一日
教室内に設置されているスピーカーから、今日の学校生活の終わりを告げるチャイム音が鳴り響きました。
「起立」
「礼」
私は日直の号令に合わせて椅子から立ち上がり、上半身を斜め前へ傾けながら帰りのあいさつをしました。
「ありがとうございましたー」
高校生活二年目の七月中旬。
ようやく、ようやく、負の一大ビッグイベントである期末テストが終わりました。
あまりにも面倒くさくて、やたら長くて、ただ疲れるだけ。
実施する価値もない無意味な戦いでした。
貴重な時間を取り戻すため、私は冬眠から目覚めたばかりの動物のように、ゆったりと活動を再開しました。
「はぁー……つっかれたぁー……」
テスト終わりでクラス内がにぎやかしくなっている中、私は蓄積していた疲労を天井にめがけて吐き出しました。
大きくあくびをすると同時に両手を下へ落とし、全身の力を一気に抜きました。
ダランとした体勢のまま、私は黒板の上にかかっているデジタル時計を流れるように確認しました。
現在の時刻は、午前十一時三十八分。
帰りのショートホームルームが終わってから、すでに二分も経過していました。
(とりあえず今日はもうこれで授業はないし、特に用事とかもあるわけじゃないから、サッサと家に帰っちゃおうかな……)
そう思った矢先のことでした。
「サラー……もうつかれたよーん……」
私の一つ前の席に座っている『ナツ』こと『赤原 夏月』が、ナヨナヨとした声で私を呼んだのです。
テスト終了直後ということもあり、ナツは普段以上にのたりとしたペースで椅子から立ち上がりました。
そのままどこへ行くのかと思えば、ナツは両手両足をバタつかせながら私の右隣にやってきました。
しばらく私の真横でボーっと立ち尽くしていると、ナツは一度、大きなため息をつきました。
そしてナツは、スカートの丈がゴミやホコリで汚れてしまうことを気にするそぶりもなく、床にへたり込みました。
私は、ナツの顔を見ながら「おつかれさま」と言いました。
こめかみを人差し指で押さえると、ナツは「おつかれー……。パッと見た感じだと、サラはまだまだ元気そうだね……。私なんて、疲れて頭が爆発しちゃいそうよー……」と言いました。
ナツの大げさ動きと、その動きに連動して出てくる言葉につられ、私は思わずクスリと笑いました。
「そっかそっか! んー、でも私は疲れってよりも、この暑さでどうにかなっちゃいそうかなぁ」
私はそう言い、再びデジタル時計へ視線を向けました。
時計の右下に小さく表示されている数値によれば、気温が三十二度。
湿度が六十七パーセントとなっていました。
昨日の夜に降った大雨の影響もあり、今日は早朝から現在に至るまで、直接肌にまとわりつくようなヌメヌメとした蒸し暑さが続いています。
この蒸し暑さのせいで、私だけでなくナツも、他のクラスメイトも、全身から湧き出る大量の汗によって制服をビショビショにぬらしている状態です。
今すぐこの蒸し暑さから解放されたい。
こんなにも簡単な問題は、クラス全体に冷気を送り出せるクーラーを使えば、一発で解決することでしょう。
────しかし。
しかし、です。
恐ろしいことに、この学校には職員室、応接室、校長室にしかクーラーが設置されていないのです。
そのため私たち学生は、教室の前後に設置されている業務用の大型扇風機を使って、なんとかこの蒸し暑さの中で生活するしか方法がないのです。
それもそのはず、私が通っている『静岡県立馨杉高校』は、世間一般的に言われる過疎校というヤツだからです。
山々と小川に囲まれたこの学校は、一年生から三年生までの全生徒を合わせても、人数はわずか五〇人程度。
あまりにも生徒数が少ないので、受ける科目によっては二人。
先生一人と生徒一人で、めでたくマンツーマン授業ということもザラです。
もしかしたら、こんな『超』がついてしまうような過疎校に心からクーラーの設置を求めている私たちの方がおかしいのかもしれません。
毎年この時期になってくると、クーラーの設置を諦めきれない屈強な体育会系の男子たちが「クーラーがほしいー!」と騒ぎを起こすのですが、高校生活二年目にもなってくると、もうそのような光景にも見飽きてきます。
「ねぇナツ、ここら辺で涼める場所とかなかったっけ?」
私がそう聞くと、ナツは胸の前で腕を組みながら「涼める場所かぁ。そうだねぇ……」と言いました。
あぐらをかいたまましばらく同じ体勢で悩んでいると、突然。
「あ」
「あったわ」
「あそこなんていいかもしれない!」
ナツは、私の顔を見ながら笑顔でそう言いました。
パチンと指を鳴らすと、ナツは素早く立ち上がり、自身の席へ戻っていきました。
机の横に引っかかっているスクールバッグへ手を突っ込むと、ゴソゴソと内部をよくかき荒らし、背面がアニメキャラクターのシールでデコレーションされているスマホを取り出しました。
それからしばらくの間高速で親指を動かしていると、ナツは一度指を止めて「じゃあさ、最近話題になってるこのお店、一緒に行ってみない? ここなんだけどさ!」とハキハキした声で言い、私の目の前にスマホを突きつけました。
ナツのスマホを手に取って画面を見ると、先週、先々週くらい前にオープンしたばかりのアイスクリーム専門店、『GRAND・ICECREAM』の名前がありました。
これは偶然、学校のどこかで聞いた話なのですが、オープン初日の店外には、一〇〇人をこえる長蛇の列ができていたそうです。
