とある令嬢の、終わりと始まりのプロローグ➀
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今宵は………、人知れずその場を去りたい者にとって、月明かりが美しくとても良い夜だった。
荷造りの為に使用人がひっきりなしに出入りしているが、それ以外は実に静かなものだ。
邸宅を照らすランプの光と、門へと続く外園の外灯。
そしてうっすらとまんべんなく降り注ぐ月明かり。
例え幼い頃から何年も見続けてきた同じ風景だとしても、これが最後の見納めかと思うとそれなりに見ておこうかという気持ちになるのも何なのか…。
胸に渦巻く剣呑としただるい思いを抱きながら、白い豪奢な邸宅の二階。
その広く大きくひらけたバルコニーの手前の端で、息をのむほど艶めく容姿をもった黒髪の令嬢が一人。
その宝石の様な美しい赤紫色の瞳で、その様を静かに見下ろしていた。
今夜は城下で祭りも催されているらしく、見晴らしの良い小高い場所に建てられた邸宅からは、明るく夜闇を照らしだす賑やかな街の光も見る事ができる。
(……………もうこれ以上、煩わしい思いなんてせずこの場を去りたい)
月明かりに身をゆだね、静かに窓枠に寄りかかりながら令嬢はそう願っていたのだが……。
「……………レイチェルッ…!!!レイチェル・プロペロイドッッ!!!!」
どこから聞きつけてきたのだろう。
既に城下の祭りへと出たと聞いていた"見目"と"血統"だけは国一番の男が、慌しく部屋の扉を蹴り壊す勢いで令嬢のいる部屋へと乱入してきた。
「レイチェルッッ!これはいったいどういう事だ!?ここから出ていくだと…!??君は俺の"婚約者"だろう!!!一体何を考えている!!!?」
入ってくるなり矢継ぎ早にまくし立てる男の声に答える気力も起きず…。
令嬢は全て全てが億劫で、視線の動きも体もピクリとも動かさず。振り向きもしないまま、順調に己の荷物が運び出される様だけを淡々と眺め続けている。
"未来の皇太子妃"に与えられるこの邸宅の主であった高貴な身分の令嬢は、最早その美しい赤紫色の瞳に己の伴侶になるはずであった男の姿を映そうとはしない。
「…………おい、聞いているのか!?君はいつだってそうやって自分の勝手ばかりを…。皇宮から荷物を運び出して何処へ行く気だ!!!それを俺が許すと思っているのか!!?」
月明かりに照らされ、声を荒げてもこちらをいっさい振り向きもしない令嬢の姿に、慌ててかけつけたマヌケな皇太子の怒りはなお一層かき立てられていく。
「……………っっ、レイチェル!!いい加減こっちを見ろっ!!!!」
その言葉と共に彼女の肩を掴みかからんとする皇太子の気配を察知したのか。
令嬢の手が瞬時に動き、勢い良くパァ…ン!と皇太子の手を黒い扇で小気味よく払いのける音が部屋の中に響きわたった。
「……ッ!!」
深窓の令嬢である彼女にこの様に払いのけられると思っていなかった皇太子は、その衝撃と事実にまるで思考が止まっているかのように目を見切らき。
こんな扱いをされるとは…とでも言いたげな表情が、これまた何とも小憎たらしいものだと嘲り笑いさえこみ上げてきてしまう。
「………皇太子殿下。珍しい事ですね?今宵はてっきりいらっしゃらないものだと思っておりました。使用人からあの"可憐な方"と共に城下へ出たと聞いておりましたので…。お手を煩わせずこのままお暇できればと思っておりましたが……。私に何か御用でしょうか?」
夜闇の穏やかな旅立ちを邪魔された令嬢は、視線だけを皇太子に向けて、少し皮肉混じりの言葉を投げかける。
「ハッ!御用…!?御用だと!!?君の暴挙を聞いて急いで引き返して来たんだろう!!城を去るという世迷い言も馬鹿馬鹿しいが、俺の管轄であった鉱脈の権利、領地、国境に配属された国の精鋭の銀翼の部隊も全て弟の"第二"に譲ると信じられない事も聞かされてなっ…!!!あれは皇家の……、皇太子である"俺の所有"のものだったはずだ!!!なのに何故あれらが"第二"に渡るというんだ!!?しかも君の意向だけで……!!!!」
…………皇太子の。まるで当然というように口から次々と繰り出される主張に、この人は本当に最低最悪の期待だけは裏切らないものだと令嬢はため息をもらす。
「いいえ殿下。正しくは"私の実家"である"プロペロイド公爵家"が、皇太子妃となる私との婚約で貴方に"援助"していたものたちです。ですからそれらの所有は今も変わらず我が"プロペロイド家"であり私の管轄です。事決めは書面でもしっかりと管理されていますのに…、それさえも把握されていなかったのですね。殿下」
