夢現
「おはよー……」
あくび混じりのあいさつをしながら、私はリビングに入りました。
「あら? おはよう」
せっかくの土曜日だというのに、お母さんは平日にたまった疲れをまったく感じさせないほどの声量であいさつをしました。
「めずらしいじゃない? こんな時間に起きるだなんて」
キッチンでフライパンを器用に扱いながら、お母さんはそう言いました。
「うん……なんか変な夢を見てさ? それで目が覚めたの……」
私は寝ぼけながらチェアに座り、モゴモゴと、お母さんからすれば非常に聞き取りづらいであろう声でそう言いました。
するとお母さんは、片手に菜箸を持ちながら「……ねぇ、その夢は怖い夢だった?」と一人つぶやくように言いました。
「んー……最初は怖いって思ったんだけど、結構優しい夢だった……みたいな……」
夢の中で起きた出来事を鮮明に思い出そうとしたのですが、記憶が徐々に薄らいでいき、やがて耳穴を通して頭の中から抜け落ちてしまいました。
私が思い出すことを諦めたタイミングで、お母さんは言いました。
「……そっか」
「実はね、私もよく夢を見るの」
「一生見ていたいくらいの、とっても甘い夢」
「私が『ずっとここにいたい』ってお願いしても、『ここにいちゃいけない』とか『帰る場所がある』って言って、許してくれないの」
「でも、とにかくそれがうれしくてね」
「今日も、会えるといいな……」
お母さんはそう言うと、フライパンの持ち手をトントンとたたき、真っ白いお皿の上に卵焼きを盛りつけました。
「会えるよ。願い続けていれば、きっと、ね」
「えぇ、そうね」
しばらく左首筋に手を添えていると、お母さんがプレートに乗った朝食を私の目の前に置きました。
左首筋を気にすることをやめ、私は手を合わせました。
「いただきまーす」
綿あめのようにふんわりと甘い味をしている卵焼きにかぶりついたところで、私は言いました。
「ねぇお母さん、食べ終わってしばらくしたら、ちょっと出かけてもいい?」
「もちろん。じゃあ後で洋服、用意しておくね」
リスのようにご飯を口の中へめいっぱい詰め込みながら、私は「ありがと」と言いました。
その後、朝食を素早く胃の中へ流した私は、食器を片づけ、洗面所で歯を磨き、顔を洗いました。
自分の部屋へ戻ろうとしたところ、お母さんが階段付近で私を呼びました。
「これ、今日の洋服ね」
そう言って手渡されたのは、灰色のデニムショートパンツと、ロゴが入っている白色のTシャツでした。
外へ出かける時、私はこうして毎回、お母さんに洋服を選んでもらうのです。
もちろん私一人だけで洋服を選ぶこともできるのですが、この目の都合上、もしかしたらとんでもない色の組み合わせを作ってしまうかもしれません。
なので、誰の目から見ても自然な組み合わせになるよう、お母さんに洋服を選んでもらっているのです。
「うん、ありがとう」
洋服を受け取った私は、出かける準備をするためにササッと自分の部屋へ戻りました。
部屋に入って、すぐ左側。
部屋の片隅に置かれているのは、私の身長と同じくらいの高さがあるクローゼット。
私は、そのクローゼットの扉を開けました。
クローゼットの中には、ランドセルや帽子、スクールバッグに園服、制服にアルバムに卒業証書。
九年分の教科書からノートまで。
私が幼、小、中学生の頃に使っていた道具が、今でもキレイに保存されています。
そんな記憶の宝箱の中から、私は端っこの方に追いやられていたリュックサックを手に取りました。
リュックの状態はあまり良いとは言えず、糸のほつれがよく目立ちます。
ザラザラにさびついてしまっているチャックを力で滑らせ、中に一冊のスケッチブックと筆記用具を入れました。
それから洋服に着替え、スマホで時間を確認しました。
午前八時二十七分。
(ちょうどいい時間かな)
そう思った私は、パンツのポケットにスマホをしまいました。
急ぎの用事ではなかったので、私は、自分が満足するまで髪の毛をセットし直し、ある程度の妥協点を見出したところでゆったり階段を下りました。
「あれー? もう行くのー?」
玄関でウェッジソールサンダルを履いていると、お母さんが口に歯ブラシをくわえたまま、洗面所からひょっこりと顔をのぞかせました。
「うん。気分転換も兼ねて、ちょっと早めに行こうかなーと思って」
私はそう言いながら、サンダルのつま先をタンッ、タンッ、と床に押しつけました。
「そっか。気をつけてね」
「うん。じゃ、行ってくるね」
ドアを開け、左半身を日差しのもとにさらした、その時。
「あ、待って」
お母さんが急に私を呼び止めたのです。
足を止め、私は振り返りました。
「え? なに?」
するとお母さんは、私が背負っているリュックサックを指さしながら言ったのです。
「──そのリュック」
「大切に……ね?」
一瞬、お母さんの瞳が私の視線に絡まりました。
お母さんの瞳は刃物のように冷たくて、極めて残忍。
────まるで、怪物。
愛と優しさを切り捨てた怪物のように、ひどく恐ろしい瞳をしていたのです。
試しにまばたきをすると、お母さんの瞳は、普段から私がよく見ているものに戻っていました。
「…………」
「……大丈夫」
「分かっているから、さ」
最後にそう言い、私は家のドアを閉めました。
─────────────────────
気持ちのいい土曜日の朝。
昨日と比べれば、気温も、湿度も、そこまで高いというわけではありません。
外にいても過ごしやすい条件はそろっているのに、相変わらずこの道を使っている人は誰もいません。
これが、この住宅街の当たり前。
当たり前なのですが、誰もいないというのは、やはり寂しい。
そして何よりも、悲しい。
孤独すら感じるのです。
(何か変わったことでもないかなぁ……)
そう思った私は、縁石の上を歩きながら他家の様子をうかがってみることにしました。
右に視線をやれば、カーテン。
左に視線をやっても、カーテン。
どこを見ても、カーテン、カーテン、カーテン、カーテン……。
(こんなに天気のいい日までカーテンを閉め切るだなんて、よっぽど外の世界がイヤなのかな……)
心の中でそんな疑問を抱きながらも、私はゆるりと縁石の上を歩き続けました。
すると。
「ンニャ」
「……?」
この住宅街ではあまり聞き慣れない声が、私の真横から聞こえてきました。
縁石の上でピタッと立ち止まり、私は声がした方向へ体を向けました。
しかし、体を向けた先に合ったのは、白色のワンボックスカーが一台だけ。
……ではありませんでした。
ワンボックスカーの下から、何やら毛玉のような物体がモゾモゾとはい出てくる姿が見えました。
その毛玉は、全身に太陽の光を浴びながらヌルリと立ち上がると、体を素早く左右に震わせました。
私の存在に気がついた毛玉は、その丸っこい瞳で私の顔を凝視しました。
ツンととがった三角形の耳に、スルリと垂れ下がったしっぽ。
ビー玉のように澄んだ白色の瞳を飾り、全身を黒い体毛で覆い隠した、かわいいお客さん。
お客さんの正体は、黒猫です。
縁石の上からズルリと落ち、私は姿勢を低くしながら手をたたきました。
「おいでー?」
すると、それまで石のように固まっていた黒猫がトコトコと歩き出しました。
黒猫は、ふらふらー、ふらふらー、と右から左へ。
かと思えば、今度は左から右へ。
広がる景色に興味を移しながらも、最終的には私の足元へやって来てくれました。
何十倍もの体格差がある私を見て、黒猫は威嚇をするわけでも、逃げ出すわけでもありません。
黒猫はただ冷静に、ちょこんとその場に座ってみせたのです。
「ニャー」
歌声を遠くへ響かせるように、黒猫は高らかに鳴きました。
「ねぇねぇニャンちゃん、触ってもいい?」
そう問いかけてみると、黒猫はコクンと首を縦に振りました。
(わ! この子すごい! もしかして人に慣れてたりするのかな?)
