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モノクロームに愛された者たちへ  作者: ヤナギ ショーキ
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記憶の欠片

 日付は変わり、土曜日の朝。


 朝日の暖かな光と輝きが窓から差し込む中、私はゆっくりと眠りから目を覚ましました。


 それと同時に、心の奥底に漂う不安が私を包み込みました。


 目窓の外で踊る明るい陽光とは裏腹に、私の心は灰色の霧に覆われたままなのでした。


 部屋の中央には、未完成のキャンバスが立てかけられています。


 ベッドから起き上がり、勉強椅子に腰を下ろした私は、キャンバスをじっと見つめました。


 しかし、時間がゆっくりと流れていくだけで、壁掛け時計の針の音がはるか遠くから聞こえてくるだけでした。


 心は水源を失った湖のようで、虚無感だけが頭をもたげるのでした。


 どんな色を使うべきなのか、そんなことさえも検討がつきません。


 キャンバスを前にしても、ただ無感動に見つめるばかりで、心の中には何も湧き上がりません。


 起きてから一時間、私は黒線のキャンバスを無心に眺め続けるだけでした。


(勢いで描いてみたいって言ったけど、本当にできるのかな……)


(前の私って、何を根拠にそんなこと言ったのかな……)


 私の中では不安と焦りが入り交じっており、ある種の極限状態に陥っていたのです。


 どうにもならない私は、無意識のうちに立ち上がり、まるで不安から逃れるかのように、クローゼットの扉を開けました。


 何か、何か、やすらぎを得られるものはないのだろうか。


 数ある宝石の中、結果として手に取ったのは、幼稚園の卒園アルバムと、小、中学校の卒業アルバムでした。


 なぜアルバムを手に取ったのか、正直、自分でも分かりません。


 かといって、そこまで深い意味を持つ宝石を手に取るつもりもありませんでした。


 手に取った理由を無理やりつけるのであれば、それは、どの宝石よりも、過去の記録や年月を刻んでいたから、なのかもしれません。


 ベッドの上に飛び込み、まずは卒園アルバムのページをめくりました。


(……あれ? 昔の私って、今とそんなに変わらない?)