「あー、なんか聞いたことあるよ。確かー……サイズが桁違いとかでめっちゃ人気のお店なんだよね?」
私がそう尋ねると、ナツは勢いよく首を縦に振りながら「そうなの! そうなの! 最近テレビとかでもバンバン紹介されてるのよこのお店!」と言いました。
「…………だ・か・ら・さぁ……?」
するとナツは、意味ありげな様子で発言を止め、ニヤリと笑いました。
なぜ発言を止めてニヤリと笑ったのか、大体の予想はつくのですが、私はあえて最後まで聞いてみることにしました。
「……だから?」
「いこ! 今から! 今すぐに!」
大当たりです。
「アイスかー。んー、別に問題ないんだけどさ、ほら、今からそのお店に行くってなると結構混んでたりするんじゃない?」
そう疑問を投げつけてみたのですが、ナツはそれを弾き飛ばすかのようにワッハッハー! と笑い飛ばしてみせました。
「ま、大丈夫でしょ! 今日はこれで帰れるし、それに平日だからさ! たぶん人は少ないはずだから、これは行くしかないでしょー!」
自信満々の様子でナツは言いました。
(むー……ホントはおなかの中まで冷やすつもりはなかったんだけど……最初に話振ったのは私だからな……)
(でもアイスなんてここしばらく食べてないし、久しぶりに食べてみたいかも……)
そう考えた私は、『たぶん』という単語に若干の違和感を覚えつつも「……そうね」と返しました。
「そ、れ、に! 例のアレがあるしさ!」
「アレ?」
「ちょいとお待ちをー……」
そう言うと、ナツはスマホを手元に戻し、再び親指を高速で動かしました。
「あ、これこれ!」とナツが叫ぶと、私の目の前にまたスマホを突きつけました。
画面をのぞいてみると、そこにはカットフルーツやランド・グ・シャなどがふんだんに盛りつけられているアイスクリームの写真が映っていました。
私は、その豪華すぎるアイスクリームを指さしながら「へー! おいしそ! これなんてやつなの?」と尋ねました。
「スペシャルイチゴデラックスって言ってね、このお店で一番人気のヤツなのよ!」
イチゴ。
そのキーワードを拾い上げた私の耳は、猫のようにピクリと反応しました。
「イチゴ? いいね!」
「どうどう? サラさんも食べてみたくなってきたんじゃないですかねぇ?」
そう言うと、ナツはキラキラと瞳を輝かせながら私の顔に迫ってきました。
「んー……まぁね……」
少し距離を取ろうと思った私は、身を椅子ごと後ろへ引き、はなれた場所からナツの顔を見直しました。
太陽のように輝く笑顔。
今日のナツも眩しすぎる。
私から遠くかけ離れた存在。
そして何よりも、ナツは私と違って見えている。
私とは違う世界で生きている──。
「違う……違う……大丈夫……落ち着いて……」
臆病な考えを払い除けた私は、左首筋を押さえつけました。
そっと手のひらを確認したところ、そこに黒い液体は一滴もついていませんでした。
「おーい? サラー?」
ホッと一安心していると、ナツから私が生きているかどうかを確認する合図が送られてきました。
なので私は、笑いながら「……あ、あぁ、ゴメン。ちょっとボーっとしてただけだから」と言いました。
「…………」
「なんか、悩みごと?」
ナツは、首を横に曲げながらそう言いました。
完全に、というわけではありませんが、私が考えたその場しのぎのウソは簡単に見破られてしまったのです。
ナツは、妙なところで勘が鋭いのです。
そしてこんな時に、私は思ってしまうのです。
ひょっとしたら、ナツの体内には、何か人の負のオーラを感じ取れるアンテナのようなものが仕込まれているんじゃないのか? と。
「いや、そんなことはないから。大丈夫だよ」
首を大きく横に振りながら、私はそう答えました。
「そう? それだったらいいんだけどさ!」
「んじゃ、話は変わるんですけど!」
ナツはそう言うと、いったん話をリセットさせるためにパン! と手をたたきました。
「どうします? 行っときますか?」
「うん。最近家でアイスとかも食べてなかったし、行ってみたい」
「はい、決まり!」
ナツは大げさにバンザイのポーズをしながら喜ぶと、バッグを肩にかけ、スカートのポケットにスマホを入れました。
「私はいつでも出発オーケーです!」
「わ、ちょっと待ってよ」
ウキウキ状態であるナツをあまり長い時間待たせるわけにはいかないので、私はロッカーの中から教科書と問題集を素早く抜き取り、バッグの中へ詰めました。
ズッシリと重くなったバッグを肩にかけながら、私は「私も準備オッケー」と言いました。
「じゃ、行きましょーう!」
冷たい人気メニューを求めて、私たちは胸を弾ませながら学校を飛び出しました。
─────────────────────
「ぐへぇぇ……」
「あっつ……」
勢いよく学校を飛び出してから、ほんの数分。
熱にやられた私たちは、通学用に舗装されたコンクリート道の上を、ノロノロ、ヨレヨレと歩いてます。
車から置き去りにされた排出ガス、鼓膜をつんざくセミのコーラス、身を焦がすほどの熱風。
二匹のミミズは、すでに悲鳴を上げています。
山々の陰から切り離されたこの世界は、まさにしゃくねつ地獄そのもの。
ギラギラと輝く真っ白い太陽が、二匹のミミズをめがけて無限に光を放ちます。
前髪は、額から滴る汗でボサボサ。
(これだったら、家からミニ扇風機を持ってくるべきだったなぁ……)
汗が目に入り、さっきから両目が痛がゆくてたまりません。