小柄ながらも堂々としているその姿を見て、私はそう思いました。
なので私は、おもしろ半分、冗談半分のつもりで黒猫に問いかけてみました。
「ニャンちゃん、もしかして人の言葉、分かったりしちゃう?」
聞き取りやすいよう、ゆっくり文節を区切りながら話しました。
ですが、わけがわからない! といった具合に黒猫はキョトンとしていました。
(んま、当たり前だよね。ニャン語と日本語は別物だし)
「ゴメンね、なんか変なこと聞いちゃった!」
「ゴホン! えーっと、それでは気を取り直して! 失礼しますねー……」
伝わらないとは思いますが、黒猫に断りを入れてから、その魅惑的な毛並みに触れさせてもらいました。
「ひゃー! さいこー!」
触れた瞬間、絹のようにサラサラとした心地のいい感覚が手のひらいっぱいに広がりました。
黒猫のとろけた表情を見て、きっとこの子も気持ちがいいんだろうなぁ、と私は思いました。
満足するまで毛並みに触れさせてもらった私は、黒猫の背中から手をはなしました。
(ホントだったら、このままずっとなでてあげたいんだけどなぁ……)
そう思いながらも、私は立ち上がりました。
「ニャンちゃん、ゴメンね。私、行くところがあるからそろそろ行くね。バイバイ!」
一方的に別れを告げ、私は黒猫の真横を通り過ぎました。
一歩、また一歩、買ったばかりでまだ履き慣れていないサンダルでコンクリートを踏みしめていると。
「ニャー」
先に進んでいる私を呼び止めるように、背後から小さくてか弱い鳴き声が聞こえてきました。
振り返ってみると、黒猫が一定の距離を保ちながら私の後をついてきていたのです。
「んー……そっか……」
(首輪とかもつけてないし……ひょっとしたら野良ニャンちゃん……?)
(このまま進んでも、たぶんずっとついてくるよね……)
散々悩んだ末に、私はようやく決断を下しました。
「ニャンちゃん、よかったら一緒に行く?」
黒猫はしっぽをクネクネさせると、「ニャー」と鳴きながら私の足元に駆け寄ってきました。
「そうと決まれば!」
私はその場にしゃがみ、両手で大きな器を作りました。
すると黒猫は、迷うことなく器の中へその身を委ねました。
黒猫を優しく抱きかかえ、私は立ち上がります。
「じゃ、行くよ!」
そうして一人と一匹は、物悲しい住宅街の中を進んでいきました。
─────────────────────
あれから十分ほど歩き、私たちは市内にある大きな公園に着きました。
住宅街とは違い、この公園には多くの人。
それも、音だけではありません。
ランニングをしている大人、ウォーキングを楽しむお年寄り、ロープジャングルジムではしゃぐ子ども。
ここには、姿形がはっきりとしている本物の人間が存在しているのです。
しかし、私は運動をするためにこの公園へ来たのではありません。
私には別の目的があったのです。
私たちは入り口を通り、初級のウォーキングコースから少し外れたところにある手すり付きの長い石階段をひたすらひたすら下っていきました。
そしてようやく、本来の目的地である人工的に作られた小川に到着しました。
「おまたせしました!」
「ンニャー」
見慣れない景色だったのか、腕の中にいる黒猫も興奮気味のようです。
付近を散策していると、ちょうど木の影に隠れている背なしのベンチを見つけました。
私は、そのベンチの上に黒猫をはなしました。
「ちょっとここで待っててね?」
私はそう言い、川の水でサンダルがぬれるか、ぬれないかくらいの位置に立ちました。
私は、水面に映っている自分の顔をジーッと見つめました。
こうして水面に映った自分の顔を見ていると、私はサメになった気分になるのです。
サメは、海に住まう絶対強者。
ですが、そんな絶対強者であるサメも、私と同じだったのです。
サメは、色を認識することができないのだそうです。
私が生物の授業で初めてその情報を知った時、大げさかもしれませんが、うれしさのあまり我を忘れてしまいました。
同じ『人間』というくくりではありませんが、私の他にも。
それも生まれつき、色の判別ができない生命が私の近くに存在していたのです。
『私と似ている』
当時の私は、その事実だけでうれしかったのです。
しかし、そのうれしさも長くは続きませんでした。
数ヵ月がたったある日、私はこう考えたのです。
もしかしたらそれは、『強すぎるがゆえの代償なんじゃないのか?』と。
強すぎるから、神さまはハンデとしてサメから色を奪った。
強すぎるから。
そう、強すぎるから。
『じゃあ、私はどうなの?』
私は絶対強者でもない。
これといった強みもない。
なぜ神さまは、何も持ち合わせていない空っぽの私から色を奪ったのでしょうか?
私は生まれる前に、神さまを怒らせてしまったのでしょうか?
分からない。
分からない、分からない。
そんなの、分かるわけがない。
色のない私は、一体何者なの────?
『…………さっきからボソボソと、何を言っている?』
存在の意味を探っていると、私の姿にそっくりな悪魔が水面に映りました。
「……別になにも」
『何もないってことはないだろう?』
「……ないんだよ」
『ないって言い聞かせてるようにしか見えないが?』
「…………」
『逆に聞きたい。悩む要素はどこにある?』
「…………」
「……さぁ」
『……』
『チッ……』
『いつまでも自分で作った理想に振り回されるな……』
『……もう分かってるんだろう?』
『いい加減、目を覚ませ……』
そう聞こえると、水面に映っていた悪魔の姿が消えました。
「……そうだね」
「私が勝手にそう思ってるだけなんだよ……ね……」
私はそうつぶやき、水面に映っている自分の顔を右足で踏みつぶしました。
「結局、ぜんぶ私のせいなんだよ……」
「クソッ……クソッ……」
「もう死のうか……」
「……」
「死ねないくせにさ……」
水面に言葉の針をぶつけ、私は右足を引き抜きました。
サンダルも右足も、川の水でビショビショになってしまいました。
大きくため息をつき、さっきのベンチへ戻ろうとすると。
「ニャー」
黒猫がベンチから飛び降り、ノソリノソリと私のところへ向かってきたのです。
また私の足元で止まるのかと思いきや、そのまま私の真横を素通りしていきました。
私が立っていた場所の近くで脚を止めると、黒猫は短い前脚でちょん、ちょん、と水面に触れました。
やがて怖くなったのか、水面を数回たたくと、黒猫は後ろに下がりました。
そしてまた前に出て、ちょん、ちょん、と水面をたたく。
黒猫はこの動作を繰り返しました。
水に興味があって近づいているのに、怖くて引き下がる。
けど気になるから、やっぱり水に近づく。
その姿は、まるで私。
小さな私を見ているようでした。
ベンチに座って心を鎮めた私は、一つ黒猫に提案をしてみました。
「ニャンちゃーん」
呼ぶと、黒猫は首をこちらに向けました。
「ここ、おいで?」
私はそう言い、トントン、と膝の上を軽く手でたたきました。
私の意図を理解してくれたのか、黒猫は「ニャー、ニャー」と鳴きながら駆け寄ってきてくれました。
黒猫はベンチに近づいてピョンとジャンプをすると、私の膝上で身を丸めました。
「いーこいーこ!」
黒猫の背中をなでた私は、右足のサンダルを乾かすため、日差しがいいと思われる真っ白い場所へサンダルを放り投げました。
それからリュックを隣の席に置き、スケッチブックと筆記用具を取り出しました。
鉛筆を右手に添え、私は絵を描く準備を整えました。
本当は、ここから見える景色だけを描こうと思っていたのですが、急きょ予定変更です。
真っ白い紙に鉛筆の先を押し当て、黒い命を吹き込みます。
粒状となって飛び散る水、風に吹かれて揺れる毛並み、弾ける表情。
四感を研ぎ澄ましながら、一つ一つ丁寧に。
そして繊細に。
私は、ただひたすら無心で絵を描き続けました。
すべてを忘れて絵を描くことだけに没頭しているこの時間が、私にとって一番楽しい時間なのです。
ですが、同時に恐怖も感じるのです。
色が見えない私なんかに絵を描く資格があるのか? と疑ってしまうのです。
────でも、本当は分かっている。
あるに決まっている。
資格なんてない、ないんだ、と否定するのは、いつだって自分自身。
『いい加減、目を覚ませ……』
……分かっている。
分かってるんだけどさ……。
まだもう少しだけ、目を開けるのに時間がかかっちゃいそうだよ……。
「……できた!」
やがて、一枚の紙に黒い命が宿りました。
黒猫が浅瀬で元気よく遊んでいる絵です。