 私は、過去の自分に対して自問しました。


 このなんとも疲れきったような表情が、今の私とあまりにも似ていたのです。


 気になって小、中の卒業アルバムも開いてみました。


 笑顔で写っているのですが、その裏には未来への不安や孤独が隠れているように感じました。


 昔の自分を今の自分と比べて、ほんの少し、表情から何かが無くなっていたのです。


 うまく表現できませんが、もしかしたらそれは、『幼さゆえの純粋さ』なのかもしれません。


 それぞれのアルバムのページをめくると、そこには将来の夢が書かれていました。


 警察官、消防士、医者、パティシエ、モデル。


 それぞれの夢が並ぶ中で、私の夢はというと、どのアルバムでも一貫して「誰かを笑顔にする」と書かれていました。


 その夢は、今でも私の中で生き続けています。


 その夢が、私を前進させる力になっているのも事実です。


 事実なのですが…………。


 ……。


 ……現実とは非情なものです。


 現実は、こうも簡単に理想を打ち砕いてくるのですから。


 ……。


 もう少しだけ、夢の中で生きたかったなぁ……。


 …………。


 ……夢を追う難しさを思うと、どうも心が重くなります。


 深くため息をついた私は、もう一度キャンバスを眺めました。


 現実と夢の間で揺れる私の心情が、あの黒線に投影されているかのようでした。


 ─────────────────────


 その日のお昼。


 リビングは昼下がりの穏やかな光に包まれ、家具の間を微かな光がさりげなく舞っていました。


 窓から差し込む陽の温かさを感じながらリビングチェアに座った私は、お母さん手作りのたまごサンドイッチを一口かじり、遠い記憶を思い起こすために口を開きました。


「ねぇ、お母さん」


 キャットフードを食べているポンちゃんのあごをくすぐりながら、お母さんは「なぁに?」と穏やかな声で答えました。


 その目には、愛情と少しの憂いが宿っていました。


「昔の私ってさ、どんな感じだった?」


 私の声は、自分でも分かるくらいの震えがありました。


 それは、過去の記憶に触れる恐怖と興味深さが入り混じったようなものでした。


「そうねぇ……」


「サラはずっと、昔とそんなに変わらないわ」


 お母さんは目を細めながら、時をさかのぼるように答えました。


 その瞬間、部屋の空気が変わりました。


 それは、過去の日々が再びよみがえったかのようでした。


「物静かで、礼儀正しく、人の気持ちを考えられる子だったわ」


「ふぅん……」


 その情報をもとに、私は、子どもの頃の自分がどんな人間だったのかを思い浮かべました。


「…………でも」


「ひとつだけ、昔と違うところがあるの」


 お母さんの声が、過去の深い霧を抜けて聞こえてきました。


 しかし、その変化を振り返ることは、お母さんにとって苦痛なのではないか? 私は思いました。


「ここよ」


 そう言って私の側に近寄ると、お母さんは、私の頬をつまみました。


 手の温かさ、そして、その瞬間の優しさが伝わってくるのでした。


「ははは、ふぁにするのぉ」


「ほら、今もそう」


「心の底から笑えるようになったのよ」


 頬から手を離すと、お母さんは遠い声で「眼科で言われたこと、覚えてる?」と投げかけました。


「……うん」


「そのことは、今でも覚えてる」


 私は無意識に、過去の記憶に触れました。


 その記憶は、私の心の奥深くに刻まれており、触れるたびに、痛みとともに現実を思い出させるのです。


『サラさんは、色が見えません』


『残念ですが、この先も色が見えるようになることはありません』


 そう。


 私が呪われた、あの日のことを。


 瞬間、治りかけていた首筋の傷がズキリと痛みました。


「あの日から、サラの笑顔は消えた」


「ずっと何かを考えているのか、何を思っているのか、私たちにはさっぱり分からなかった」


 お母さんの言葉で、心が重く沈む。


 それは、私の心に深く突き刺さり、その痛みを改めて思い出させるのでした。


 自分が変わってしまった事実、その変化が他人にも見えていることを、私は改めて認識しました。


「けどね? あの人の絵を観てから、サラは変わった」


 あの日、美術館でお父さんの絵を見たとき、確かに私の何かが変わった。


 それは、色のない私の目に、お父さんの絵が新たな光を灯し、失っていた希望を取り戻す瞬間だったのです。


「目に光が宿ったっていうの?」


「まるで、生きる意味を見つけたって感じだったわ」


 お母さんの言葉には慈しみと、わずかながらの哀しみが込められているようでした。


「……そっか」


 その言葉をどう受け止めていいのか分からず、私はただサンドイッチを食べ続けました。


 サンドイッチの味が、今までよりも一層深く感じられました。


  ─────────────────────


 その後もしばらくお母さんとの会話が続いたのですが、私の心は不穏な感情で高まっていく一方でした。


 自分の部屋に戻り、キャンバスの前に立った私は、心の動きに耳を傾けながら感情の波に身を委ねることにしました。


 深く息を吸い込んで静寂を享受した私は、目を閉じ、女性の顔を思い浮かべました。


 彼女の表情は、風に揺れる桜の花びらのようなはかなさであり、まるで夜空にちりばめられた星々のように、ひときわ美しい輝きを放つ──。


 黒線の質感は滑らかで、指先をなぞるたびに女性の顔の輪郭が私の感性の深さを物語っていました。


 私の精神は、彼女の優美な表情や動きから、複雑な思考に秘められた感情を垣間見たのです。


 あぁ……。


 あなたは、なんと美しい……。


 しかし、色の見えない私は、その美しさをどうのように表現すればいいのでしょうか……。


 自問自答を繰り返し続けた結果、過去に耳にした言葉が脳裏をよぎりました。


 まるで映画のシーンを観ているかのように、私の心の中に映し出されるのでした。


 ─────────────────────


「ねぇー、お父さん」


「なんだい?」


「なんでそこまで必死になって色なんて塗るの?」


「色を塗る理由かい? そうだねぇー……」


「……前に、キャンバスに描かれてる人たちはみんな生きているって言ったこと、覚えてる?」


「うん」


「……僕はね、その人たち専門のメイクさんなんだ」


「真理から聞いた話なんだけどね? メイクっていうのは、自分の気持ちが明るくなったり、元気が出たり、自信が湧いてくるらしいんだよ」


「僕は男だからその感覚ってあんまり分からないんだけど、それってすごくいいことだと思うんだよね」


「個性やスタイルを表現するために」


「より美しくあるために」


「僕は、描かれている人それぞれに一番似合う色を与えてあげるんだ」


「まぁ結局、女の人が持っているその感覚のまね事をしているだけに過ぎないんだけどね」


「ふーん……?」


「そうだね。今のサラにはまだちょっと難しいかもしれないね」


「もうちょっと大きくなったら、いずれ分かるようになるから」


 ─────────────────────


 しかし、メイクをしてあげるにしても、私には色が見えない。


 そうなれば、このハンデをどう補えばいいのか。


 この彩りのない世界で、どのように美しさを表現すれば良いのか。


 この問いに対する答えを見つけるため、私は内なる世界へ向かいました。


 そうして頭に浮かんだのは、問題の直接の解決策ではなく、過去の記憶のピースでした。


『私の中のピンク色はひだまり』


『人を優しく照らして導いてくれるようなやわらかい色ってところかな』


『オレンジ?』


『んー、元気がもらえる色……ってところかな』


 過去の声を思い返している内に、私はひらめきました。


 過去のピースをもとにして、対応した色をパズルのように組み合わせてあげることができるのではないか、と。


 私は、すぐにノートを開きました。


 顔の輪郭に沿ってどの色を当てはめるべきなのかを慎重に考え、ページに記憶のピースを丁寧に配置しました。


 感触、香り、そして人々の反応。


 私の脳内にあるすべて記憶と、視覚を除いた四覚を頼りにするのでした。


 右手が黒線に触れるたびに、私は現実の枠を超えて別世界に飛び込むような感覚を覚えました。


 色彩の奇跡が私の意識を引き寄せ、想像力の扉を開くかのようでした。

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