バッグからタオルを取り出して額と首元の汗を拭き取っていると、私の左隣を歩いていたナツが、「サラー、おんぶしてー……」とフニャフニャした声でそう要求し、両手を前に広げました。
それに対して私は、「私が後ろにひっくり返っちゃうからダメでーす」と言い、ナツの両手を下ろさせました。
「じゃあだっこで……」
懲りずにまた両手を前に広げました。
「私が前に倒れて、ナツを押しつぶしちゃうからダメでーす」
私も懲りずに、ナツの両手を下ろさせました。
「えー……」
「もーあるけない……」
そう言うと、ついにナツが灰の空を見上げて立ち止まってしまいました。
その姿はまるで、自分がほしいお菓子を買ってもらえず駄々をこねる子どものようです。
「むー。ほらほら、行きますよー」
私はそう言ってナツの左手をつかみ、なんとか前へ歩かせようとしました。
すると不意に、ナツが言ったのです。
「なんか、サラの手めっちゃ冷たいね。このままずっと握ってたいくらいよ」
「そうかな? 単純にナツの体温が高すぎるだけなんじゃない?」
私は、笑いながらそう言いました。
しかし、内心は怖かったのです。
手を握ると、あの日のことが鮮明によみがえる────。
ナツの右手は、私の左手をまるごと溶かしてしまいそうなほどに熱く、強烈なものでした。
しかし、そう感じるのは単に私の左手が凍りついているだけであって────。
……。
…………。
……いや、違うよ。
これは試練。
試練なんだよ。
そう、私の人生すべて。
一生をかけて乗りこえるべき障害物。
大丈夫、落ち着こう……。
「……サラ」
「……え?」
「どうかした?」
ナツの呼び声が、私を現実世界に戻してくれました。
「……なにが?」
「いや、なんか笑ってたからさ? いいことでもあったのかなーって」
おかしなことに、私はナツにそう言われて初めて、自身が笑っていることに気がついたのです。
なぜ私は笑っていたのか。
自分のことのに、自分でもさっぱり分からなかったのです。
そもそもこの笑顔は、私が無意識的に表したものなのでしょうか?
それとも、意図的に作り上げただけなのでしょうか?
「あれ、なんで笑ってるんだろ? なんか自分でもよくわかんないや」
ごまかすことを選択した私は、左首筋を押さえながら偽りの笑顔を浮かべました。
ナツは少しの間、私の顔を見てキョトンとしました。
するとナツは、わずかに開いていた口をキュッと結び、私の瞳をのぞきました。
ほんの一瞬の出来事だったのですが、ナツと目が合っている間、私以外、この世界のすべての動きがスローモーションに変化したのです。
この状況下で聞こえてくるのは、私の激しい息づかい、私の激しい心臓の鼓動、私の全身を駆け巡る血液。
この苦しさの理由を、私は知っていました。
それは、『恐怖』です。
瞳の奥をのぞかれることに対しての恐怖です。
こんな状況下なのに。
いえ、こんな状況下だからこそ、聞こえたのかもしれません。
奥底からの叫びが。
そして私は、私に言い聞かせました。
『大丈夫。何も怖いことはないよ』
『それは私が勘違いしているだけなんだよ』と。
心を落ち着かせた私は、スローモーションに変化してしまった世界を正すため、一度まぶたを閉じました。
左首筋からそっと手をはなして目を開けると、私は元の世界に帰ってきていました。
時間の流れも、少しずつ私のところへ帰ってきました。
「…………んまぁ、いいんじゃない?」
時間の流れが元通りになる前に、ナツは言いました。
「私だって、ちょっと前に起きたことを平気で忘れるし、なんなら、自分の行動の意味すら分からないときだってあるからさ」
「だから、私は別にいいと思うのよ。分かんなくたって」
「むしろ、分かんない方が人間っぽいっしょ!」
ナツは大きくスキップをしながら「それにしても、サラってばすんごい顔してたよ?」というと、私の進路上に立ちふさがりました。
「ほら、こんな感じでさぁ?」
そう言うと、ナツは人差し指を口角に押し当て、そのまま思いっきり真上へつり上げてみせました。
「く! ははは!」
その反則級のおもしろさに、私はおなかを押さえ、うそ偽りのない本物の笑顔を浮かべました。
「あー! 私そんな顔してないでしょ! 絶対盛ってるよソレ!」
「いーや! してたんだよねコレが!」
「それにほら、私ってモノマネに定評があったりするので!」
ナツはピストルポーズをしながら元気な声でそう言いました。
「いやいや! そんなこと初めて聞いたんだけど! それ本当なの?」
私がそう尋ねると、ナツは挙手をしながら「はいせんせー! たった今思いつきましたー!」と清々しく言い切ってみせました。
本当に自由奔放というか、天真らんまんというか。
ですが、いつも元気で明るい彼女と関わっていると、私はいつの間にか笑顔になっているのです。
私だけでなく、学校の先生だって、クラスの友だちだって、地域に住んでいるお年寄りだって、泣き叫ぶ赤ちゃんだって。
みんな、みんな、笑顔になるのです。
きっと、ナツには万人を笑顔にすることができる特別な力が宿っているのでしょう。
こんなちっぽけな私には存在しない、大きな、大きな、大きすぎる力が。
「うむ! 素直でよろしいこと!」
「ありがとーございます!」
ナツはそう言うと、後ろで束ねている髪の毛を前後に激しく振りながら何度も礼をしました。
上半身を伸ばすと、ナツは私の顔を見てニコッと笑いました。
「はいはい! そろそろ行きますよ!」
「はーい!」
そうして二匹のミミズは、路上で干からびてしまう前に歩きだしました。
