過去の痕跡
靴音を鳴らしながらベッドへ近づくと、お父さんは振り返ることなく「……おかえり。今日はサラにとって、大きな変化があったみたいだね」と言いました。
お父さんの隣に腰掛けた私は、「今日、私が見たモノなんだけどさ……」とオブラートに包むことなく問題を投げかけました。
首を横に振ると、お父さんは「いいんだ。最後まで言わなくても」と言い、手のひらで心臓のあたりを示しながら「今日起こった出来事は、ぜんぶ、ここから見ていたからさ」と続けました。
「今日は、僕にとっても新しい発見の一日だったよ」
「ここからお友だちの姿を見ていて、気がついたことがある」というと、お父さんは私と目を合わせながら言いました。
「もしかしたら、みんな気づいているのかもしれない。サラの首にある傷に」と。
みんな気づいてるだなんて、いくらなんでもそれはありえません。
何十年と続いている私の過去の経験が、その事実を物語っているのです。
なので、私はすぐに「いや、それはないよ。だって、みんな見えないって答えるしさ?」と否定しました。
するとお父さんは、私が導き出した解を否定するように自説を唱えました。
「みんな、恐怖で本来見えるべきものが見えていないだけかもしれない」
「自分の存在を守ることで、みんな頭がいっぱいいっぱい。だから、目の前に大きなソレがあっても気づけない」
「人間っていうのはね、自分の弱点を知られないように、誰かからの視線におびえながら生活しているものなんだ」
「それは、この世界で生きている人たち全員に当てはまることさ」
「…………だけど」
「だけどサラは、少しだけ違う」
「自分の弱点を、自分の口から正直に語ることができる」
「それはつまり、完全とまではいかないが、自分の弱さをある程度まで受け入れることができた、ということだ」
「半分を認めて、半分を諦めることができた今だからこそ、サラにも伝えていいかな、って思ったんだ」
「今まで隠してきた、本当の僕の姿を……さ」と。
あの日とは違う、勇ましい覚悟と狂気に満ち満ちた声──。
そんなお父さんの顔を横からのぞき見ることに恐怖を感じたので、過去の発言を反省した私は、視線を前に向けたまま「お父さんに隠し事なんてあるの……?」と問いました。
私の問いに対して、お父さんは「そりゃあるさ。それも、数えきれないほどに……ね……」と素直に答えたのですが、その際、私が過去に放ってしまった発言を許すまいと、直接肌で感じ取れるほどのオーラ──支配のオーラを私の周りに振りまきました。
「サラ、この部屋を出たら正面を見てごらん? そこに新しい世界があるはずだから」
黙って立ち上がった私は、ドアノブを強めに引き、逃げ去るように『なにか』がいる真っ白い世界へ転がり込みました。
「う……うぅ……」
息苦しさを覚えながら視線を斜め下へやると、体育座りの姿勢で『なにか』がうずくまっていました。
私は『なにか』のもとへ急いで駆け寄り、ドロドロとしている背中をさすりながら「どうしたの? 大丈夫?」も声をかけました。
『なにか』は顔を上げると、鼻声で「い、いや……なんでもない……」と返事をしました。
「いや、何でもないっていうことはないでしょう……? だってあなた、
その証拠に、『なにか』の結膜は血管の拡張によって黒く変化しており、まぶたの周囲がむくんでいました。
「やっぱり、私がいない間に何かあったんじゃ……」
すると『なにか』は、「……ちがうよ」と一言。
続けて、「ほんとうに、なにもないんだ。それに、これっぽっちもかなしくなんてない」と言いました。
「ぎゃくだよ。わたしはね……? うれしいんだよ……」
「うれしいから、わたしはないているんだ……」
鼻をすすると、『なにか』は「……サラ、ありがとう。しんぱいかけちゃったね。でも、もうだいじょうぶだから」と言いました。
「わたしのことはゆうせんしなくていいよ。サラには、いくべきところがあるでしょう?」というと、『なにか』はのたりと腕を上げ、私が向かうべき場所を示しました。
その先にあったのは、コンサート会場などでよく見かける、黒色の大きな両開きのドアでした。
「…………うん」とつぶやいた私は『なにか』の背中から手を離し、正面にある両開きのドアへ向かいました。
