欲張り
新しい週が始まり、月曜日の朝が訪れました。
キャンバスの前に立った私は、心の奥で繰り返し「お父さんの絵をずっと近くで観てきたんだから、きっと大丈夫」と唱えました。
「大丈夫」
その言葉が口から零れるたびに、お父さんがそばで見守ってくれているかのような安心感が心に広がるのでした。
私は、ピースの配置がメモされているノートを膝上に開き、ケースから油絵の具を取り出しました。
左手にパレットを添え、油絵の具を乗せたその瞬間、懐かしい香りが鼻をくすぐりました。
その香りは、お父さんが私に教えてくれた感覚を呼び覚ますようでした。
赤色は、まるで心臓の鼓動のように熱く燃え盛る情熱を象徴し、私の内なる情熱が色彩の世界へと広がっていく様子を映し出していました。
青色は、まるで深い海の底から響くような静寂と謎めいた美しさを象徴し、私の心を穏やかな静寂へと誘われるのでした。
黄色は、まるで太陽の暖かな光が全身を包み込むかのように、私の心を優しく満たしていくのでした。
いつの間にか私は、不思議と『それぞれの色が持つ独自の風景』が見えるようになっていました。
それは、お父さんの影響なのかは分かりませんが、私の頭が、意識が、普通の人とはまったく違った視点や捉え方、感性を与えるのです。
私は筆の先に油絵の具をつけ、キャンバスに触れました。
油絵の具がキャンバスに吸い込まれる音色が、まるで私の心が新しい世界へと誘われるかのように響くのでした。
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「サラ、ちょっとヘンなこと聞いてもいい?」
目以外の部分を塗っている最中、隣に座っていたナツがいきなり踏み込んできました。
「うん。どうしたの?」
私はそう答えながらも、手を止めずに自分の中にある意識のピースを女性に与え続けました。
「サラってさ、本当に、色が見えないの?」
ナツの問いかけが部屋に静穏をもたらし、油絵の具の香りを一瞬で薄れさせるのでした。
私は思わず手を止め、ナツを見つめました。
彼女の眉間にはシワが寄っており、微かな不安で口元をゆがめていました。
私自身、戸惑いを感じながらも言葉を返しました。
「え……? あ……? あ、うん。でも、いきなりなんで?」
「……いや、あまりにもスゴイからさ」
「これは、普通の人なんかには絶対に描けない」
「なんかね、うまく言葉に起こせないんだけど……」
ナツはしばらく考え込んだ後、こう続けました。
「伝わってくるんだよね。サラが体験してる世界ってのがさ」
その言葉に、私は確信を得ました。
人は捉え方や考え方次第で、自分で決めつけていた不可能さえも超越することができる。
やはり、私の直感は正しかった。
しかし、喜びに満ちている私とは対照的に、ナツの表情はどこか複雑で、深いため息をつくのでした。
「…………だからね」
「私の役割は、これでおしまいかな」
ナツの声は、悪い意味で、決意に満ちてしまっていたのです。
「──え?」
ナツの言葉について、私は頭が追いつきませんでした。
ナツはバッグを肩にかけると、静かに扉へ向かおうとしました。
何かを隠しているのは間違いないのですが、とても追求できるような雰囲気ではありません。
「え、ちょ、ちょっと、待ってよ!」
私は叫びながら、去ろうとするナツの右手をつかまえました。
いつも太陽のように明るいナツとは正反対の、冷たくなってしまった右手の感触──。
ナツは、前を向いたまま私の左手を強く握り返し、「ねぇサラ、もう一つだけ聞いてもいい?」と言いました。
私は視線を床に落とし、心の奥から込み上げてきた闇の感情を隠しながら、小さな声で「……うん」とだけ答えました。
「初めて私の絵を見たとき、どう思った?」
自分の心に問いかけられ、私はためらいながらも言葉を探しました。
「どうって……」
「すごくキレイだなって……」
「────違う」
「違うよね?」
「ウソ、だよね?」
「ねぇ」
「本当のこと、言ってよ」
私の心は揺れ動き、言葉が喉につかえました。
本当のことを言ってもいいのか、私には分からなかったのです。
本当のことを言った後、何が起こるのか。
ナツの気分を害してしまうのではないか。
しかし、親友であるならば、時に真実を告げることも必要なのではないのか。
悩んだ末、私は「ちょっと、怖かった……かな……」と真実を答えたのです。
すると、ナツは間髪入れずに「そう。それが、正しい反応だよ」と言いました。
「サラ、前に言ったでしょ?」
「『絵を通して、未来への希望を見る』って」
「大丈夫。それは素晴らしいことよ」
私を安心させているつもりなのかもしれませんが、ただ不安を増幅させる一方でした。
「……でもね?」
「私が絵を描く理由は、ただのストレス発散でしかないの……」
「そこには、何もない。何も見えない……」
「希望も、未来も……」
彼女の声は、どうしようもなく、震えていました。
「私たちって根本的に、目指しているものが違うんだよね……」
「だから……ごめん……」
「待って! 夏月!」
私の叫びが届く前に、ナツは静かに手を振り払い、部室を後にしました。
彼女が去り行く姿を見送りながら、私は深い孤独感に包まれました。
ナツの言葉が、私が予想していた恐怖と共鳴してしまったのです。
闇の中で、私の不安が波紋となって静かに広がっていく────。
そして、私の思考はそこで停止してしまった。
何かが違うという感覚が私を支配し、内なる声が私にささやいて……。
……。
…………違う。
うすうす、こうなるだろうなとは思っていたんだ……。
でも、どうすればよかったんだろう……?
どうすれば、この状況を回避することができた……?
本当に、これでよかったのか……?
どれだけ問いかけても、何も返ってこない……。
『お、おぉ! そうか! そうなのか! じゃあ私たちはこれから運命共同体だな! うん!』
だって、そう言って私の背中を押してくれたのは夏月じゃない……。
その日の活動が終わった後も、私の心は迷いと不安に満ちたままなのでした──。
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あなたは、優しさと欲望に溺れすぎている。
だから、壊れてしまうんだ────。