─────────────────────
「あぁぁ! やばいぃぃい!」
「ま、待って……もうちょっとゆっくり走って……」
数分前の私たちに声を大にして言いたいです。
「そんなにのんびり歩いてて時間は大丈夫なの?」と。
さっきと立場は逆転して、「もう走れないから!」と嘆き散らす私の手をナツが強引に引っ張って、発車間際の電車になんとか飛び乗ろうとしている真っ最中です。
ナツに続いて定期券を改札機に押し当て、階段を駆け上がり、駅のホームに出ました。
「よいしょっと!」
「はひぃぃぃ……」
ナツこん身の全力疾走のおかげで、私は何とか電車に飛び乗ることができました。
この電車を逃してしまったら、次は十六分後。
十六分も待ち続けていたら、アイスが溶けるよりも先に私たちの体がドロドロに溶けていたでしょう。
「白凪行き、発車いたします」
空気圧の音とともにドアが閉まると、ガタガタと車内が揺れました。
ナツは、額の汗を腕で拭き取りながら「ふぃー、あぶなかったなー」と言いました。
危ない、とそう口で言いながらも、当の本人はやけにニコニコしていました。
今の私には笑顔を保つ体力すら残っていないというのに、一体、ナツのどこにそんな力が残されているのでしょうか。
ナツの謎がさらに深まるばかりです。
「ほんと……ギリギリ……」
「とりあえず座りましょうか」
「そうね……」
私たちは、近くに空いていた座席へ適当に座りました。
「ほーん。今日は他の学校も帰りがはやいんだね」
私たちと同じで、テスト終わりで帰りの時間がはやいのでしょう。
車内の座席は、ほぼ他校の生徒で埋め尽くされていました。
右を見てみれば、男子四人組が「あのゲームがさぁ!」「え、マジか!」「いやいや! そりゃねぇわ!」「そおかぁ?」と、スマホを片手に娯楽について熱弁していました。
左を見てみれば、女子二人組が「今日、アイツがさ?」「え!? ヤッバ!」と、第三者を話の種にして会話を展開させていました。
心配そうに私の顔をのぞくと、ナツは「サラ、大丈夫? さっきからめっちゃゼーゼーしてるけど」と言いました。
私は、呼吸を整えながら「うん……大丈夫……全然、大丈夫だから……」と言いました。
ですが、大丈夫? と言いたいのは私の方です。
ある程度運動ができる女子だとしても、あの長い距離を走ればどんな子だってバテてしまうでしょう。
でも、ナツは違う。
運動部と比べ、美術部はそこまで体を酷使しない部活動であるにもかかわらず、女子バスケットボール部やバレーボール部から助っ人を頼まれるほど、抜群に運動神経がよかったのです。
それこそ、「なんで運動部じゃなくて、美術部なんかに入ったの?」と聞きたくなるほどには。
「えと、それで聞きたいんだけどね? そのイチゴスペシャルゥ……なんとかーってさ」
「スペシャル! イチゴ! デラックスゥ!!」
ナツはいきなり声のボリュームを上げ、私の鼓膜を破壊しにかかりました。
話題が食になった瞬間、この食いつきよう。
餌をちらつかせると、しっぽを振って喜ぶ子犬のようです。
「そうそれ。そのアイスってどんな感じだったの?」
私がそう聞くと、ナツは「あ、あぁー」と言い、「私、実はまだ食べたことないんだよね」と続けました。
「え? そうなの?」
予想外の返答に、私は驚きました。
てっきり私は、「あるよー」という答えが返ってくるものだとばかり思っていたのですが、意外なこともあるものです。
「ん! だから楽しみなんですよー!」
「そっか。私もはやく食べてみたいんだよね。なにせイチゴアイスだし!」
「次はー、桜薄駅ー、桜薄駅でございます」
私たちの会話がちょうど一区切りついたところで、車内に到着を知らせるアナウンスが流れました。
床に置いていたバッグを膝上に乗せると、ナツは「着いたみたいっスねぇ」と言いました。
「みたいね」
私たちはバッグを肩にかけながら立ち上がり、ドアの前で最後の冷気を楽しむことにしました。
「うっわぁ……なんか隙間からあっつい空気が……」
「ナツ、それ以上言っちゃダメ……もっと暑くなるだけだから……」
二人そろってウダウダしていると、空気圧の音とともにドアが開き、車内に熱気がなだれ込んできました。
「うへぇぇ……じゃあ降りますよー……」
「ん……」
ようやく電車から降りる覚悟を決めた私たちは、一歩、コンクリートを踏みしめました。
ナツの第一声は、「あぢー」
案の定と言ったところでしょうか。
「あっつ……」
それは私もですが。
今日だけで百、いや、千回は聞いた単語です。
私としては、もうこれ以上その単語を聞きたくはありません。
ナツは、手で風を扇ぎながら「さっさといきましょー……」と言いました。
「いこいこ……」
『暑いって口で言うから暑いって感じる』
この考えで一致した私たちは、無駄な体力消費を抑えるためにしゃべることをやめ、お店まで無心で歩くことにしました。
─────────────────────
「「あの店だー!」」
駅から歩いて数分ほどでしょうか。
まだ少し先ではありましたが、事前に調べていたお店と同じ外観をした建物がぼんやりと見えてきました。
一秒でもはやくこの蒸し暑さから解放されたい私たちは、自然とお店まで早歩きで向かっていました。
横断歩道を渡り、長い道をひたすらまっすぐ歩き、ようやくお目当てのお店に到着しました。
ナツは、お店の前で「ついたー!!」と叫びました。
「はやく入ろ!」
「もちろん!」