取っ手に手をかけると、『なにか』が「だいじょうぶ。わたしはもうだいじょうぶだから。サラ、さきにすすんで」と叫んだので、私は迷いを晴らしてドアを押し開けました。
ドアを開いた先に広がっていたのは、映画館のホームでした。
そっとドアを閉め、興味本位でひとけのないホーム内を歩き回っていると、いきなり「あのー、お客さまー」と声をかけられました。
「あ、はい」と返事をして振り返った私は、思わず驚がくして「えっ!?」と叫び、声をどこまでも響かせてしまいました。
「お母さんっ!?」
私に声をかけたスタッフは、なんとお母さんだったのです。
ですが、お母さんにしては、とても若い。
身長的にも、声質的にも、私と同じくらい。
あるいは、私よりも歳が一つ上。
もしくは、一つ下といったところでしょうか。
しかし、お母さんだと思われる女性スタッフは「え、え……? 私がお母さん……ですか……?」と私の発言に対してとても困惑しているようでした。
ひょっとしたらマズいことを言っちゃったかもなぁ……と思った私は、「あ、いや、すみません。顔が似ているものでしたから、つい……」と謝罪し、わけも分からないこの状況を何とか切り抜けようとしました。
女性スタッフは、口に手を当てながらうふふっ、と笑うと、「そうでしたか。あと三分ほどで映画が上映いたしますので、会場へお急ぎくださいね」と言いました。
「映画……ですか? あの私、チケットとか持っていないんですけど……」と伝えると、女性スタッフは「いえ、大丈夫ですよ」と返しました。
「お客さまの分は、すでに受け取っておりますので。どうぞご入場ください」と笑顔で言うと、女性スタッフは入り口の方へ手のひらを向けました。
「え……? あ、はい。ありがとうございます……?」
頭の中で、すでに受け取っている、という言葉の意味を考えながらホワイエを歩き、この館内で一つだけしか存在しない縦長の上映会場に入りました。
「広すぎ多すぎ……」
会場内には、軽く千を超えるほどの座席がありました。
しかし、会場の中央列に誰かが一人座っているだけで、私とその人以外、席には誰も座っていませんでした。
こんな広い会場の中でポツンと観るのは寂しいなぁ、と思ったので、私は中央列に着いている人の近くに座ることにしました。
映画館特有の段差の低い階段をひたすら上っていると、席に座っている人から異国語、それもフランス語で声をかけられました。
「Bonsoir miss(こんばんは、お嬢さん)」
「あれ!? ソフィアさんじゃないですか! こんばんは!」
中央列に座っていたのは、私に手紙だけを残して姿を消してしまった、ソフィアさんでした。
「久しぶりだねぇ。元気にしてたかい?」
「はい! すんごく元気です!」と答え、私はソフィアさんの隣の座席に座りました。
「そうかいそうかい。それはよかったよ。ところでお嬢さん、あれから調子はどうだい?」
「この長期休みの間に、友だちと油絵を描くことになりました。それで今、その子と一緒に絵の完成を目指しているところです」
つい最近に起きた出来事を伝えると、ソフィアさんは笑顔で「そうかい。あれからがんばっているんだねぇ」と言いました。
「あ、あはは。まだまだ助けられっぱなしですけどね。えっと、それで話を変えちゃうようで申し訳ないんですけど、一ついいですか?」
「もちろん」
「さっきスタッフの人に、チケットはもう受け取っているから大丈夫、って言われたんですよ」
「どういうことかな? って思ってたんですけど、私の分のチケットを用意してくれたのは、ソフィアさんだったんですね」
「えぇ、そうよ」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「……それで、これからなんの映画が始まるんでしょうか?」
すると、ソフィアさんは答えました。
「それはね、人の一生」
「人生そのものさ」と。
(人生の映画……? そんな映画なんて聞いたことないし、受け付けのところにあった上映スケジュールにも人生なんて書かれていなかったしなぁ……)
その辺りがどうなっているのかは分からないので、とりあえず私は「人生……ですか。なるほど……」と返しておきました。
すると突然、先付け予告もなしに開演ブザーが鳴り響き、会場の電気が落とされました。
スクリーンに紙芝居風の映像が映ると、女性ナレーションが物語を語り始めました。