本来『ありえないこと』を『起こりうること』に変化させる、この感覚。
たまらないほど好きなのです。
だから、私はやめられないのです。
「どうかな?」
「ニャー」
黒猫は鳴くと、肉球でペタペタペタ、と絵に触れました。
「気に入ってくれたかな?」
「ンニャー」
私の顔を見上げながら鳴くと、黒猫は視線を絵に戻し、再び肉球で絵に触れました。
とりあえず私は、その行動を「すごい!」といったプラス方面での意味として受け取りました。
「そっか! うん、ありがとね」
私はそう言い、黒猫の頭を優しくなでました。
しかし、私はまた疑っていたのです。
こんなにも冷たい絵に価値はあるのか? と。
『おいおい……もう勘弁してくれ……』
『楽しい? そんなに自分ばっかり責めててさ?』
「…………」
「……さぁね」
「……楽しくないとは思うけど」
『ぐんにゃり曲がってるよ。今の私は……』
「……知ってる」
『知ってるんだったら槌でたたけよ……』
「……いずれね」
自分で描いた冷たい絵をぼんやり眺めていると、どういうワケか、黒猫は私の手の甲を必死になめ回しました。
(へぇ、猫のベロってホントにザラザラしてるんだな……)
やがてなめることに飽きたのか、黒猫は私の膝から飛び降りました。
フラフラと気ままに歩いていると、なぜか黒猫は、放置していた右足のサンダルのひもをくわえました。
黒猫は、私のサンダルをどこか遠くへ持ち去ろうとしているようでした。
「わ、ダメだよぉ」
多少強引にサンダルを返してもらったところ、今度は左足のひもをくわえました。
「フニャー」
黒猫は、私をこの公園の外へ連れ出すくらいの勢いでひもを引っ張りました。
「わ、分かった、分かったから。ね? 引っ張ると伸びちゃうからやめて。ね?」
そうお願いすると、黒猫は口にひもをくわえたまま私の顔をにらみつけました。
ついに私の顔にも見飽きたのか、黒猫はひもをはなしてプイッと後ろを向くと、ゆっさゆっさとしっぽを振りながら石階段を上っていきました。
「ニャー」
黒猫は石階段の頂上で振り返ると、「はやくこっちに来い」と言わんばかりに甲高い声で鳴きました。
私は手に持っていた道具を慌ててリュックの中へしまい、回収したサンダルを履きました。
完全に乾いてはいませんでしたが、この程度だったらギリギリ許容範囲内です。
私はリュックを背負い、むしろ飛び越すくらいの勢いで階段を駆け上がりました。
「ニャー」
私が全力で石階段を上り切ったと同時に、黒猫はどこかに向かってフラリと歩き出しました。
この場所にあの子を連れてきたのは、間違いなく私。
ならば、あの子を安全な場所に帰す責任も私にあるでしょう。
あのまま放っておくのは道理に反する行為なので、彼女の安全が保証されるまで、黒猫の後をついていくことにしました。
─────────────────────
そうして私たちは、物悲しい住宅街に帰ってきました。
行きと同じように誰も歩いていない道を通り、車も走らない横断歩道で私たちは止まりました。
信号が変わるまでの間、黒猫は奈良の鹿のように、点字ブロックの内側で下の部分が点灯するその時を待ちわびていました。
(本当にエラいなぁ……)
(この姿、鹿たちに見せたらどうなるんだろ……)
(ちょっと気になる……)
修学旅行先で出会った鹿と黒猫を頭の中で邂逅させていると、下の部分が白く点灯しました。
黒猫はスッと立ち上がり、変わらず私の前を歩きます。
(今日は、黒線の上でも歩こうかな)
そう思い、一歩、私が黒線を踏んだ瞬間。
「うわあっ!?」
突然、辺り一帯に強風が吹き荒れたのです。
重心を前にかけてなんとか踏ん張ってはいるのですが、それでも私の体は後ろへ押し返されてしまいます。
「なになに!? なんなのよこれはーっ!」
「ふきやめ! ふきやめってのー!」
怒声を上げると、それまでの事実を否定するかのようにパッと風が吹き止んだのです。
「んもぉ……台無しじゃん……」
ボサボサになってしまった前髪を整えていると、黒猫は急に体を右へ曲げました。
背中を直角に曲げ、全身の毛を逆立たせ、牙を剥き出しにしたのです。
「シャー……」
さっきまでとは明らかに様子が異なっていました。
「どうしたのニャンちゃん? どこかに行くんじゃなかったの?」
落ち着かせることが最優先だと考えた私は、黒猫の背中に手を伸ばしました。
しかし。
「シャーッ!」
私の顔を見て威嚇すると、黒猫は再び体を直角に曲げ、牙を露出させました。
「ほらほら、大丈夫だよ? 別になんにもいない……か……ら…………?」
(…………え?)
(なに……あれ……?)
この道には私と君以外誰もいない、ということを証明するため、私は黒猫と同じように右を向いたのです。
そうしたら、そこにいたのです。
道路のど真ん中に、私たちに背を向けた状態で突っ立っていたのです。
両目をこすり、私はもう一度、道路の真ん中を確認してみました。
しかし、依然としてそこにいたのです。
(人……? いや、人の形はしてるけど、人じゃない……?)
(それに、あのちぎれた鎖はなんなの……?)
鎖がついた足首に視線を集中させていると、『アレ』のつま先がこちらに向きました。
私は、ゆっくり視線を足首から胴体、胴体から頭へ移しました。
「……まって」
「まって、まって、まって、まって、まって、まって、まって、まって、まって!」
顔がなかったのです。
正確に表現するのであれば、顔が真っ黒に塗りつぶされていたのです。
(ありえない! こんなの、絶対に!)
(そうだ、これは夢!)
(めっちゃリアルな夢を見てるんだよ!)
(そうだよ! 夢なんだ……よ……)
(……)
(夢……?)
(……そうか)
(思い出した)
(私、確か夢の中であの人と会って……)
断片的な記憶のピースをかき集めた途端、『アレ』がゾンビのような歩き方をしながらこちらに向かってきたのです。
(こっちに来る…………)
(え、もしかして私、殺されるの……?)
命のないマネキンのように固まっていると、足先に鋭い痛みが走りました。
「いたっ!」
視線を下にやると、黒猫が足の甲にかみついていました。
「あ、あ、大丈夫だから! 私がいるから!」
『私のことなんてどうでもいい。とにかくこの子を守らなくちゃ』
その一心で、私は黒猫に覆いかぶさりました。
ダンゴムシのように丸まりながら黒猫を守っていると、なんの温かみもない風が体の隙間を抜けていきました。
(もう、いいかな……)
(いい、よね……)
不安定な感情を抱きながらも、私は視線を上げてみました。
不可解なもので、道路上にはもう誰もいませんでした。
あまりに唐突すぎる出来事だったので、私は状況の整理がまったく追いつかなくなり、ただぼうぜんとその場に倒れ込んでしまいました。
「シャー……」
黒猫は地面と胴体の間に空いたわずかな隙間をくぐり抜けると、警戒を維持したまま私の周りを一周しました。
「ンニャー」
安全であると確信したのか、黒猫は背中をピンと伸ばし、毛を倒し、牙をしまいました。
黒猫は倒れている私に近寄ると、頬を数回なめました。
それから私の左側に回り、またサンダルのひもをくわえて引っ張ったのです。
「ごめんね。ちょっと、やめてほしいな……」
私の心を読み取ったのか、黒猫はひもをはなし、横断歩道を渡った先を左に曲がりました。
家とは真逆の方向です。
黒猫は脚を止めると、前を向いたまま「ニャー」と鳴きました。
私は全身の緊張を無理やりほぐし、ヨロヨロと立ち上がりました。
左首筋に手を当ててみたところ、液体で肌が湿っていました。
液体の正体は、もう見なくとも分かります。
「そうか……これも私がやったのか……」
この一連の現象を起こした犯人は自分だと確信した私は、足を引きずるようにして黒猫の後を追いかけました。
─────────────────────
今、私たちの目の前にあるのは、影の世界につながっているかもしれない穴。
その正体は、暗闇のせいで先にあるはずの出口が確認できない大きなトンネルです。
「こんなところにトンネルなんてあったっけ……?」
しかし、この住宅街近辺にトンネルなど一つもなかったはずです。
……いえ、きっと私の情報が古いのでしょう。
なにせ数十年前の記憶ですから、その間にトンネルの一つや二つくらい完成していてもおかしくはありません。
ですが、トンネルとは普通、向こう側を目視できるもの。
薄暗くて見えにくいならともかく、まったく見えないとなると……。
(私の目……?)