ナツはそう言うと、アンティーク調をしたドアを手前に引きました。
「いらっしゃいませー」
若い女性店員の声とドアチャイムの軽快な音が店内に響き渡りました。
「はひょー!」
「はひー!」
お店に入った瞬間、上空から降り注ぐ冷気の力によって、私たちの体は魔法にかかったかのように動かなくなりました。
『何時間でもこのお店にいれちゃう!』という謎の自信が湧き上がるくらい店内は涼しかったのです。
「……って! のんきに涼んでる場合じゃなかった! 例のアレだよ、アレ!」
「アレ、ね!」
お店に来た本来の目的を思い出した私たちは、肩を寄せ合いながらレジの前に並びました。
私の顔をチラリと見ると、ナツは小声で「せーの」と言いました。
その合図に合わせて、私たちは同時にアレの名前を叫びました。
「スペシャルイチゴデラックス、お願いします!」
「かしこまりましたー」
元気よく注文済ませた私たちは、奥の方にあった二人用の席に座りました。
バッグを椅子の下に置いた私は、ぐるっと店内を見渡してみました。
平日の十二時半頃だというのに、五、六十近くある席の大半がすでに埋まっていました。
私は笑いながら「めっちゃ人いるじゃん」と言いました。
両手で顔を覆い隠すと、ナツは「私の完璧なる計画がぁ……」と言いました。
『完璧なる計画』という名の『完全なる無計画』
いつものナツらしいです。
ですが、もしこれで席を確保できなかったと思うと……
正直、鳥肌が止まりません。
「んまぁ、こうして席には座れてるんだからさ? その完璧なる計画とやらは成功してるんじゃない? 計画の内容は知らないケドネ」
「そ……」
「……そ?」
ナツは腰に手を当てると、なぜか誇らしげに「そのとーりです! 実はこれも計画のうちだったりしちゃうのです!」と言いました。
「切り替えはっや!」
「それが唯一の取りえなので!」
ナツはそう言うと、手のひらをドリルのように回転させました。
「いや、そんなことはないでしょ!」
「うわっはは! どうなんだろうね!」
ここで一度、私たちの会話が途切れました。
少しの間を置いて、私から話を切り出しました。
「ねぇナツ」
ナツは頬づえをつきながら「んー?」と返事をしました。
「また聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん! なんでも答えます!」
ドンと胸をたたくと、ナツはいつも通りの笑顔でそう答えてくれました。
ナツの善意に感謝しながら、私は口を開きました。
「その、イチゴアイスってさ」
「うん」
「どんな色なの?」
私がそう尋ねると、ナツは「はいはいはい!」と言ってうなずきました。
「イチゴアイスの色は、ピンクって色」
「中には、桃色とか桜色っていう人もいるね」
「赤って色と白って色を混ぜた色なの」
ナツはそう言うと、人差し指で空中をかき回しました。
「へぇ。その二つを混ぜるんだ?」
「そそ。でね? こっからが難しくてさ」
「ピンクって一括りで言っても、おんなじピンクの仲間がたくさんあるわけですよ」
「それはー……色が似てるってこと?」
「うん、そんな感じ。配分で濃いだとか薄いだとか、別の色を混ぜたりだとか。レパートリーがすごく豊富なわけです」
イギリスの紳士のように口ひげを整える動作をしながら、ナツはそう言いました。
(どうせ似てる色なんだったら、みんなピンクで呼び方を統一しちゃえばいいのに)
(色でもなんでもそうだけど、どうして少しの違いを求めたがるんだろう……?)
心の中で私はそう思いました。
「なんか難しそうだね」
肩を大きくすくめると、ナツは「まぁね。でも結局は慣れだから」と言いました。
「私、思うんだけどさ、色の世界って結構複雑だよね」
するとナツは、一瞬だけ驚いた表情を私に見せました。
「私も……そう思うな……」
ナツはそうつぶやくと、笑顔を消し、真剣なまなざしを私に向けました。
「なんかね? 色の世界って私そっくり……って感じがしてさ」
ナツはそう言うと、左手の人差し指でテーブルの上をつつきました。
「すべては重ね塗りなのよ。なんだってそう」
「みんな、そうやって隠すんだよ」
「……え? それってどういう────」
ナツに聞き返そうとした、その時。
『──いや、本当は知っているんだろう?』
心の奥底に巣食う悪魔がそうつぶやいたのです。
(……知らない)
『本当に?』
(……ホント)
『ふぅん……?』
そう言うと、悪魔はいったん口を塞ぎました。
「お待たせいたしましたー。スペシャルイチゴデラックスでお待ちのお客さまー」
レジの隣にある商品を受け取り口から、私たちを呼ぶ女性店員の声が聞こえてきました。
「あ、呼ばれた」
声に気がつき、私が立ち上がろうとすると。
「いいよいいよ、私が行ってくるからさ。サラさんはここで待っててくださいなー」
「いいの?」
「いーのいーの!」
「そか、ありがとね」
ナツは素早く立ち上がると、細かくスキップをしながら受け取り口へ向かっていきました。
二人用の席にポツンと取り残された私。
ナツを待っている間、私はスマホを触る気にもならなかったので、そっとまぶたを閉じ、明日のことについて考えながら時間をつぶしました。
「お、おまたせぇ……」
脳内で細かく予定を立てていると、後ろからナツの苦しそうな声が聞こえてきました。
それからすぐ私の目の前で、ゴトン! という鈍い音がしました。
(テーブルに置いただけでそんな音するかな普通?)
