした理由を、俺は知らない。なぜならば、その知らない理由を、はっきり俺は知っている。それは、皆がそう呼んでいたから、俺もそう呼んでいただけなのだから。


おばけの音


「きゃあ!!」

 子どもたちが散って行った。それは、今、現在、目の前で起こっていることなのか、それとも、フラッシュバックされた俺の記憶の中でのことなのか、はっきりしない。

 そのどちらにしても、その時の俺は、絶え間なく、我が身を襲う、罪悪感と自己嫌悪に包まれていた。そして、それは俺を侵蝕し、贈り物として、俺に、重苦しく、苦い、憂鬱な気持ちをプレゼントした。


「きゃあ。きゃあ。」

 悲鳴のような歓声のような声が聞こえていた。その輪の中に俺もいた。本当は、俺は、そのようなことをしたくなかった。しかし、そうしなくてはならないことを、俺に、システムが要求していた。

 システムが要求していた、などというのは、俺の被害妄想なのかもしれない。本当は、俺はそのようなことをしたくなかったというのも、単なる偽善なのだろう。

 そして、そんな分裂的な俺の思考が、罪悪感と自己嫌悪の原因であることを、俺は知っている。しかし、それを、知ったからといって、どうにかなるものでもなかった。ただ、両者に苛まれる俺を、俺が認識し、享受するだけだった。

「今度は、おじさんが鬼ね。」

「え……?」

「早く。」

 少女に言われるがまま、俺はその場に、屈み俯いた。それは、素直に、少女の指示に従ったということではなかった。精神的疲労が極値に達していた俺は、ただじっと、何者にも、干渉されることなく、静かに、時を過ごし、心身を休める場が必要だったからであった。



あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

まだにえない。


 両手の平で視界が遮り、屈んでいる俺の周りを、子どもたちが回っている。それは、どこかで聞いたことのある歌詞と共に。


あぶくたった。

にえたった。

にえたか、どうだか、たべてみよ。

むしゃむしゃむしゃむしゃ……。

もうにえた。


 ものすごい速さで、時間が過ぎていくようだった。それは俺だけが、その影響を受けているかのようであり、、まるで、銀河が生成されていくとでも言えばいいのだろうか。その不思議な過程で、新しい気持ちが生まれて来るせいか、いくらか俺の気分も落ち着いて来ていた。

 罪悪感と自己嫌悪を代償にして、過去を受け容れた気がした。ようやく、俺は、自分の向かう先と帰る先が同一であることを思い出した。そして、漠然と、そこが、どこなのか見当がつき、分かり始めていた。


カタカタカタ

何の音


風の音

あーよかった

 

 歌が続く間、俺は一言も、言葉を発していなかったようにも思える。しかし、他の誰かが、合いの手を入れていたようにも思えた。

「あれ……。」

 それは既視感だった。


 この時、俺は孤独を感じていた。本当ならば、俺の周りには、子どもたちが輪になって、一緒に遊んでいるはずだった。それなのに、一人で、公園のベンチに座っていた時よりも、周りに誰かがいる方が、俺は孤独だった。


カタカタカタ

何の音


「……。」

 誰も答えてくれない。


カタカタカタ

何の音


「……。」

 俺も答えてはくれない。


ガタガタガタ

何の音


「体が震える音。」


ガタガタガタ

何の音


「頭が震える音。」


ガタガタガタ

何の音


「心が震える音。」

 それは罪悪感と自己嫌悪が原因ではなかった。単なる恐怖。それが原因だった。


となりのおじさん

時計は何時


「夕方の四時。」


となりのおじさん

名前はなあに


「×××。」


カタカタカタ

何の音


「お化けの音。」


本当のお名前

何と言うの


「化け物。」

 誰が答えた。


「きゃあ!!」

 輪の中にいた子ども。それは俺だった。


「きゃあ。きゃあ。」

 歓声とも悲鳴とも聞こえる声が聞こえた。それは両方が混じっていた。

「生贄。」

 身代わり。スケープゴート。犠牲。サクリファイス。そのどれもが混じっていた。子どもの俺は、システムから外れた人間であった。

 俺という存在はシステム内部の崩壊を招く者として、忌み嫌われた。それらの思考の過程は、すべて目に見えぬ観念上で行われており、何らそのような証左がある訳ではなかった。簡単に言えば、皆にとって、俺は気に触るやつだった。