この目が悪さをしてるんじゃないか? と考え、しばらくトンネルの前で自分の目の状態を疑っていると。
「わっ」
黒猫が、影の世界へスタスタと脚を踏み入れていったのです。
「ニャー」
外からトンネル内の様子を確認することはできませんが、幾重にも重なった鳴き声が私のもとに返ってきました。
(鳴き声が聞こえるってことは、たぶん、安全なんだよね……? そうなんだよね……?)
(ここまで来たんだから、もう行くしか、ないよね……)
意を決して右足を前に伸ばした、その瞬間。
「えっ?」
誰かに。
私は、誰かに背中を押されたのです。
トンネルの中へ入る前に、せめて犯人の顔だけは見てやろう、と思った私は、体勢を前に崩しながら上半身をひねったのです。
そうして私は、犯人の顔を目撃することに成功したのです。
─────────────────────
……あぁ。
また、なんだ。
またそうやって、私を後ろから押して突き落とすんだね。
またそうやって、私を殺すんだね。
真実を告げられた、あの日みたいに。
ただ冷静になって考えると……。
それは違うのかもな……。
なんとなくだけど、今だったら理解できるかもしれない。
それは、必要な行為だった。
それは、必要な犠牲だった。
前へ進ませるために、あなたは私を殺した。
違う?
でも、これはあくまで私の考えだから、あなたの意図なんてさっぱり分からない。
だから教えてよ、答えをさ。
ねぇ、いいでしょう?
私────。
─────────────────────
Às vezes eu sonho.
É um sonho assustador e assustador, diferente da sua mãe.
Porém, acredito que há sentido em continuar sonhando esse sonho.
"Não há nada desperdiçado neste mundo"
Obrigado, pai. Porque eu acredito.
Então fique de olho em mim.
─────────────────────
「きゃあ!」
体の前面を強打しながら、私は暗闇のトンネルに入りました。
「くぅ……いったぁ……」
まだそこに犯人がいるのかどうかが知りたかったので、私は倒れたままの姿勢で後ろをのぞいてみました。
「……え?」
……意味不明なことを書いているとは思うのですが。
なぜか、入り口がきれいさっぱりなくなっていたのです。
「え、え、え、え」
「え……?」
状況を飲み込めないまま私は飛び上がり、手を前に伸ばしながら、さっきまでそこにあったはずの入り口を探しました。
ですが、どれだけ探しても入り口は見つかりませんでした。
入り口だったはずの場所は、コンクリートのような硬い物体に置き換わっていたのです。
(いやいやいや、ゲームの世界じゃあるまいし……)
(てか、どうやってここから出ればいいのよ……)
脱出する方法を模索していると、トンネル内に声が響きました。
振り返ると、暗闇の先にまばゆい光。
光の中心には、小さな影。
おそらくあの小さな影は、黒猫。
そしてあの光は、私が心より求めていた出口。
いえ、この場合は、出口というよりも『入り口』と表現した方が正しいでしょう。
今だから分かることなのですが、このトンネルに出口など最初から存在していなかったのです。
何も知らない私が勝手に出口だと思い込んでいるだけであって、あの光の正体は、ついさっきくぐったばかりの入り口なのです。
詳しいことは分からないので憶測になるのですが、トンネルに入って一度でも目をつぶれば瞬時にこの壁の場所へ移動するよう、何か驚異的な力が働いていたのでしょう。
あるいは、私の妄想か。
そうこうしているうちに、黒猫と思われる小さな影は光の中へと吸い込まれていき、その姿を入り口の先へ隠してしまいました。
「あ、待って! 待って!」
私は叫び、余計なことは考えず、ただ足を全力で回転させました。
呼吸が荒くなるにつれて光の強さはだんだんと増していき、やがて私の体も光に包まれました。
「う……ぐ……」
あまりのまぶしさに、私はまぶたをきつく閉め、両手で目を覆い隠しました。
覆い隠しているにもかかわらず、手とまぶたの隙間をすり抜け、私の目に白い光が届いてくるほどです。
しばらく耐えていると、まぶたの裏に届いていた光が弱まりました。
両手をはずし、私はゆっくりまぶたを開けました。
「ここ、は……」
そこは、今にも魔法使いが登場してきそうな、不気味で、しかしどこか美しい。
ハイペリオンのようにとてつもなく背の高い木々が生い茂り、植物図鑑にもその姿と名前が載っていないであろう花々が美しく咲き乱れ、大小さまざまな生命たちが息づいている場所。
深い深い未知の森の中に、私はいたのです。
「ニャー」
斜め下に視線をやると、レンガで舗装された道の真ん中に黒猫が座っていました。
私の姿を確認すると、黒猫は立ち上がり、どこかに続いているはずのレンガ道を進んでいきました。
その凛とした姿にならい、私もレンガ道の中央を歩くことにしました。
─────────────────────
鳴くと、黒猫が駆け出しました。
黒猫が駆けていく先にあったのは、これまたレンガで造られている古風な一軒家。
「こんなところに家が……」
黒猫は、家の前に植わっている植物を荒らさないよう、ピョンピョン飛び跳ねながら器用に庭を直進し、ドアの下に取り付けられているキャットドアをくぐり抜けました。
「ニャー」
黒猫は穴からひょこっと顔を出すと、私を家の中へ招待するかのように鳴きました。
不器用な私は庭を大きくうかいし、無事、ドアの前に立つことができました。
(とりあえず呼び鈴、呼び鈴っと……)
(あれ……?)