疑問に思った私は、実物を確認するべく、ゆっくりまぶたを開きました。
「でっっっか!!」
「でしょお!?」
そこにあったのは、山。
テーブルの上に山がそびえていたのです。
完全に別物。
写真で見たものとはサイズが完全に違う別物が、テーブルの上にあったのです。
ラーメンの器を参考にしたと思われる巨大なコーンの中に、今にも崩れ落ちてしまいそうなほどのアイスとカットフルーツがこれでもか! と押し込まれていました。
アイスの中心には、ランド・グ・シャが十枚。
さらに、写真には載っていなかったはずの板チョコがまるまる四枚。
とどめに、チョコスティックが二十本アイスに突き刺さっていました。
今までたくさんのアイスを食べてきたつもりですが、これほどまでに巨大なものは見たことがありません。
そもそもこれは、アイスクリームと呼んでいい代物なのか? と疑ってしまうほどです。
「どう? 驚いたでしょ!」
「うん、うん。控えめに言って、腰が抜けた」
「あはは! それは大変だ!」
ナツは、笑いながらパチパチと手をたたきました。
「いやだってさ、いくらなんでもこれは大きすぎるでしょ。私フードファイターじゃないし。食べきれるかな……」
私がそう心配すると、ナツは笑顔で「んま、大丈夫でしょ!」と言いました。
「二人で食べちゃえば、わりとあっという間よ。最悪私一人でどうにかするからさ! それじゃ、いざ実食!」
ナツはそう言うと、トレーの隅に添えられているスプーンを手に取りました。
ナツに続き、私もスプーンを手に取りました。
アイスのサイズが大きければ、当然、スプーンのサイズも大きい。
ツボの部分だけでも、私の握りこぶしくらいの大きさをしていました。
お互いに最初の一口をゴッソリとすくい上げ、アイスを口の中へ運びました。
「「!!!」」
「おいひー!」
「おいしー!」
同じタイミングで、同じ言葉が飛び出しました。
最初の一口は、ピリリとした酸味。
かみしめると、イチゴ本来の甘さが口いっぱいに広がりました。
「これはサイコーだわ!」
「もう一口!」
私は次の一口をすくい、再び口の中へアイスを入れました。
「あ、私この板チョコもらうねー!」
ナツはそう言うと、突き刺さっていた板チョコを一枚引き抜きました。
「それじゃあ私も!」
私も板チョコを引き抜き、パリパリとかじりながらナツとの会話を楽しみます。
「うん、おいし! てかさ、この板チョコとかって写真にはなかったよね?」
「これね、この店のサービスなんだよね。しかも無料! お店の人ってば、マジで神!」
(なるほど。これは人気になるわけだ)
一人心の中で納得しました。
「ほんと、お店の人には感謝だね。あ、私このウサちゃんリンゴもらうね」
「それじゃあ私はー……この長ヒョロパイナップルで!」
私たちはその後も会話を楽しみながら、山のようなアイスを食べ進めました。
次の一口、次の一口と思って食べ進めていたら、テーブルの上に残っていたのは、コーンの粉がパラパラと散らばっているトレーだけでした。
最初は「こんなの絶対食べきれない!」と思っていたのですが、いざ食べ始めればワケもなく完食していました。
正直、私自身でも驚いています。
「ありがとうございましたー」
「ふぃー! たべたたべたー!」
ナツはそう言うと、満足そうな表情を浮かべながらおなかをさすりました。
「もう一生分のアイスを食べた気分よ!」
「いやー! ほんとほんと! とか言っても、明日になったらアイスとかお菓子とか普通に食べてると思うんだけどサ!」
「マジですか!」
「大マジです!」
「ははは!」「あっはは!」
「あー! たのしっ! んじゃそろそろ帰りますか!」
「そうしましょうか!」
─────────────────────
「とーちゃくっと!」
ナツは縁石の上から飛ぶと、両足でストンと着地を決めました。
帰りは日が暮れて比較的涼しかったため、ナツが途中で騒ぐこともなく、桜薄駅まですんなり移動することができました。
「そういえばさー」
「うん?」
「サラの家ってどこら辺にあったっけ?」
ナツは、自動販売機でカルピスを買いながらそう言いました。
「私の家? あっちの方だけど」
私はそう言い、家がある方向へ指をさしました。
するとナツは、「あー……」と反応しました。
「あっちの方って確か、黄恵大だよね? ゴーストタウンで有名な」
その発言に対し、私は笑いながら「ゴーストタウンって! ちゃんと人はいるからさ!」と否定しました。
ですが、ナツが言っていることは紛れもない事実。
「いやまぁそうなんだけどさ? 慣れないっていうか、あんまり好きになれないんだよね。あの場所」
「なんか、裏側を見てるって感じがしてさ? それに、私────」
「まもなくー、下りー、赤峰行きが到着いたします。黄色い線の内側まで……」
まるで、ナツの話を強制的に終わらせるかのように、タイミングよく電車の到着アナウンスが流れました。
「ってヤバ! 私行くわ! 今日はありがとね!」
「うん。バイバーイ」
駅前で軽く手を振り合うと、ナツは改札を通ってホームの奥へ姿を消しました。
ナツの姿が完全に見えなくなったところで、私は手を下ろしました。
(お母さんが待ってるし、私も帰ろっと)
体を左に向け、私は一人歩き出しました。
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一人。