幼い頃から何度目であるのだろう苦言を呈した令嬢は、これが最後とばかりに自分が去った後に残るだろう皇室管轄の皇太子の財や領地など所有範囲を簡単に説明する。
そして皇太子が今想いを通わせている令嬢を受け入れた際に起こるだろう事も一言二言…。直近のものだけを伝え、お二人の幸せをこれからは臣下としてお祈り申し上げますと令嬢は静かに微笑んだ。
「………っ!!」
令嬢の最後の言葉に表情を強張らせた皇太子は、彼女の二度と変わらないだろう心情を感じ取って、より一層の焦りを浮かべる。
「………………、ごたくはもういいっ!!!!!俺達はこれからも"婚約者"同士。皇太子妃の座は君で、ゆくゆくは皇后。王となる俺の生涯隣にいるべき伴侶は君なんだ!!!!自由も権限も尊重しよう。幼い時からの様に互いにこれまでの様にやっていけばいいだろう!!?それなのに何故こうも勝手を…っ!!!」
「………………殿下。まだわからないのですか?私は貴方の"婚約者"の地位から去ると言っているのです。二度とこの様な無様なさまなど御免です。殿下の伴侶の座は、あなたの大事な"可憐なお方"にお渡しします。私に未練はございません」
そう言って、淀む事なく言葉を紡ぎ出す令嬢の心は揺らぐ事は無い。
「……………私の実家。プロペロイド公爵家もこれからは後継支持の筆頭から去ります。貴方の"弟君"に諸々お譲りした件に関しては、最後まで私に細やかな気配りと配慮を尽くして下さったからです。私からの最後の感謝と花向けであって、あれくらいではお礼にもならないくらいですが……、口出しは無用に願います」
そう言って令嬢は言葉を切り。これ以上話す事は不要でしょうと、その場にいる皇太子に目もくれる事なく歩き始める。
「……………………ッ、…………………レイチェルッッ!!!」
すれ違いざま…。最後の悪あがきと言わんばかりの皇太子に腕を捕まれるが、令嬢の冷めた赤紫の瞳は冷たく皇太子を突き放す。
「………………………。神官から、あの少女と"アルテの誓い"を交わしたと闇に聞きました」
「……!!?」
「国神のアルテに進上する"皇族の誓い"は、神への誓い。魂に刻まれる制約です。互いの命に縛りをかけて、互いを裏切れない様にする……。正直呪いにも近しい忌々しい誓いを、ちまたではやし立てる愛の誓いと勘違いして交わされて…。………私は、あのご自分の悲運に酔って浸り続ける女性を主軸に国の闇は背負えません。これから先は、お二人の力でお歩み下さい。ごきげんよう殿下」
そう言って、長い年月を共に歩んできた昔なじみに令嬢は別れを告げる。
「さよなら。イグニス」
最後の最後は、目線を合わせて極上に美しく微笑みを残して…。
令嬢は実家から呼び寄せていた馬車に乗る為、歩き出した。
「……待て」
皇太子は、コツコツコツ…と背中から遠ざかっていく己の"婚約者"であったはずの者の気配を感じとりながら…。
「……………………待てと言っている」
皇太子は彼女を留めようとする言葉を抑える事が出来ない。
「………………待てと言っているんだ!!!レイチェル・プロペロイドッッッッ……!!!!!!!!」
未練など一切感じさせない令嬢の足音に、追いかけ勢いのまま再び彼女の腕を激しく掴みかかろうとしたその時…。
部屋の廊下の隅から、何か黒い人影が令嬢に向かって勢い良く飛び出してくるのが皇太子の目に映った。
ゆっくりと目を見開く皇太子の前で、激しくぶつかる不意の衝撃。……そして、令嬢の脇腹に駆け抜ける熱い雷の様な激しい痛み…。
令嬢の視界にかすめたのは、初夏の小麦畑を思わせる柔らかい色合いの黄金色の髪の色だった。
「……………っ、これは貴方に追い詰められて殺された兄の分よ!!!地獄に落ちなさい!!!プロペロイドの悪女っっっっっ……!!!!」
…………激しい痛烈な痛みに霞む視界の中で、令嬢の瞳には緑の瞳を涙でしわくちゃに泣き叫ぶ少女の姿を確認する事ができたのだが、そんな時でさえ令嬢自身の感情は静寂に静まり返るだけだった…。
「……………………………本当にお馬鹿で、愚鈍なんだから……」
その言葉は自分に対してなのか、目の前で泣きじゃくる令嬢に対してなのか…。
意識が沈んで周りが騒がしくなる喧騒の中。最後に隠れて自分の護衛についているはずの気の荒い配下達に「……………殺すのはダメよ……」とだけ言い残し、
令嬢の意識は深い闇の中へと沈んでいった。