傍から見れば空き巣犯と勘違いされてもおかしくないほどあちこち探してみたのですが、呼び鈴はありませんでした。
ですがその代替品として、星の形をしたかわいいドアノッカーが貼り付けられていました。
人差し指と親指で輪っかをはさみ、カチン、カチン、と冷たくて硬い音を奏でました。
すると。
「はいはい、ただいまぁ」
家内から女性の声が聞こえてきました。
「あら、こんにちは」
ドアを開けた女性──おばあさんは、私の顔を見ると少しかすれ気味な声を優しい笑顔でカバーしながらあいさつをしました。
見たところ、おばあさんも私と同じで純粋な日本人ではありませんでした。
「あ、こんにちは。えと……猫ちゃんの後を追いかけてトンネルに入ったら、いつの間にかこの森にいてですね……ちょっと言ってることが分からないと思うんですけど……」
どう説明すればいいのか迷っていると、おばあさんは非常に落ち着いた様子で「まぁ、そうだったのかい? それはさぞ大変だったろうねぇ」と言いました。
申し訳ないのですが、こんな狂った話を聞いても冷静さを欠いていないことに対し、どこかに異常があるんじゃないの? と私は思いました。
「ニャー、ニャー、ニャー」
黒猫はしっぽを真上へ伸ばしながら、おばあさんの足元を八の字に動き回りました。
「お嬢さん、疲れているだろう? こんなところでずっと立ち話をするのもなんだからね。ささ、どうぞ上がって上がって」
おばあさんはスリッパを履きながらそう言うと、ヒョイヒョイ、と私を手招きました。
「なぁに、遠慮なんてしなくてもいいんだよ?」
「あ、えっと……」
「……すみません。では、お邪魔させてもらいます」
ここで断るのは失礼だな、と思ったので、私は一度大きく頭を下げ、おばあさんの家に上がらせてもらいました。
─────────────────────
なぜか家の中は、長い間放置されていたかのような、ホコリっぽくて苦いにおいが漂っていました。
おばあさんの後に続いてギィ、ギィ、ときしむ廊下を歩き、キンセンカが大きく描かれているカーテンをくぐりました。
「どこでも好きなところに座っていいからね」
「はい。ありがとうございます」
私の家よりもソファやテーブルの数がはるかに多く、一人だけで暮らしているのになんでこんなに数があるんだろう? と疑問に思いました。
そんな疑問はさて置き、とりあえず私は、案内された部屋の中でまず真っ先に目についた一人掛け用のソファに座りました。
シックなテーブルを挟み、対面にはもう一脚、私が座っているものと同じソファが。
私の右側には、中くらいの大きさをしたプランターが四つ、光のシャワーを浴びせるように横一列で置かれています。
土にささっているプラカードを見ると、左から順番に、ミント、セージ、バジル、パセリと黒ペンで記されていました。
バジルに関しては、植物素人である私の目から見ても分かるくらいモジャモジャに成長しすぎていました。
それはもう、熱帯雨林に生息する樹木のようです。
「お嬢さん、ハーブティーは飲めるかい?」
ぼんやりと植物を眺めていた最中、おばあさんが言いました。
「あ、はい! 大丈夫です!」
突然の質問だったので、私はつい反射的にそう答えてしまいました。
「そうかいそうかい。それじゃあちょっと待っててね。今、クッキーも一緒に持ってくるからね」
おばあさんはそう言うと、真っ白いカーテンで仕切られている別の部屋へ移りました。
「あ、ありがとうございます」
一人になったところで、私はポケットからスマホを取り出しました。
現在地を調べようと、マップアプリを開いたのですが。
「え? うそ……」
なんと、画面の左上には『圏外』の二文字。
ネットにつながらないので、現在地を調べることも、お母さんに連絡することもできません。
騒いでもどうにもならないので、私はしぶしぶスマホから手を離しました。
スマホが使えなくなった今、その代わりとなる楽しみといえば、ハンドルつきの大型蓄音機から流れているクラシック音楽を鑑賞するか。
もしくは、ポカンと植物を観察するか。
現状、この二択しかありません。
正直なところ、『退屈』の一言以外、何も思いつきません。
ですが、この退屈がイヤ、というわけではありません。
たまにはこうして、すべての時間を忘れて開放的に過ごすことも悪くないなぁ、と私は思うのです。
「ニャー」
家内の巡回を終えたのか、黒猫は満足げな様子でリビングにやってきました。
「おっと、どうしたのかな?」
私の膝上に飛び乗ると、黒猫は横向きになって完全無防備状態になりました。
ここにも小さな楽しみがあったということを、私はすっかり忘れていたのです。
「あらあら。お嬢さんはずいぶんとその子に好かれているみたいだねぇ」
指先で黒猫の鼻に触れていると、カーテンの奥からプレートを持ったおばあさんが現れました。
ティーカップとクッキーが五枚のっているプレートを置くと、おばあさんは両膝をおさえながらゆっくりと対面のソファに座りました。
「あ、ありがとうございます」
「ほらポンちゃん、そこにいるとお嬢さんが手を伸ばせないでしょう?」
おばあさんの意見に同意したのか、黒猫は胴体をにゅるりと曲げて私の膝上から降りました。
「さ、どうぞ。気を使う必要なんてないからね」
「は、はい。ではいただきます」
逆にやりづらさを感じながらもハンドルの部分をつまみ上げ、カップを口に近づけました。
(これがハーブティーの香り……)
この十六年間、私は一度もハーブティーを飲んだことがなかったので、どんな味がするのかもまったく予想がつきません。
さっそく灰色をした液体を口の中に含み、胃へ流しました。
「おいしい!」
私の口からは、自然とその言葉があふれていました。
「そうかい。それはよかったよ」
「ここ最近は自分が飲むためだけに淹れてたからねぇ。人の口に合うか心配だったけど、まだ腕は落ちてなかったみたいだ」
おばあさんは笑いながらそう言うと、黒猫の頭を軽くトントンとたたきました。
黒猫は眠たそうに大きく口を開けると、あくびを披露しました。
(ふふっ! かわい!)
ちなみにですが、私はワンちゃんよりもニャンちゃん派だったりします。
ここで私は、動物つながりで新たな話を展開させることにしました。
「そういえば、その子の名前なんですけど、ポンちゃんって言うんですか?」
「あぁ。ボンベイっていう品種の子だから、そこから単語を取ってポンちゃんさ」
「そうでしたか」
「いい名前をもらったね」
そう言うと、ポンちゃんはうれしそうにしっぽを左右に揺らすのでした。
私はティーカップを置き、今度は黒色のクッキーを一枚、口の中に入れました。
黒色だったので、その色から何味かを判断することができなかったのですが、舌の上にのせてようやく味の正体を知りました。
黒色のクッキーの正体、それは、ほろ苦いチョコレートクッキーでした。
このチョコレートクッキーも、ハーブティーに負けないくらいのおいしさを誇っています。
クッキーをかみ砕きながら視線を上げると、ポンちゃんは「ミー、ミー」と甘い声を出しながらおばあさんの顔を見上げていました。
おばあさんもまた、ポンちゃんの顔を優しく見つめていました。
(きっといい関係なんだろうな)
(私も家でペットとか飼ってみたいなぁ……)
そんなことを考えながら、クッキーを胃へ押し込みました。
乾いた口の中をハーブティーで潤そうと、ハンドルをつまみ上げた、その時。
「そうかい。それは大変だったねぇ……」
私と目を合わせながら、おばあさんは言いました。
「え、何がでしょうか……?」
「ここに来る途中、お嬢さんは見たんだね?」
「影を」
『影』
その単語に恐怖し、激しく動揺した私は、危うくティーカップを床に落としてしまいそうになりました。
割ってしまう前に、私はハンドルから指をはなしました。
「え……あの……なんで、なんで……知っているんですか……?」
「今、この子から何があったのか聞いたのさ」
ポンちゃんの背中に手を乗せながら、おばあさんは言いました。
「その子の言葉が分かるんですか?」
「いいや、分からないよ」
「ではどうやって……」
「そうだねぇ……もしかしたら、年寄りの勘……ってものなのかしらねぇ」
「長い間、こうやって一緒に過ごしているとね? 言葉なんて分からなくても、なんとなく感覚で理解できるものなのさ」
おばあさんは、続けて私に言い放ちました。
「……実はね」