ただ一人。
その日もただ一人だけ、私は寂しい道を歩いていました。
黄恵大は、多くの家が立ち並んでいる住宅街だというのに、人も、車も、何一つとして通っていないのです。
たまにペットの散歩で歩いている人を見かけるだけで、それ以外の用途でこの道を使っている人など、私は見たことがありません。
この住宅街は、魂を失っているのです。
私はナツと同じように縁石の上を歩き、周囲に目を巡らせました。
どの家も外からの視線を遮るように、カーテンがきっちりと閉められていました。
視線を足元へ落とします。
ニュースアナウンサーが報道をする声。
鍋でコトコトと具材を煮る調理音。
洗濯機がカラカラと回る機械音。
さまざまな生活音が四方から聞こえてきます。
どこかの家の生活音を聞くたび、こんな寂しい住宅街にも確かに人が存在しているんだな、と私は改めて実感するのです。
しばらく縁石の上を歩いていると、横断歩道に差し掛かりました。
ピョンとジャンプをして、私は縁石の上から落ちました。
信号機を見ると、上の部分が白く点灯していました。
止まれの合図です。
少し顔をのぞかせて左右を確認してみたのですが、当然、車は一台も走っていませんし、自転車も通っていません。
信号が変わるまで髪の毛を触りながら待っていると、上の部分が点滅し始め、やがて下の部分が点灯しました。
渡れの合図です。
ただ渡るだけじゃつまらないなぁ、と思った私は、なんとなく遊び半分の気持ちで白線の上だけを歩くことにしました。
下を見ると、黒と白のラインが交互に流れていく。
君と私は、どこか似ている。
この世界に産み落とされてから、黒と白だけがすべてを支配している。
悲しいよね。
だって、それだけなんだもん。
それだけなんだもんね……。
…………。
そう思った時、私の耳元で悪魔がささやきました。
『普通の人の目には、どんな世界が広がっているんだろうね?』
『きっと無限に広がっているんじゃないかな? 美しい世界ってヤツが』
『この信号も、あの太陽も、ぜんぶ、ぜんぶそう』
悪魔は、さらに追い打ちをかけます。
『なんでなんだろう?』
『なんで、私だけなんだろう?』
『なんで、私が選ばれたんだろう?』
『ねぇ、教えてよ。神さま』
『ねぇ』
『ねぇ』
『ねぇ』
『ねぇ』
『ねぇ』
『ねぇ』
『なんで?』
『なんでなの?』
『そんなのおかしいよね?』
『それだったらさ、私なんて────』
『──生きてる価値、あるの?』
「うるさいっ!」
私の怒鳴り声が、静けさの中に響きました。
同時に、私のそばから悪魔がいなくなりました。
「うるさい……」
「うるさいよ……」
「もう黙ってて……」
泣き崩れてしまいそうになった、その時。
ガチャン……
「…………」
胸の辺りで、金属同士が鋭くぶつかり合うような音がしました。
私は、そっと胸に手を当ててみました。
一定のペースで心臓が鼓動しているだけ。
そのまま一分くらい手を当て続けてみたのですが、特にこれといった変化は感じませんでした。
なので、異音の原因は私のせいか、単に聞き間違いだったということで片づけ、再び足を動かしました。
─────────────────────
「ただいまー」
帰りのあいさつをしながら玄関のドアを開けると、エプロン姿をしたお母さんが廊下の中央に立っていました。
「おかえりなさい」
お母さんはこうして毎日、私の帰りを笑顔で迎えてくれるのです。
「今日はどうだった?」
私が家に帰ってくれば、お母さんはまず今日一日の出来事について尋ねてきます。
それに答えるのが私の日課です。
「今日はねー、テストが終わったあと、ナツと一緒にこんっっなに大きなアイスを食べたの!」
アイスの大きさを強調させるため、私は手で大きな円を描きながらそう言いました。
「そうだったの、なんだか楽しそうね」
お母さんはそう言うと、ニッコリほほ笑みました。
「たのしつかれたって感じ! あ、今日ご飯あとでもいい? まだおなかの中にアイスが残っててさ」
「もちろん」
「ありがと!」
お母さんに水筒とタオルを預けた私は、そのままお風呂へ入りました。
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「ふぅー……」
今日一日の疲れが、三十六度のお湯の中へ溶けていきます。
ズリズリと体勢を深く崩し、私は肩までお湯につかりました。
お母さんが先に入浴剤を入れてくれたのでしょう。
灰色のお湯からは、ほんのりと森の香りが漂ってきます。
私は無言で灰色のお湯をすくいました。
昔、お母さんが言っていました。
森というのは、一面に『緑』という色が広がっている幻想的な世界なのだそうです。
しかしそれは、私には一切関係のないこと。
『どんな世界が広がっているんだろうね?』
脳裏で悪魔の言葉がちらつきました。
「……く…………」
そんなこと、分かっているのに。
分かっているはずなのに。
心のどこかで、いまだにそれを拒絶してしまうもろい私が存在しているのです。
「……なんでだろう」
「なんでだろう……ね……」
涙がこみ上げてくると同時に、左首筋に鋭い痛みが走りました。
私はそっと左首筋に触れ、手のひらを確認しました。
「…………」
「……そか」
私の手のひらは、真っ黒い液体で汚れていました。
これは、血。
私の血です。
「うわ……」
灰色のお湯は、私の血が混ざったことで黒く濁っていました。