「化け物。」

 そうして、システムという存在に対しての俺は加害者であり、秩序に反抗する言われようのない暴力者であるというレッテルを貼られた。皆は、恐怖に包まれた被害者となった。そして、俺を忌み嫌い、皆は、加害者となった。被害者であり、加害者でもある。加害者でもあり、被害者でもある。混沌とした観念世界の住人が作り上げた妄想。そのような存在だったのかもしれない。

 そして、今も、それはそうだった。残念ながら、それらは、すべて、観念上の出来事であり、無害で済んだ、という訳もなく、実害も伴うものとなっていた。すべては観念世界から始まり、結果としての現実世界の行為に終結した。

 かくして、現在に至り、いつのまにか、俺の記憶は改竄され、その改竄されたことさえも忘れていた。それを思い出した今、再び、俺は、自分が向かう先と帰る先が、どこなのかを思い出すことができず、忘れてしまった。


 社会に馴染めなかった俺は、転職を繰り返しては、路頭に迷っていた。それが、元々の俺の先天的な能力に依る結果なのか、後天的な経験に依る結果なのか、頭の鈍い俺には見当もつかない。

 糸を手繰ってみるならば、子どもの頃に、俺を襲った出来事も、また、そのどちらの結果なのか、思い出すことも、見当もつかない。そもそも、この俺の記憶そのものが、何なのか分からない。主観なのか、客観なのか、はたまた、主観的客観なのか、客観的主観なのか、何なのか分からない。

「そろそろ、帰ろうかな……。」

 そのような言葉でさえも、俺は発することができなかったのだろうか。そして、そんな俺だからこそ、向かう先も帰る先も分からず、途方に暮れてしまうのだろう。すなわち、俺には、行き先も、未来も、自分自身も、何もかも、見えず、分からないのである。


 私が子どもの頃、実は、未来というものは、目の前にではなく、自分の背後にあるものだという話を、先生から聞いたことがある。それまで、漠然と、未来というものは、これから進む先であり、自分の前方にあるものだと思っていた私は、その話を聞いた時、なるほど、と妙に感心したものである。

 だから何だと聞かれれば、もし、その話に、何かしらの教訓があるのだとしたら、それは、すなわち、私たちが見えるのは、過去だけであり、未来は、いまだ、未定であるということなのであろう。考えてみれば、『未来』という語句は、『未だ来ず』であり、幼い私が納得した先ほどの言い分は、当たり前のことのようにも思われる。

 しかし、少見な私が、なるほど、と思ったが如く、未来が、前と後ろのどちらにあるのかという些末なことに関して、私の認識が個人的パラダイムシフトを経験したというのも、また、その話が見知らぬ他者の注目に値する点なのかもしれない。

 対象が認識に依拠する、と言ったのはカントである。いわゆる、コペルニクス的転回である。先述した『あぶくたった』の歌詞にしても、その意味する内容は、一家団欒の憧憬であったり、不気味な古代の儀式への恐怖であったりと、私たちの認識によって、異なるであろう。

 私たちの生活する世の中や社会についても、それは、『あぶくたった』の歌詞と、何ら変わらないのかもしれない。ややもすれば、わらべ歌の歌詞よりも、世の中や社会というものの方が、巨大である分だけ、そこに住む人々が、そこで経験し、認識する対象には、ばらつきが生じてしまい、密かに、暗黙裏に、皆が同じものを見ていると思っている世の中や社会というものに対しても、結局は、個人の認識に依拠してしまうところが多大なのかもしれない。

 人生を山登りに例えるのは、安直に過ぎるが、もし、巨大な山があるとして、私たちの誰もが、方角も、距離も、場所も、離れた麓にある異なるスタート地点に立っているのだとしたら、誰もが、山の全貌を見ることはできないし、そこから見る景色も、また、同じ山を見ていながら、それぞれが異なった光景しか、見ていないということになるのであろう。

 もちろん、ここで言う山は、世の中や社会の比喩なのではあるが、それを登る自分という存在も、他の一般的な物事と同様に、自分自身の認識に依拠する存在なのだとしたら、それは、最早、自分が見ている景色も、更には、その景色を見ている自分自身の認識ですらも、それらは、一体、何者であり、本当に存在するものなのか、何なのか、分からなくなってしまうというのが、この物語に登場する男が遭遇した出来事なのである。

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