「私にも、影が見えるんだ」
その瞬間、ブワァァァッ、と全身に生えている毛の一本一本すべてが逆立ちました。
「本当ですか!?」
「あぁ。本当さ」
「お嬢さんがいつ頃から見えるようになったのかは分からないけど、私の場合はねぇ……」
おばあさんはそう言うと、私から見て右に首を曲げました。
次いで私も、首を曲げました。
私たちの視線の先にあったのは、写真。
壁一面に貼り付けられた、大量の写真です。
そして、それらの写真はいずれも、写っている人数が二人。
顔を正面に戻すと、おばあさんは「あの人がいなくなってから見えるようになったのさ」と言いました。
「それはつまり……」
「あぁ。お嬢さんが考えている通りさ」
「私たちは、導かれたのかもしれないねぇ……」
「影が見える者同士だ。よかったらこの年寄りの話、聞いてもらえるかい?」
私は黙ったまま、首を縦に動かしました。
「ありがとう。そうだねぇ、まずはどこから話そうか……」
「この歳になってくると、話したいことが山のようにありすぎてねぇ……」
おばあさんはそう言うと、窓外に広がる灰色の景色を眺めました。
しばらくすると、おばあさんは何かを思い出したように鼻で息を吸い、口に結びついていた糸をほどき、語り出したのです。
「あの人は、おもしろくて優しい人だった」
「誰かのためだからーって言って、平気で自分を犠牲にしちゃうような人でもあった」
「あの人は毎日毎日、口ぐせみたいに『俺は炎になりたいんだー!』って叫んでてねぇ」
「光……ではなく……?」
『炎』というチョイスが気になり、私はかみつくように尋ねました。
「私も一回、お嬢さんみたいに聞いたことがあるんだ。でも、あの人が言うには炎じゃないといけないらしい」
「その理由ってのがまたおもしろくてねぇ。なんでも『炎の方が光よりも人間に近い』んだと」
「風が吹けば炎は揺らぐし、水をかけてやれば炎は消える。木をくべてやれば、炎の勢いは増していく」
「それが最高に、人間の内面にそっくりなんだと」
「光ってのは、炎と比べて完璧すぎる」
「風が吹いても揺らぐことはないし、水をかけても消えることはない。木をくべてやる必要もない」
「それであの人はこう言ったんだ。『それはつまらないし、おもしろくもない。この世界にそんな都合のいい完璧なんて存在するワケないだろ!』ってねぇ」
「だからあの人は、炎にこだわり続けていた」
「『いつか消える不完璧な炎みたいに、誰かを照らせる存在になりたい』っていうのが、あの人の目標だった」
「でもね?」
「あの人は死んだ」
「ひっそりと、自分から、ね」
「メッセージが残っていないか家中くまなく探したんだけど、そんなものはなかった」
「だから分からないんだ。なんで自分からなのかが、ね……」
「それは、今でも同じ」
「もしかしたら、普段表面には出していなかっただけで、内側はボロボロだったのかもしれない」
「サインは、出していたのかもしれない」
「私が見逃していただけかもしれない」
「その日から毎日、私にできることはなかったのか、してあげられることはなかったのかって考えるようになったんだ」
「そんな毎日を送っていたら、いつの間にか見えるようになっていたってワケなのさ。考えるには少し遅すぎたけどね」
「……とは言っても、これはあの人自身が選んだ道だ。私がどう動いたとしても、この結果は変えられなかっただろう」
「良くも悪くも、あの人は最後まで貫く人間だったからねぇ」
「言い方は悪いけど、これは運命。どうしようもないことなんだ」
「人間は、いつか必ず死ぬ」
「早く死ぬか、遅く死ぬか、自分から命を断つか、踏み止まるか」
「それだけの違いさ」
これはあくまでも私の考えなのですが、『死』のパターンは、基本、三つに分けられると思うのです。
一つ目は、ある日突然、命の炎が消えてしまう。
二つ目は、ある日突然余命を宣告されて、残された日々をしがみつくように生きる。
三つ目は、何ごともなく一生を終える。
基本は、この三つ。
もし神さまから「この中から好きな死に方を選べ」と言われたら、間違いなく、全世界の人たちが一番下の死に方を選択するでしょう。
ですが、その死に方を選択できるのは、ほんの一握りの人たちだけ。
神さまに愛された人たちだけ。
現に私のお父さんも、一番下を選択することができませんでしたから。
その点から考えると、成り行きこそ違いますが、おばあさんと私は同じ『こちら側の人間』なのかもしれません。
……。
……神さまなんて嫌いだ。
あなたは、万人に不幸しか与えない。
あなたは本当に苦しい人へ手も差し伸べず、もがき続ける人を空の上であざ笑っているだけ。
それのどこに意義があるのでしょう?
本当に消えるべきなのは、あなたの方ではありませんか?
「さて、これで年寄りの話も終わりさ」
「……私は」
「なぁに、無理しなくたっていいさ。今のは全部大きな独り言だからねぇ」
「いえ、でも……」
「でも、不思議なもので、私も少し独り言をつぶやきたいと思ったんです」
私がそう告げると、おばあさんは眉から力を抜きながら「そうかいそうかい」と言いました。
「お嬢さんはしっかりしているねぇ」
「しっかりだなんて、私はそんなのじゃありませんよ」
「そんな言葉からはかけ離れていて、臆病で、足りないことだらけ」
「未完成なんですよ、私って」
「それもこれも、元をたどればすべて……」
「すべて……この……」
忌まわしき首の傷跡。
そして────。
「私は……」
「私は、生まれつき……」
「色が……見えないんです……」
うつむきながら、私は告白しました。
どんな反応をされるか、私は怖くて怖くて、おばあさんの顔すらもロクに見ることができなかったのです。
ついさっきまで、おばあさんと目を合わせていたというのに。
やっぱり私は……。
私は、どうしようもないくらい弱くて、臆病で……。
お願いだから、もう少しだけ耐えて……。
私の傷……。
「なので、ずっと羨ましかったんです。普通の人が」
「どうして私なんだ、どうして私が選ばれたんだ……って思っていたら、私の後ろに影がやってきたんです」
「そうしたら、高い場所から突き落とされて……」
「目が覚めて鏡を見たら、首に傷ができていたんです」
「……あぁ、そうだ。おばあさんには、私の首の傷が見えますか……?」
私はそう言い、おばあさんに見えるよう、左首筋を前に突き出しました。
もちろん返ってきた言葉は。
「……ごめんなさいね。私には見えないわ」
もう聞き慣れた言葉。
聞き慣れすぎてしまった言葉。
もう、何も感じない。
何も、何も、何も。
「あ、いえ、それが普通なんですよ。この傷、私だけにしか見えないんです」
「親に聞いても、友だちに聞いても、みんな、みんな、見えないって答えたので」
「むしろ私の精神状態を疑われたくらいで……」
「それでやっと気づいたんです。この傷は私だけにしか見えないって」
私はそう言い、左首筋を手で強く押さえつけました。
「私だけにしか見えないっていうのは、そこまで問題じゃないんですよ」
「問題なのは、消えてくれないことなんです」
「この傷、私が園児の頃からあるんですけど、一向に治る気配がないんですよね」
「この傷から血が流れるたびに、思うんです」
「あと何年、この傷と一緒に生きるのかなって」
「もしかしたら一生、この傷と生きることになるのかなって」
「正直、もう嫌なんです」
「何かあるたびに傷は痛むし、血は流れるしで……」
「でもそれは、いつまでたっても現実を受け入れられない私への罰なのかもしれないですね……はは……」
「本当のことを言うと、どうすればいいのかは理解しているんです……」
「理解はしているんですけど……」
(本当に情けないな……)
(自分から話したくせに、なに泣きそうになってるんだ……)
涙をこぼさないようにこらえていると、おばあさんは黒猫を下ろしてソファから立ち上がり、私の真横でつま先を止めました。
そしておばあさんは、私の頭を優しく抱きしめてくれたのです。
すべてを癒やしてくれるような、とても温かい感覚。
一体何年ぶりの体験でしょうか。
「お嬢さんは偉い。知ることを諦めた私とは大違いだ」
「お嬢さんは今、どうしようもないくらい怖いんだね? そして、自分を見失いそうになるくらいつらい」
「しかもそれは、人生の途中で降りかかったことじゃない」
「最初から、ずっと一人で戦ってきたと……」
私は顔をうずめながら、黙って首を縦に振りました。