私は急いで浴槽から上がり、鏡の前で左首筋を確認しました。
鏡に映ったのは、首筋と左腕を黒い血で汚した私の姿でした。
「……大丈夫、落ち着こう。これは私の勘違い……」
私は目をつぶり、左首筋を手で強く押えながら、何度も、何度も、自分にそう言い聞かせました。
しばらく首筋を押えていると、痛みがゆっくり引いていくのが分かりました。
痛みが完全に引いたタイミングで首筋から手をはなし、もう一度鏡の前で自分の姿を確認しました。
もう血は流れていませんでした。
左腕も血で汚れていることはありませんでした。
お風呂のお湯も血で汚れていることはありませんでした。
すべて、私の幻覚なのです。
私だけにしか見えない血。
私だけにしか見えない傷跡。
この傷跡が、いつまでも、いつまでも、決して癒えることなく黒い血を流し続けるのです。
私は、この傷跡とともに生きていかなければならないのです。
これからも、ずっと。
死ぬまでずっと。
「…………」
私は髪の毛と体を洗い、お風呂から出ました。
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お母さんに心配をかけないよう、私は何ごともなかったかのように平然とした態度でリビングに入りました。
テーブルに視線を向けると、私の席にだけ夕食が並んでいました。
お母さんの正面に座り、私は手を合わせました。
「いただきまーす」
うれしいことに、今夜のメインはハンバーグでした。
お母さんが作ってくれる肉じゃがとハンバーグ、それとイチゴを使ったデザートが私の大好物です。
ハンバーグを一口サイズに切り分け、ご飯と一緒に口の中へ放り込みました。
「んー! おいし!」
「そっか。それはよかった」
お母さんは、真っ暗闇の世界にポツンと取り残されてしまった純白の月を見上げながら、声だけを私のところへ返しました。
なんだか『心にあらず』といった感じです。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
呼ぶと、お母さんは私の顔を見て返事をしました。
「ピンクってさ、お母さん的にどんな色だと思う?」
私がそう尋ねると、お母さんは「あら、またナツちゃんに教えてもらったの?」と言いました。
私は冷たい麦茶を飲みながらうなずきました。
「二人とも、本当に仲がいいんだねぇ」
お母さんはそう言うと、ご飯を頬張る私の姿を見てニコリと笑いました。
「ま、昔からのつき合いだからね」
「そうだね。だからこそ、これからもナツちゃんのことは大切にしなくちゃダメだよ? いい?」
私の瞳を見つめながら、お母さんはそう訴えました。
「もちろんよ」
「だったらよし! えっとそれで、ピンク色の話だったっけ?」
ご飯を口に含んだまま、私は首を縦に振りました。
「そうだねぇ、私の中のイメージだと……ひだまりかな?」
「ひだまり?」
「そう。でもひだまりって言ったら、多くの人は『オレンジ色』って答えると思うの」
私はオレンジと聞いて、少し前にナツが言っていたことを思い出しました。
「オレンジ? んー、元気がもらえる色……ってところかな」
「オレンジはー……あ、ちょうどあった」
「あの太陽」
もしかしたら、私が帰りに見たあの夕日もオレンジ色だったのかもしれません。
「でも、私の中のピンク色はひだまり。人を優しく照らして導いてくれるようなやわらかい色ってところかな」
「……そうなんだ。ありがとう、お母さん」
「いいんだよ。気になることがあったらいつでも聞いていいからね」
お母さんはそう言うと、再び純白の月を見上げました。
「うん。ごちそうさま」
私はチェアから立ち上がり、重ねた食器類をシンクの隅へ置きました。
その後、洗面所で歯を磨き、髪の毛をドライヤーで乾かした私は、自分の部屋へ戻りました。
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「さて、やるかな」
テストが終わったとしても、私がやることは変わりません。
次回のテストで悪い点数を取らないよう、早速テスト勉強に取りかかりました。
自主学習ノートに問題のポイントをまとめ、間違っていた箇所をすべて直しました。
黙々と問題をこなし続け、一時間が過ぎました。
ここで、苦手教科である数学の勉強に移りました。
数学だけに関しては、いつも赤点スレスレ。
通知表を見ても、数学だけはほぼ最低レベル。
数学だけは、どうしてもダメなのです。
数字を見ていると、頭が痛くなるのです。
いわゆる数学アレルギーというヤツです。
(とりあえず、テスト返却のときにすぐ直せるようにしなくちゃ……)
そう思った私は、数学の教科書とテストの問題用紙を広げました。
わけの分からない計算式、わけの分からない記号、わけの分からない説明文。
(あ、あ、あ、あ……)
(隙間なくビッシリと……)
「うわぁぁ……」
「……もうムリ、ホントにムリ、ムリムリギブアップ……なんか頭痛くなってきた……」
机の上に広げて速攻、教科書と問題用紙を床に投げ捨てました。
スマホで時間を確認すると、あと数分で二十三時になろうとしていました。
ちょうどいい頃合いだったので、私は勉強道具を片づけ、部屋の電気を消してベッドの上に身を投げました。
仰向けの状態でまぶたを閉じ、私はそのまま暗闇の世界へ誘われたのです。