「……そうかい」
おばあさんはそうつぶやくと、私の頭をなでました。
「今はまだ、答えが見つからないかもしれないね」
「でも、それで自分を悪く思うことはない。答えっていうのは曖昧で、簡単には見つからないものの方が多いくらいだ」
「焦ることはないさ。長い人生だ。たまには穏やかな風を浴びることも必要なのさ」
おばあさんがそう言うと、私の首に温かい言葉の風が巻きついたのです。
(……そうか)
(今、ハッキリと分かった)
(これが、自分を新しい方向へ運んでくれるヒント)
(私は今、分岐点に立っているんだ……)
(進むことは、確かに大切なことだけど……)
(待つことは、確かに大切なことだけど……)
(進みすぎたから、私は現実を知ることになった)
(待ちすぎたから、私は新しい一歩を踏み出せなくなった)
(現実を知りすぎたから、私は自分の弱さに気がついた……)
(新しい一歩を踏み出せなくなったから、私は自分の無力さに気がついた……)
(答えを見つけるために、私は立ち止まった……)
(でも、答えなんて出なかった……)
(何年たっても、答えは出なかった……)
(答えを出すために、私は立ち止まりすぎたんだ……)
(今の私に足りていないのは、迷わず真っすぐ進む勇気と覚悟……)
(自分がどうしようもないくらいのダメ人間だということは、もう嫌というほど理解しています……)
(でもどうか、どうか、お願いします……)
(この私に、新しい景色を見るための勇気と、二度と立ち止まらない覚悟を……)
「あの……一つ、聞いてもいいですか……」
私の頭を抱きしめたまま、おばあさんは「なんだい?」と言いました。
「私は、許されるでしょうか……」
「こんな私が……」
「こんな色の見えない私が、色のある絵を描こうとしても、許されるでしょうか……」
「……私の父は、画家だったんです」
「絵を通して、父はいつも多くの人に感動を届けていました」
「できることだったら、私も父のように色のある絵を描きたい……」
「そして父のように、感動を届けたい……」
「でも、ムリなんです……」
「だって私は、父じゃないので……」
「でも、でも、感動を届けたいっていう気持ちだけは本物なんです」
「だけど、私が行動を起こしたら非難されるんじゃないかって思うと、すごく怖くて……」
「……残りの人生を使って何回も絵を描きたいなんてぜいたくは言いません」
「一回、一回だけでいいんです……」
「父の目に広がっていた景色がどんなものだったのか、私は見てみたいんです……」
「それでも……それでも人は……私の行為を許してくれますか……」
頭をうずめることをやめた私は、おばあさんの瞳に直接尋ねました。
瞳孔をきつく閉めると、おばあさんは笑顔で答えました。
「当たり前さね」
「許さないって決めているのは、いつだって完璧な存在になることを夢見ている自分自身だからね」
「でもね、どうがんばっても完璧にはなれない」
「それは、人だけじゃくてこの世界も同じ」
「お嬢さんが思っているよりもずっと、ずっと、この世界は不完全なのさ」
「正しいかも間違っているかも分からないような不安定な世界。そんな世界に絶対の正しさなんてものはない」
「だから思うんだ。あえて正解か分からないような答えを持つことこそが正解なんじゃないかって」
「すでにお嬢さんは、答えを持っている。素晴らしいことだ」
「それにお嬢さんは、とても若い。若いうちは、自分に素直になってあげるといいさ」
「いつまでも素直になれないでいると、気づけばこんなに歳を食っちゃうからねぇ」
「それで手元に残るのは、後悔だけ。後悔っていうのは、死ぬ間際になってもつきまとってくるやっかいなものさ」
「だからね、お嬢さん」
「後悔がないように……いや、後悔することが少なくなるように、進むといいさ!」
おばあさんはそう言うと、私の左手の甲に、手のひらを重ねてくれたのです。
完全ではありませんでしたが、それまで左手に宿っていた疼痛が少しだけ和らぎました。
「あの……すみません、私……」
「いいのさ。誰にだって苦しい時はあるからね。泣ける時にたくさん泣いておくといいさ」
「ありがとう、ございます……」
静かに涙を流していると、おばあさんは言いました。
「お嬢さん、私は、お嬢さんが進むべき道を照らせたかい……?」
腕で涙を拭い、私は、おばあさんの顔を正面から見ながら「はい……!」と返事をしました。
「そうかい! それはよかった!」
「きっとあの人も喜んでいるだろうねぇ……」
「これで、私の役割も終わりさね」
おばあさんが写真を見つめながらそうつぶやいた、その時。
パキン──。
私の中で、何かが弾けるような音がしたのです。
─────────────────────
「お嬢さん、帰り道は分かるかい?」
「サンダルを履いている最中、おばあさんは私に尋ねました。
「えーっと、まぁ……たぶん大丈夫だとは思います。入って後ろを向いたら出口があると思うので」
私はそう言い、体全体をおばあさんの方に向けました。
「そうかい。それじゃあ気をつけて帰ってね」
「はい。ありがとうございました!」
深く礼をして扉を開けようとした、その時。
「……お嬢さん」
おばあさんのどこか冷たい呼び声が、私の動きを封じました。
「なんでしょうか?」
振り返って尋ねると、おばあさんは言いました。
「お嬢さんさえ良ければ、私を心の片隅にでも置いといてくれないかい?」
「片隅だなんてそんな! 心のど真ん中に留めますよ!」
私はそう答えました。
しかし、私は気づいていなかったのです。
その言葉に隠された、真実を。
「……そうかい。ありがとうね、お嬢さん」
「本当に」
おばあさんはそう言うと、胸のすぐ横で手を振りました。
まるで、『いってらっしゃい』と『さようなら』をかけ合わせたような、そんな手の振り方でした。
私はもう一度礼をしてから扉を開け、家を後にしました。
─────────────────────
「サラー、ちょっと水まいといてくれなーい?」
「はいはーい」
日付は変わり、日曜日の朝。
リビングでイチゴ練乳を食べていたところ、部屋を掃除しているお母さんに頼まれて、庭で育てている花たちへ水やりをすることになりました。
百円ショップで購入していたシンプルなサンダルを履き、私は蒸し暑く、太陽がギラギラと輝きすぎている外に出ました。
物置小屋からメカゾウさんジョウロを取り出し、水栓柱から水をくんでいると。
「ニャー」
家の駐車場からポンちゃんが現れたのです。
「あれ? なんで私の家が分かったの?」
花に水をやりながら、私はそう言いました。
ポンちゃんは、私がすべての花に水をまき終えるまでずっと、スフィンクスのような姿勢でウッドデッキの上に座っていました。
私はゾウさんジョウロを元の場所へ戻し、ポンちゃんの隣に座りました。
「勝手に家から抜け出してきちゃったのー?」
私はポンちゃんの胴体を手でガッチリ固定し、空高く持ち上げました。
パラ……
と、私の目の中に何かが入りました。
最初はポンちゃんの毛でも目に入ったのかな? と思ったのですが、それは違いました。
「は……?」
砂です。
ポンちゃんの体の一部が、砂状になって崩れ落ちてしまったのです。
風が吹くと、ポンちゃんの体の一部だった砂が舞い上がってしまいました。
「ニャー」
ポンちゃんの甘い鳴き声で意識を取り戻した私は、一度まばたきをしました。
目の先には、砂状になっておらず、体も崩れていない。
至って普通のポンちゃんが、私の手の中に収まっていました。
(あ、あぁ……よかった……)
(この暑さでやられちゃったのかな……)
たった今見た光景は何だったのかと考えていると、昨日の出来事が頭の中を駆け巡ったのです。
『それで手元に残るのは、後悔だけ。後悔っていうのは、死ぬ間際になってもつきまとってくるやっかいなものさ』
『お嬢さん、私は、お嬢さんが進むべき道を照らせたかい……?』
『お嬢さんさえ良ければ、私を心の片隅にでも置いといてくれないかい?』
『きっとあの人も喜んでいるだろうねぇ……』
『これで、私の役割も終わりさね』
(心の片隅に……)
(これで終わりって……)
(その言い方だと、この世から消えてなくなるみたいな……)
言葉の意味を理解した瞬間、私の元に悔恨の念が押し寄せたのです。
(バカだバカだバカだバカだ!)
(浮かれてる場合じゃなかったんだ!)
(なんでもっと早く気づかなかった!)
身を小刻みに震わせていると、ポンちゃんは手の中から力任せに脱出し、そのままトンネルがある方向へ駆けていったのです。
「お……」
「おかーさん! きがえ!」
その姿を見た私は、ドアを乱暴に開け、サンダルを脱ぎ捨てながら叫びました。
「え? どうしたの? 何かあった?」
お母さんは驚いた様子で掃除機を止めると、私に聞き返しました。
「行かなきゃいけない場所があるの!」
「わ、分かったわ」
お母さんはそう言うと、色の組み合わせを考慮することなく、クローゼットの中から急いで洋服とズボンを引っ張り出しました。
「ありがと! すぐに帰ってくるから!」
私は手渡された洋服に着替え、スマホや財布なども持たずに家を飛び出しました。
─────────────────────
私は走りました。
無我夢中で走りました。
信号機は上の部分で点灯していたのですが、『どうせ車なんて通らないから』ということを理由にして、私は信号を無視してそのまま走り続けました。
長い坂を駆け上り、私はようやっとトンネルの入り口にたどり着いたのです。
不思議なことに、昨日と違ってトンネル内は暗闇ではなく、すでに出口の先の景色が見えていました。
トンネルを走り抜けましたが、それでも私は足を止めません。
空には分厚い灰色の雲が立ち込めていました。
大地に生い茂っていた高木は枯れ果て、花々は無惨に散り、小さな命が死に絶える。
ここは、生命を否定する死の森──。
走り続けていると、昨日の一軒家が見えてきました。
「あ、あ……うそ……そんな、そんな……」
しかし、それはもう『家』などと呼べるものではありませんでした。
廃屋。
そこにあったのは、廃屋だったのです。
壁は黒く薄汚れている部分もあれば、崩れ落ちている箇所もありました。
屋根はツタ性の植物で覆われ、庭は背の高い雑草で荒れ放題でした。
雑草を手でかき分けながら、私は家──廃屋に近づきました。
そっと扉を開けてみると、内部はさらに荒れていました。
廊下や壁の至る所に大きな穴が空いており、そこらじゅうに虫の死骸が転がっていました。
靴を脱いで歩くのはかなり危険だと判断したので、私は靴を履いたまま家に上がりました。
まるで三、四十年間。
いえ、私が生まれる前からずっと放置されていたのでしょうか。
たった一歩できれいな足跡が残るくらい、たった一息で視界が白くボヤけるくらい、家中がホコリまみれだったのです。
廊下を通り抜けることに成功し、私はリビングに入りました。
テーブルやソファはひっくり返っており、食器棚付近には皿やカップの破片が散乱し、ビリビリに破れた本が床一面に散らばっていました。
「そんなわけ……ないよ……」
「だって昨日……確かにここで……」
わけも分からず、私はリビング内をさまよいました。
何か残っていないか。
何か残されているものはないのか。
そう思いながらリビング内を当てもなく探し回っていると、昨日私が使った円形テーブルの上に、一枚の手紙と一本のバラが置かれていることに気がつきました。
私は手紙を手に取り、そこにつづられていた文章へ目を向けました。
『大丈夫。お嬢さんだったら必ずできる。
これは年寄りの勘なんかじゃないよ?
間違いなく、お嬢さんの目には確かな光が宿っていた。
これから先、お嬢さんはその目でたくさんの景色を見ていくことになる。
その景色が美しいものなのか、醜いものなのかは、私にはわからない。
だから私は、お嬢さんが見る景色を見届けたい。
近くで見守りたいと思ったんだ。
お嬢さんの目標があと少しで達成されそうという時、誰かにそのバラの色を聞いてみるといい。
それが、お嬢さんの未来。
導になるはずだから』
手紙には、丸みを帯びたやわらかい字体でそう書かれていました。
手紙の裏を見てみると、右下に小さくSophiaと書かれていました。
きっとこれが、おばあさんの名前なのでしょう。
最初から文章を読み直していると、前から鳴き声が聞こえました。
視線を上げると、ひっくり返ったソファの上にポンちゃんが座っていました。
「……ねぇ、ポンちゃん」
「ポンちゃんって、ずっとひとりだったの……?」
そう尋ねても、ポンちゃんはしっぽを左右に揺らすだけでした。
ひょっとしたら、私がこの目で見ていた光景は、寂しい者同士が作り上げた一種の幻だったのかもしれません。
「ポンちゃんは、行くところがあるの?」
鳴くこともなく、しっぽを左右に揺らしました。
「ねぇ、ずっとひとりだと、寂しいよね?」
「だったらさ、私の家に来ない?」
私がそう言うと、ポンちゃんは三角の耳をピクッ、と動かしました。
「私と、お母さんと、ポンちゃん」
「みんなで一緒に暮らさない?」
そう言って手を出すと、ポンちゃんはソファから降り、私の足元で止まりました。
ポンちゃんは鳴くと、自身の体にこびりついた悲しさや寂しさを削ぎ落とすように、何度も、何度も、私の手のひらに頭や胴体をこすりつけました。
「……そか!」
「じゃ、行こうか!」
手紙とバラをポケットにしまった私は、ポンちゃんを抱き上げました。
「……ありがとうございました」
感謝の言葉を部屋に残し、私たちは廃屋から立ち去りました。
─────────────────────
その日の夜。
目を覚ますと、私はまた、薄暗い空間の中で仰向けになっていました。
薄暗いことには変わりありませんが、前に来た時と比べると、ほんの少しだけ明るくなっているような気がしました。
「おかえり、サラ」
私が立ち上がったタイミングで、『なにか』が声をかけました。
「た、ただいま……」
私はそう言い、『なにか』へ近づきました。
「あれ?」
『なにか』の左足首へ視線をやると、鎖が外れていたのです。
「誰かに外してもらったの?」
そう尋ねると、『なにか』は自身の左足を見ながら「だれか? なにをいっているの? はずしてくれたのはあなたじゃない」と言いました。
「……私?」
そう言われたのですが、私にはまったく心当たりがなかったのです。
「うん」
「いまはわからなくても、いつかわかるから」
「それよりも、なんだ」
そう言うと、『なにか』は人差し指をドアに向けました。
「きょうは、あいているはずだから」
「ほんと?」
聞くと、『なにか』はうなずきました。
「だから、みてきてほしい」
「オッケ……」
私はドアの前へ移動し、取っ手を下げてみました。
『なにか』が言っていた通り、ドアの鍵は外れていました。
警戒しながらドアを開けてみると、灰色の空間がどこまでも広がっていました。
空間の中央には、薄っぺらい長方形の物体が一つ。
ですが、見たところ、その物体以外は何も見当たりません。
私はドアを閉め、長方形の物体が何なのかを知るために部屋の中央へ向かいました。
コツン、コツン、と靴音だけがどこまでも響く、あまりにも静かすぎて不気味な空間。
『なにか』はこの空間にとても執着しているようでしたが、私にはその意味がよく分かりません。
「……なんでこんなところにベッド?」
中央にあった長方形の物体、それはまさかのベッドでした。
このベッドがどうかしたのかな? と思い、シーツをどかしてみたのですが、特に何もありませんでした。
一応ベッドの下ものぞいてみたのですが、当然、何もありません。
こんな場所に長居する必要もないかな、と思ったので、とりあえず私は『なにか』が待つ薄暗い空間へ戻りました。
「どうだった?」
「いや、ベッドが一台あっただけで、それ以外には何もなかったよ?」
「……なるほどね」
そう言うと、『なにか』は黒い大地を見つめました。
「まだ、たりないんだ……」
「……でも、これでいい。これでいいんだ」
「すこしずつだけど、たしかにすすんでいるから」
「あせるひつようはない。ゆっくり、ゆっくりでいいからね」
『なにか』がそう言うと、薄暗い空間が大きく揺れ出しました。
「きょうは、これでおしまいみたいだね」
「サラ、おねがい」
「とにかく、とまらずにすすみつづけて」
「みんなのために」
「そして、わたしのためにも」
「それじゃあ、いってらっしゃい」
そうして薄暗い空間はひび割れ、真っ白い世界の中に私は落ちたのです。
先に進むことは、とても怖いこと。
進んだ先は、闇が広がっているだけかもしれない。
それでも。
それでも、私は見てみたい。
どんなに醜くてもいい。
どんなに悲しくてもいい。
私は、このモノクロームだけに満ちた世界の先を歩みたいから──。
─────────────────────
Você está bem.
Eu ainda sou 'normal'.